明 日 か ら の 風
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もっと早くに出会えていたなら、何かが変わっていただろうか。 大きな双眸を歪め、涙を溢れ出す少年の顔を見つめながら、ミツルはどこまでも己の指先から零れ落ちゆく、運命の砂に思いを馳せた。 「ミツル! ミツル、最後なんて云うなよっ。一緒に帰ろう…!」 上ずった声は、少女のように少し高い。縋りつくようにして抱き締めてくれるので、芯から冷えてゆく身体に彼の温もりを強烈に感じた。 それでもじょじょに、指先や足先の感覚が失われてゆく。重くなる瞼を持ち上げるのが、今のミツルにはやっとだった。 「一緒に帰ろうっ! 帰ったら、学校行って、サッカーやって、ゲームして…!」 頬に何かがはじけて、流れる。 それが彼の涙だと知覚するのにも、大分時間を要した。 いや、時間にすればたかだか数秒のことだろう。それが今のミツルにはとても長く感じられただけだ。 (オレのために、泣くのか……) 現世での出会いはたった数日。 幻界に来てからも、さして一緒にいたわけでもないのに。 (本当にお人よしだな、ワタル…。お前はオレがこの世界で何をしてきたかを、知っているだろう) ぎゅうっと、ミツルの身体を何があろうとも手放すまいと抱き締める。その必死な様子を見るのが辛くて、顔を逸らした。 てのひらにはさきほど触れた、彼の丸みを帯びた頬の感触が残っている。 ――自分の願いのために、たくさんのひとを殺した。傷つけた。利用した。 願いごとに代償が必要なのは当たり前だと思っていたからだ。ひとひとりの命の重さを、たくさんの命で補おうとした。 花を手折るが如く命を摘んできた自分を、ワタルは最後まで 「僕は芦川のことを信じたいんだ」と見捨てなかった。だがオレは自分がどれだけ愚かな行為をしてきたのかわかってやっていた。 命の尊さをなによりも知っているはずの自分が、確信を持って他人の命を踏み躙ってきたのだ。 この最後は自業自得以外のなにものでもない。 ――ワタル、お前は信じたものを間違えたんだよ。 オレはどこかでこんな最後も想定していた。それでも止められなかった。 『運命』を変えることができる。 失われたものを取り戻すことができる。 『奇跡』を起こすことができると知ってしまえば、それ以外のなにものにも縋れなかったのだ。 何も持たないゼロの自分は、これ以上失うものなどなかった。 己の命さえ――どうせ、一度ならずとも捨てようとしたものなのだから。 ――だから、もう泣くな。オレなんかのために……。 「ミツル…っ! ミツル! 行かないで……っ」 そんなミツルの様子を察したのか、ワタルが切れ切れに叫んだ。ミツルはわざと億劫気に、瞳を瞑る。 「オレは…ひとりがいい…」 「いやだよ、ミツルっ!」 もう放っておいてくれ。お前はお前の願いを叶えるために、先に行くんだ。お前は自分自身に打ち勝ったのだから――。 そう伝えたいのに、身体は鉛のように重く、いうことを聞いてくれない。 ――お前と元の世界に戻っても、オレの犯した罪は消えない。 お前と一緒に、笑い合える日なんてこない。 逃げと受け取ってくれていい。 どうか、このままオレを逝かせて欲しいんだ。 オレはもともとひとりだった。また、ひとりに戻るだけだ。 『――――……』 ふと、誰かに呼ばれた気がした。
