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『アパートに帰ると、忍者の妹が襲ってきた』




   ≪3≫

 部屋の真ん中で無様に転がった蛙太は、必死の思いで体を動かそうとしていた。
「う、うぐ……ゲゴ……」
 その甲斐あってか、はたまた天に一念通じるものがあったのか。
 蛙太の指先がピクリと動き、続いて首筋あたりに気の通じる手応えがあった。
「では、兄上。お覚悟を」
「ゲゴゴ……ま、待てっ……!」
 喉をふりしぼって、妹の動きを制しようとする蛙太。
「よせ。やめるんだ」
「命乞いなどは聞きたくはありません」
「違う! それ以上、俺に近づくんじゃない!」
 楓の足がピタリと止まった。
(……よかった。どうやら間に合ったか……)
 彼女が立ち止まった位置からほんの数歩踏み出せば、そこは蛙太の忍法の間合いになる。
 蛙太の精神、もしくは肉体が命の危機を感じると、その技が発動してしまう。そして恐るべきことに、彼の忍法はたとえ蛙太自身の意識がなくとも、自動的に効果を発揮する。
 ただひとつだけ欠点があるとするならば──。
 この忍法が女にしかかからない、との点につきる。
 そういった意味では、楓はかっこうの餌食であった。生物学でいう女の性別を持つものであれば、生まれたばかりの赤子であろうが母であろうが他人の女房であろうが米寿を迎えた老婆だろうが、誰であっても蛙太の忍法は防ぎようがない。
(……楓を……妹を俺の忍法の餌食とするわけには!)
 蛙太にとって楓は、自分の命よりも大切な妹だ。
 彼女を守らなければいけない。たとえ我が身が土に還ろうとも、愛する妹を傷つけるわけにはいかない。
 蛙太は鼻息を荒くして、必死にまくしたてた。
「いいか。よく聞くんだ。俺の忍法は、俺の意思とかかわりなく効果を発揮する。だから、近づけばおまえが危ない。わかってくれ」
「ふん……つまらぬ言い訳を……」
「言い訳などではない! 本当に危険なのだ」
 せわしなくしゃべったせいか、また舌がもつれてくる。
「お、おお、俺は……だ、大事な妹のおまえを傷つけたくないのだ」
「大事な妹……だと」
 楓の冷たい口調に、わずかに熱がこもった。
「兄上。ならばなぜ、里から逃げなさった」
「いや、それは……それには諸々の事情が……ゲコ」
 痛いところをつかれて、蛙太はちょっと口ごもる。
「……とっ、とにかくまずは一旦、この場を収めてほしい。頼む。お願いだ」
「近づいてはならぬのなら、近づかずに手を下せばよろしい」
 楓は腰の帯から手裏剣を取り出した。
「ハッ──!」
 気合一閃、研ぎ澄まされた小さな刃が投じられる。
 刃が突き刺さる瞬間、蛙太の体の表面にヌラリと怪しい光が走った。
 次の瞬間、手裏剣はあらぬ方向に跳ね返り、その刃先はむなしく壁に吸い込まれる。
 楓はツリ目気味の黒瞳をさらに鋭くさせて、兄の体に視線を注ぐ。
「今のが、兄上の忍法でございますか」
「いや。これは……」
 蛙太の忍法は、発動の直前に副次的な作用をもたらす。
 体の表面に油じみた分泌物が滲み出る。すると、ただの肥満体にすぎない彼の体は、強靭な鎧に早変わりする。皮膚の表層を覆う皮脂成分の界面活性効果によって、刃物はおろか銃弾さえも弾いてしまうのだ。
 そのことを説明しようとするより早く、楓が反応した。
「刃が通らぬといえど、これならば──!」
 少女のたおやかな腕がすうと上がり、大きくつき出た胸元の前で両掌が組み合わさる。
 白魚のごときしなやかな指を左右のそれぞれ一本ずつだけ伸ばし、残る四指を掌の内側に折りたたむ。そうして、結印とともに念じるかのように『ノウマク、サラバタタギャテイビャク……』と真言を呟く。
 すると摩訶不思議なことに、彼女の黒髪がザワザワと蠢き出した。
「……げげっ!?」
 信じられぬ現象を前に、蛙太の口から思わず蛙そのもの悲鳴が出る。
 楓が、ぽつりと囁くように言った。
「伊賀忍法──『黒阿修羅』」
 その名のとおり、黒身の阿修羅のごとく彼女の艷やかな黒髪が腕となり、優美な肢体を包み込む。
 果たしてこのようなことが人間に可能なのであろうか。
