≪1≫ 華やかな古都ブルンネンシュティグの南に、川一本を隔てて人の寄り付かない土地があった。 ギルディル川の中域に広がる沼地。そこはメロウやリザードマンの生息する場所として知られていた。 川の沿岸部南側は、野生化した怪物が野放しのままうろついている。文明化が進む街、それも大都市の近くでありながら、自然のままが保たれているのだ。 なぜかと言えば理由がある。 そこに棲む生き物たちは、いずれもさほどの危険もなく、また怪物たちから採取できる素材が指輪などに加工できるためでもあった。 堅牢な防壁に囲まれた都市と、市街地で暮らす人々にとっては、さしたる脅威ではない。 それ以外の者にとっては、もちろんそうではなかった。 シュトラセラトから揚がってきた交易品を運ぶため、危険をおしてテレットトンネルを通り抜けてくる商人。あるいはスマグから来た学究の徒が、研究のために検体を採取しようと、無謀な試みを抱くなど。この地を訪れる者の目的はさまざまだ。 だが、川べりに広がる沼地を抜け、さらにその奥にある洞窟へと入っていった少女は、それらのいずれにもあてはまらなかった。 「ほら、こっちよ。中に入ってちょうだい」 赤い頭巾を被った少女が、背後に呼びかける。 歳の頃は十五、六といったところだろうか。 日の光を受けると薄緑に輝く大きな瞳が、印象的な少女だった。 その右手の先に、ほっそりとした指先で包むように携えられた笛。木を削って作られた粗末な道具は、一見したところただの楽器だと誰もが思うだろう。だが、それを見れば、彼女が神秘の技をもって危険な怪物を飼い慣らす職にある者だと、一部の冒険者たちには一目瞭然だ。 怪しげな身上を想像させるいでたちである彼女だが、均整のとれた体から放たれる空気は健康美に満ちていた。身につけた鎧は軽めに改良を施された革製の短衣であるらしく、上下のセパレートになっている。元は無骨な防具だが、発育途上にあるとおぼしき胸元の膨らみは、女性美を再現したかのごとき曲線を描き、街をあるけば男たちの視線をよく集めることだろう。スカート状になった裾からスラリと伸びる美脚線も、瑞々しいまでに白さが眩しい。また、本人は意識していないのだろうが、通気性をよくするために臍まで剥き出しとなっているくびれたウエスト部分からは、咲き誇るような女の匂いと、上質の絹よりもさらに手触りの良い肌が丸見えであった。 金色の髪で飾られた優美な顔立ちは、穏やかで優しい雰囲気に包まれている。神秘性と柔和さがあいまったその美貌をもってすれば、たいていの男は易々と飼い慣らせてしまいそうなほどの美しさだった。 そんな溌剌とした少女の優しい呼びかけに返ってきたのは、情けないほど甲高い獣の唸り声だ。 「キエエック〜」 「ウルラク。お願いだから、私の言うことを聞いて」 手なづけてから日の浅いコボルトは、なかなか命令に従わない。 かけだしのビーストテイマーであるネネルには、悩みの種だ。 もっとも、この美しく、いかにもかよわい少女が凶暴なコボルトを手なづけたといっても、にわかに信じる者は少なかろう。 辺境のロマ村に伝わる、モンスターを飼い慣らす術。 それを彼女が習得していると理解できる者は、さらに少ないに違いない。 「グルルルル……」 ネネルの足元で、いらだつような唸り声が発せられる。 声の主は、しなやかに伸びる足の先にうずくまる赤い獣からだった。 ネネルが召喚の術を用いて精霊の世界から呼び出したケルビーは、真っ赤な犬の姿をしている。さながら冥府の番犬とでもいうように、さきほどから洞窟の外めがけて歯を剥いているのは、足並みの揃わないコボルトにいらだっているからだろうか。 「ケルビー。ウルラクをおどかさないで」 気性の荒い火の精霊をなだめるため、彼女はしゃがんでそっと赤い毛並みを撫でた。 「ウルラク、おいで」 「キクェ〜……」 何度か呼びかけると、ようやくコボルトは洞窟内へと入ってくる。 「いい。あなたたち、これからが本番なんだからね。ちゃんと仲良くするのよ」 頭巾からこぼれる金色の髪を細い指先で透きながら、ネネルは二匹の従者に優しく呼びかけた。 「ガルルルル〜」 「クエック! キエエェッ!」 天使のような微笑を浮かべるネネルの前で、コボルトとケルビーが睨みあう。 「いい? これから私たちは、この洞窟にいる首なし怪物を捕まえるの」 ネネルがやさしく語りかけると、獣たちはようやくおとなしくなった。 彼女は一団の先頭に立ち、勇敢に前を進む。従属している二匹は、そのすらりと伸びた背筋を拝むように後をついていく。 洞窟内の入り口付近にいる怪物を避けてしばらく進むと、ネネルの前に柵のようなものが見えてきた。 腰の高さほどもあるそれは、黒ずんだ木を縄で結んで、直接地面にさしてあるらしい。 柵より奥のほうからは、えもいわれぬ腐臭が漂ってきた。海棲生物特有の生臭さと脂じみた獣臭をまぜあわせれば、このような悪臭を放つだろうか。その独特の臭気が、まるで他者の侵入を拒む結界となっているかのようだった。 (いよいよね……) ここから先は、危険な生物の棲む集落がある。 人々に首なし怪物と称される、オクトパストンの棲み家。粗末な木で作られた柵のむこうに、岩壁に暗い穴がいくつも並ぶ。臭いの源は、どうやらそこであるようだ。 「ガゥルルル〜」 醜悪な匂いに敵愾心を刺激されたのか、ケルビーが低い唸り声を放った。 「ダメよ、ケルビー。静かにしていてね」 ネネルはたおやかな指先で、赤い犬の首筋を軽く掻いてやる。今にも手あたり次第に噛みつきそうな顔つきをしていた火の精霊が、たちまちおとなしくなった。 「いい、ここでじっとしていてね。ウルラクもよ、わかった?」 何度も念押ししてから、彼女は足音を忍ばせて柵に近づいていく。 鼻の曲がりそうな悪臭をこらえて、充分に接近したところで、中の様子をうかがう。 岩壁に掘られた穴の奥には、怪物たちが棲んでいるはずだった。だが、薄暗い中で目を細めて見てみても、そこからは何も出てくる様子がない。おそらく日没までは動き出さない性質なのだろう。人外の怪物には、そういった性質のものが多く存在する。 ネネルにとっては好都合だ。今のうちにと、彼女は荷物入れの中から大きな包みをひっぱり出す。 皮で包んであるのは、古都で買っておいたひと塊ほどもある獣の肉だった。 (これをここに置いて、と……) 包みの中から取り出した大きな生肉を地面に置いて、今度は腰のベルトに手を伸ばす。 ベルトの物入れから取り出したのは、一本の小瓶。瓶の口を傾け、中身を肉の塊にふりかけると、貝殻を砕いたような光る粉末がサラサラとこぼれていく。 それだけの準備を終えると、ネネルはさっとその場を離れた。 彼女はコボルトとケルビーの待つ物陰へと、素早く戻る。 岩陰に飛び込むように入り、小さくうずくまりながら、首だけを出して集落をうかがう。 「さあ……あとは待つだけね」 そう言って、心細さをごまかすように暖かいケルビーの体を抱きしめた。 |