温かく、どこか懐かしい響き。 「…アヤ。…アヤなのか?」 仄かな光りが手元に舞い降りてくる。 それをそっと掌で包み込んだ。 『おにいちゃん』 今度ははっきりと意識に届く、どこか舌たらずな呼び方。 ――アヤ……。 幼くして、父親に命を奪われた可哀想な妹。 あんなに小さかったのに。 まだたった二年しか生きていなかったのに。 オレは結局、お前のためにと、お前にも罪を架させてしまった。 ごめんな、アヤ。お前を守ってやれなくて。 「ミツル…! あ…、あああっ!」 絶望に満ちたワタルの声を最後に、ミツルは意識を手放した。 無理に持ち上げていた瞼をおろせば、不思議とさきほどまでとても冷たく重たかった感覚が綺麗に消えうせる。どこまでも軽やかな気分になり、籠から解き放たれた鳥のように、勢いよくどんどんと上昇していった。 上へ、さらに上へ。 肉体を捨てたはずなのに、風の音が聞こえた。 その風に煽られ、ミツルはどこまでも空へと昇ってゆく。 意識は拡散し、広がり。風に流れて、このまま空に溶け込んでゆくのかな、とぼんやり思った。 双眸を閉じた瞬間から、失ったはずの視界に、今は眩しいほどの光りを感じる。 『おにいちゃん、目をあけて』 幼い声に導かれるままに、眸を開ける。今や身体をもたない自分が動作をするというのはなにやらおかしな感じがしたが、視界は驚くほどクリアで、遥か遠くまでの光景を見渡すことができた。 透けるほどの薄い布を何層にも重ねたかのような、透明で深い青に圧倒される。 眩いほどの白。 反射する光。 地上には萌える緑。咲き乱れる花々。 生あるものを包み込み、生かしてくれる全てに感謝し、地に根ざして生きる者達。 目にも鮮やかな原色。息吹く命。 ――これが幻界……。 ミツルは今初めて、幻界の景色に触れた思いだった。 願いを叶えるために、宝玉を捜し、旅をした幻界。にも関わらず、ミツルはこの世界の何も見てはいなかったのだ。 こんなにも――美しい世界を――。 今更ながらに涙が零れる。 切ないほどに美しいものに触れると、ひとは涙を流す。そんな当然のことも今まで知らなかった。 そして唐突に視界が切り替わると、世界は一転。暗黒に彩られた。まるで墨汁の容器を倒してしまったかのように、凄まじい勢いでそれは広がり。息吹く命の数々が、闇に飲まれ蹂躙されてゆく。世界の終わりが眼下に広がった。 ミツルが私利私欲のために解放してしまった魔族たちが、幻界を滅ぼそうとしているのだ。 ――オレは…オレは…っ 『願いを叶える』という目隠しが取れてしまえば、ミツルはただの子供である。小さな世界に閉じこもっていた、何も知らない子供。闇雲に世の中は醜いものばかりだと信じていた。だからこそ幻界を闇に染めることに躊躇しなかった。汚い世界を、さらに汚すことの何が悪いのかと。 闇に飲まれた世界から悲鳴が聞こえる。 それはじょじょに膨らみ、広がってミツルを苛んだ。 逃げ惑う人々。助け呼ぶ声。祈る声。怒りの声。嘆きの声。 ――全て、オレのせいだ。 『わかっている』 『わかって、オレはやったのだ』 いや違う。オレはなにをわかっていたというのだろう! 自分の影と戦っている最中に、毒を吹き込むようにして耳元に何度も囁かれたではないか。 『オレは苦しい思いをたくさんした。だから他人ももっと苦しめばいいんだ。じゃなければ不公平じゃないか。なんでオレばかり不幸な目に合わなきゃいけないんだ? オレはアヤを生き返らせるために、ひとを殺した。そうだ、オレは妹を失ったんだ。だから他のヤツ等だって家族を失ってこの苦しみを味わえばいい』 『父さんが憎い。どうしてみんな殺してしまったの。妹が憎い。けっきょくオレはお前のために、ひとを殺すはめになった。血は争えない。オレは人殺しの息子だ。人殺しの息子。人殺しの息子』 ――そうだよ、オレは人殺しの息子だ。 そして――人殺しだ。 それまで感じるまい、考えるまいと蓋をしていた感情が、堰を切ったかのように噴出す。 胸を何百本もの針で突かれたかのような痛みと、咽が焼けるような熱と苦痛に必死で耐えた。 これらは全て、自分が受けなければいけないものなのだ。無知で蒙昧な己の咎。逃げることを、もうしてはいけない。 ―――願いを――……。 妹の声に重なるようにして、見知らぬ女性の凛とした声が世界を震わす。 『わたくしの手を取り、あなたの願いを言葉になさい。わたくしの手に、あたなの願いを渡してください』 「僕の、願いは…っ!」 次いで耳に飛び込んできたのは―― 三谷――ワタル…っ。 「僕達の願いは――」 ボ ク タ チ 。 僕達の願いは――? 瞬間。鋭い閃光が闇を切り裂く。