 一説によれば、毛髪には自律神経の働きが強くかかわっており、そのため過剰なストレスを感じれば髪が抜け落ちるなどとは誰もがよく知るところであろう。そしてまた、血管などは交感神経と副交感神経の連携によって収縮が行われることも、近代的な医学においては既知である。
 それらと同様の効果を複合的に組み合わせた現象をもって、毛母細胞に働きかけている。おそらく、そういった仕組みであろうことは想像に難くない。
 肉体が持つ天然の作用を増幅し、自在に操る。そんな人間離れした技を可能とする、忍法修行のなんと恐るべきことか。
 濡れ色に染まった妹の髪に全身を絡めとられ、蛙太は驚愕の声を放った。
「な、なんと……!? ぐぐぐ……」
 六本の豪腕となった黒髪に締めつけられ、まさに骨が軋む。
 身動きはおろか、逃げることさえできない。
 楓は、捕えた兄を空中で磔にし、キッと鋭い目で睨みつける。
「私の髪で……この忍法で、兄上の全身の骨を砕いてさしあげます」
「うぐげご……」
「覚悟なさいまし、兄上」
 そのとき楓の優美な眉根に、悩ましげな縦皺が刻まれたことを兄は気づいたか否か。
(愛する妹の手にかかって死ねるのだ……これはこれで、悪くない最後かもしれないな……)
 あっさりと覚悟を決めた蛙太の脳裏に、昔日の走馬灯がかけめぐる。
『ガマにーたん、ガマにーたん』
 楓が五つか、六つぐらいの頃だったろうか。
 天気の良い日に、蛙太が川辺で寝転がっていたときのことだ。
『お花を摘んだの。たくさん。これ、綺麗でしょ。ガマにーたんにあげるね』
 両手いっぱいに小さな白い花を抱えた妹が、息を切らして走ってくる。
 その姿は今でも目に浮かぶ。
 けっして忘れることのない、大切な思い出であった。
(そんなに大事なおまえを置いて、里から逃げた兄を許してくれ……)
 蛙太の目頭に、じわと涙が浮かぶ。
 皮肉なことに、情のこもったそのひと雫が呼び水となったらしい。
 シューッとほとばしる蒸気のごとく、蛙太の体のあちこちから白っぽい煙が噴き出した。
 いよいよもって本格的に、彼の生存本能に根ざした部分が活発に働き出したらしい。襲い来る忍法の脅威に対して、みずからもまた忍法をもって対抗せんとする、侮りがたい生命の機能であった。
 蛙太から吹き出た煙は、まるで意思あるもののごとく楓を狙う。
「こ、これはっ……!?」
 驚きの声を放ちつつも、楓はとっさに煙から遠ざかろうとした。
 しかし、彼女の髪がいまだに蛙太に絡みついたままだ。そのため、動作がわずかに遅れた。
 煙を吸ってしまった楓は肩を震わせ、その場に膝をつく。
「くっ……これが、兄上の忍法なの……か」
 蛙太は丸い目をさらに丸くさせ、声を焦らせる。
「かっ、楓! すまん……大丈夫か?」
「いったい何を……うぅ」
 軽くうめいた口を押さえていた楓の手が、すぅと落ちていく。
「体に……うう……腕に、力が……」
 そのまま彼女の体は糸の塊のように、床にもつれ転がる。
 もちろん楓は立ち上がろうとするのだが、不思議なことに手足が畳の上をすべるかのごとく手応えがない。どれほど手足に力をこめても、体を支えることができなくなっていた。
 忍び装束に包まれた美肢体が艶かしくくねる。
 陶器を思わせる白さもまぶしい細腕と美脚。四肢が動くと、背筋から柔腰のくびれが連動し、妖艶な残像を残す。その動きが臥所で悶える女体そのものよりも、なおのこと扇情的な趣をかもし出している。
 そんなみずからの動作が、さも辱められたかのように感じるのだろう。
 楓の美貌は赤く染まり、怒りと羞恥がないまぜの表情となっていた。
「兄上。私に……何をした!」
「これが……俺の忍法」
 蛙太の返事は、わななきにまみれている。
「これこそ、伊賀忍法『女殺油地獄』なのだ……」
 小さく、かぼそく、消え入るような声。
 蛙太は、はからずも忍法を使ってしまったことに衝撃を受けていた。
(ああ……! 最悪だ!! なんてことだ……)
 嘆いてみても、すでに遅い。
(まさか、楓に……妹に、俺の忍法がかかってしまうとは……)
 相手が女であるならば、まさに向かうところ敵なしの忍法。
 蛙太にとって己の命よりも大事な妹が、その餌食となってしまった。





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