暗黒に染まっていた世界は、光りに撫でられると同時に掻き消え、桜色の花弁と化して散った。 世界が色を取り戻す。華麗で、鮮やかで――。 人々の悲鳴は、驚きの声へと変わり。 神に捧げる祈りへと重なる。 花弁が、空を、海を、山を、覆い尽くして清めてゆく。 幻界はひとりの少年によって救われたのだ。 (…これが、ワタルの願い。本当におひとよしだな、お前は。どうして、自分のことを願わないんだよ) むせ返るほどの生命の匂いが充満する。世界全体が花開き、寿ぐがごとく。 胸中に感謝の気持ちが溢れて零れた。 涙が止まらない。 誰に見られるでもないのだからと、声をあげて幼子のように泣いた。 ありがとう、ありがとう、と何度も繰り返し。 桜色の花弁が舞い散る。 胸いっぱいに抱き締める。 ありがとう、ワタル。この世界を救ってくれて――。 ありがとう幻界――最後に、ワタルと逢わせてくれて――。 ミツルは長い旅に、そうして終わりを告げた。
差し込むような日差しが目を焼く。まだ梅雨は明け切っていないが、夏の足音はすぐそこまで聞こえてきていて、日中の気温は真夏のそれと変わりなく。気の早い蝉たちは、短い生を謳歌するように鳴き続ける。その日はそれまで長く続いた雨が嘘のように、澄み渡った晴天だった。 天を仰ぎ見れば、目に痛いほどの白い雲がゆうゆうと流れてゆく。 これだけの晴天ならば、夜も晴れるだろう。年に一度だけ実現する、宇宙に住む恋人達の逢瀬。 「おにいちゃんの、たんじょうび」 舌たらずながらも会話らしきものができるようになった妹が、字なのか絵なのかわからないものをカレンダーに書き記した。 「そうだよ、僕の誕生日」 幼い妹にとって、兄は世界の多くを占める存在だ。純粋に自分だけを映す眼差しに、こそばゆいものを感じて美鶴は首を竦める。 「今日は、ケーキに蝋燭を立てて、誕生日を祝うんだよ」 「おにいちゃん、たんじょうび!」 まるで我がことのように、妹は笑った。まだ誕生日がなんたるかも理解していない妹だが、それでも『楽しくて特別な日』という認識はあるらしい。 「ほら、美鶴。遅刻しちゃうわよ」 台所のほうから急かす母親の声が聞こえた。 「はーい」 時計を見ればかなりぎりぎりの時刻で、美鶴は焦って居間に置いていたランドセルを背負う。 「行ってきます!」 「気をつけていってらっしゃい」 母に挨拶もそこそこ、玄関へ移動すると、靴を履く。 玄関先まで見送りに来てくれた妹は、近頃ようやく学校に行く兄に対して「アヤもいっしょにいく!」と駄々をこねなくなり、かわりに「いってらっしゃい」と送り出してくれるようになった。「はやく帰ってきてね」 ちょこんと首を傾げて笑う妹に、 「うん」 美鶴も笑顔で返して、扉を開く。 夏の陽光の下、元気よく飛び出した。 (――これは、なんだ。いったい……)
ミツルは困惑を隠し切れない。 意識が暗転し、また目覚めたと思ったら、幼い自分と妹が目の前にいた。会話を聞いていると、まさしくあの日だ。 ぞっと背筋が粟立つ。 どうして自分はこんなところにいるのだろう。 目の前で幼い美鶴が、同じく通学途中の友達と合流している。その際ミツルの隣を横切ったが、自分に気づくことなく素通りした。美鶴にはミツルが見えないのだ。この世界にとって自分は幽霊のような存在であることを知る。なにものにも触れられず、誰の目にも映らない。凶悪なまでに照りつける日差しの暑さも感じなければ、足もとにも影もなく。 この世界に自分は存在しないのだ。 ――どうして――。 疑問符だけが頭の中を支配する。 現状を把握できないまま、小学校に行く美鶴のあとをついていった。この先どのような不幸が訪れるのか知りもしない無邪気な顔で、友達とふざけあいながら登校する幼い自分。記憶の中では既に褪せてしまっている当時通っていた小学校が、色をまとってそこにあった。玄関口から入れば、夏休み前の独特の雰囲気が校内に満ちてざわめいている。 たった数年前の出来事なのに、まるで何十年も前の景色のように感じられた。 呆けたように、クラスメイト達と談笑する美鶴を見下ろす。生き生きとした表情は、今の自分が失ったもののひとつだ。予鈴が鳴り、教師が入って来る。ミツルは逡巡すると、教室から離れた。自宅の様子がどうにも気に掛かって仕方ないのだ。しかし、美鶴から一定の距離を取ると身動きができないことを知る。 舌打ちをし、ミツルは仕方なしに教室へと戻った。 (どうしてオレはこんな所にいるんだ。どうして……) 何度も繰り返し自問自答する。 もしや再度あの惨場を目の当たりにすることが、己への罰なのだろうか。 気温など感じない身体なのに、ぶるりと震えた。 じりじりとした焦燥感に身を焼かれながら、ミツルは学校が終るのを待った。 夏休み前ということもあり、四時間で授業は終る。美鶴は幾人かのクラスメイト達と一緒に下校した。手に持っているのはサッカーボール。ひとりが「いつもの所でサッカーしようぜ」と誘いかけ、皆は当たり前のように賛同した。 もちろん美鶴もだ。 この日美鶴は自宅にはまっすぐ帰らず、空き地でサッカーをしていた。あまりにも絶好調だったため、夢中になってボールを追いかけ、何度も相手ゴールを揺らしてご満悦だった。友人に「すっげー!」「やったな!」と口々に賞賛され、 なんてイイ日だろう! と、意気揚揚と自宅に帰るのだ。 遠くから聞こえるサイレンの音に「どっかでなんかあったのかなぁ」なんて思いながら。 (ダメだ…!) とうとう我慢できずに、道を塞ぐようにしてミツルは立った。 ――美鶴、ダメだ。帰れ! せめてアヤを連れ出せ。じゃないと――っ。 声を張り上げるも、やはりこの声は誰の耳にも届かなかった。美鶴はミツルの叫びに気づくことなく、友人とじゃれあっている。 ――お願いだ! 戻れ…戻ってくれ…っ! 絶望という名の紗が視界を塞ぐ。焦って、幼い美鶴の肩を掴むも、手は空を切るだけで、相手には微かな痛痒さえも感じさせることはできない。 ――美鶴…っ! 押し留めたくて、無駄と知りつつその身体を掻き抱いた。 「――っ!」 ドン、と身体に重さが加わる。それまで宙に浮いていたのが、足首に錘をつけられ引き摺り下ろされたかのような感覚。 「あ…」 声が出た。 自分の想像よりも高い声。 「どうした、美鶴」 小さな驚嘆の声を聞きつけた友人が、訝し気にミツルの顔を覗き込んだ。視野が低い。 ミツルは足を止め、己の手をじっと見つめる。 ――オレだ。 この小さな身体を動かしているのは、オレなんだ。 実感した途端に、踵を返して走り出す。 身体が小さいので、スピードが出ない。苛立ちながらも、ミツルは頭脳をフル回転させて、己がすべき行動を考えた。 まず、現在家で起きているだろう状況を想像する。 父親が母親の浮気を勘ぐり、昼間に突然帰ってきた。そこで目にしたものは、母親と見知らぬ男。母の不義を決定的なものとした父は声を荒げて責めたてた。 逆上の末、父親は台所から包丁を持ち出すと、男を刺した。何度も何度も包丁を振り下ろし――男は死亡する。 そのまま、一部始終を目撃し逃げ出そうとした母親を、背後から刺し。 血塗れた手を拭いもせずに、自分の部屋でおとなしくお絵描きをしていた、娘の心臓を一突きにするのだ。 (――走れ! もっと早く! もっと早く!) ミツルは上がる息と、壊れそうなまでに血を送り続ける心臓を叱咤して走る。 お願いだ、間に合ってくれ。お願いだから…っ。 (待てミツル、よく考えるんだ。オレは小学一年生の美鶴じゃない。まずはおじいちゃん家に) 母方の実家が近くにあったことを思い出す。 当時の家を芦川家が購入したのは、母親が若いながらに子供ができた際、子育てに自信がないからと、実家の側を希望したためだった。 逸る気持ちを抑え方向転換し、母の実家の前につくと、震える手でインターホンを何度も押す。 『はい?』 ――よかった。祖父がいる! ミツルは上がる息もそのままに「おじいちゃん!」と呼びかけた。 『美鶴かい?』 いつもはおとなしい印象しかない孫の切羽詰った声に、祖父は驚いたよう応答する。すぐさま玄関を開けて出てきてくれた。 「どうした、美鶴」 「おじいちゃん! お願い、一緒に家に来て!」 「え?」 祖父の手を引っ張る。二十九歳の母の父親なので、祖父と呼ぶにはまだ若々しい。 尋常でない美鶴の様子を訝った祖父だったが、云うや否や孫が駆け出したので、慌ててそのあとを追う。 祖父が後ろについてきてくれるのを感じながらも、ミツルは気が気でなく、足を動かした。子供の足とはいえ、初老の男性には追いつくのが困難だ。どんどん引き離してしまい、背後で「待ってくれ、美鶴」と声が聞こえたが、待つわけにはいかなかった。 木造建ての家に着く。ただいまの挨拶もなしに、靴を蹴飛ばすようにして脱ぎ捨て、玄関に上がる。 「いやぁああああ――っ! やめて、やめてアナタ…っ!」 女の悲鳴が耳に届いた。 おかあさん…。 母親はまだ生きている。流れる汗が眼に入って染みるので、何度も瞬く。手でそれを拭い、居間に続くドアを開けた。 バン! 大きな音を立てて開かれたドアに、中の人物達の動きが一瞬止まる。 青褪め、腰を抜かして座り込む母。 鬼のような形相の父。 その父に胸倉を掴まれ、今まさに包丁で切りつけられようとしている男。 「ダメ…ダメだよ、おとうさん――っ!」 ミツルは渾身の力を込めて、父親の腕にしがみついた。 虚を突かれた父親は、一瞬たじろいだものの、いつもの穏和な表情からは想像もつかないような憤怒の形相で子供を振り払った。 「うるさいっ、邪魔をするな! こいつは殺されて当たり前のことをしたんだっ」 「ダメ、ダメだ…! 殺されて当たり前の人間なんていないよ。いないんだよ…」 しかしミツルは諦めない。諦めれば、それが最後だ。 小学一年生らしからぬ説得の言葉に、父親は一瞬訝しげにミツルを見たが、すぐさま暴走している感情がそれを消し去った。 「黙れ黙れ! みなでオレをバカにしやがって、みな…みんな殺してやるっ!」 六歳の体格で大のおとなに敵うわけがなく、居間に叩き落とされる。床に倒れたミツルに向かって、刃が振り下ろされた。 「お前までオレを裏切るのか、美鶴…!」 ミツルはハっとして身を捩る。 中身が幻界で死闘を潜り抜けてきた、『ミツル』だからこそできた芸当だった。それでも幼い身体は咄嗟の動きについてゆけずに、刃は横腹を掠め、ざくりとした鈍い音が鼓膜を内側から震わす。灼熱感が頭のてっぺんからつま先まで駆け巡った。 「――っ!」 「美鶴…っ!」 母親が咽を引き攣らせて名を呼ぶ。 ミツルは痛みにのたうちながら、ドクドクと血が横腹から溢れ出す感触に顔を歪めた。だが、冷静な部分で『大丈夫。致命傷じゃない』と考える自分がいる。 「なにごとだ、これは…!」 そこにようやく祖父が到着した。 「その手に持っているものはなんだっ? 実の息子を刺したのかきみは…!」 祖父の一喝で、台所という狭い世界に亀裂が走る。 顔色を失った祖父は包丁を持っている父親をものともせずに押し退けると、ミツルの傷口を見て「美鶴、大丈夫だからな。おじいちゃんが来たからもう大丈夫だから」気丈にも励ますと「救急車…、とにかく救急車だ!」立ち上がった。 止まっていた時間が動き出し、張詰めていた緊張の糸が切れた。 部屋から出ちゃダメよ、と母親に云われ。その通りにしていた妹が恐る恐ると、ドアを開け。 血に塗れた兄を見つけて「おにいちゃん!」と、火がついたように泣き始める。 ガタン。 ミツルの目の前に、自分の血で汚れた包丁が落ちて床を滑った。 父親が電池の切れた玩具のごとく動きを止め、包丁を手放し、膝から崩れ落ちたのだ。 そのまま頭を抱えて、噎び泣く。 父親から何かが抜けた瞬間だった。 遠くから聞こえるサイレンの音。 「美鶴しっかりしろよ。すぐに病院に連れていってやるからな」 祖父が美鶴の頭を抱き締める。 泣きじゃくる妹がその隣に座り込み、足もとには「美鶴、ごめんね。ごめんね」と謝る母親がいる。 (――オレは間に合ったんだ) 満足気な笑みが、知らず美鶴の口元に浮かんだ。 『おかえり』 優しく、切なく。 誰かの声が、胸に響いて――消えた。 新しい町に引っ越したのは、小学校五年生に進級した夏である。 美鶴は生まれてから十一度目の夏を、見知らぬ町で迎えることになった。 あと少しで夏休みという中途半端な時期に転校するのは正直気が進まなかったせいもあり、新しく通う校舎を目にしても不機嫌な気持ちは晴れない。自分はまだいい。それなりの処世術を身につけ、世間に媚を売る方法などがわかっているから。しかし幼い妹に、それまでの友人達と離れさせてしまうことに気が引けるのだ。 (父さんの転勤のためなんだから、しょうがないってわかってるけどさ…) 「おにいちゃん、ここが新しい学校ね」 兄の悩みを知ってか知らずか、妹のアヤはどこまでも無邪気に笑っている。通学途中の道を、美鶴の手を取りながらブラブラと大きく揺らした。 「何か嫌なことがあったら、すぐにおにいちゃんに云うんだぞ」 その小さな手を握り返しながら、美鶴はしかめっ面で申し出る。妹はますます、鈴が転がるように笑った。 「だいじょうぶよー。アヤ、日本の小学校って初めてだからドキドキする!」 そんな無邪気な様子にほっとしながらも、もしかしたら自分を安心させるためにそう繕っているのではないかと勘ぐり、結局心配事の絶えない美鶴だった。 美鶴はとかく、この年の離れた妹に弱いのだ。 四年前、芦川家は一度崩壊している。 母親の不義が原因で、父親は母とその相手を殺そうとした。怒りで我を忘れた父は刃物を振り回し、無理心中を図ろうとしたのである。そこに割って入って止めたのが学校から帰ってきた自分で、息子を勢い刺してしまったことにより、父親は我に返ったらしい。 なぜかその場所に居合わせた母方の祖父のおかげで、刺された美鶴は即座に病院へ運び込まれたため大事に至らず。へたをすれば、一家心中にもなりかねない大惨事を忌避することができた。 それでも警察や児童相談所の職員、教師と介入してくれば、事態はじょじょに大事になってゆき。 刺されたことで内臓が少し傷ついた美鶴は、緊急手術を余儀なくされ、二日間ほど眠りつづけていたのだが、目覚めたときの騒ぎは今でも忘れられない。 母と父は児童虐待の疑いを受け、警察に拘留されていて不在。 妹は過度のストレスに耐え切れず、高熱を出して寝込み。 祖父母は疲れ倦んだ様子で、悄然としていた。 目を覚ました美鶴を、腫れ物でも扱うように、医師や看護師達は接し。祖父母も哀れんで、口を開けば美鶴に謝った。子供はなにも悪く無い。全てはおとなの身勝手ゆえ、子供が犠牲になってしまった――と。 その哀れさに拍車をかけたのが、当の美鶴とアヤだった。 美鶴とアヤは事件そのものの記憶を失っていたのである。 ふたりはPTSD――外傷後ストレス傷害を疑われ、しばらくの間通院を義務づけられた。 見知ったおとなから、見知らぬおとなに至るまで、過大な干渉を受け同情された芦川兄妹は、事件そのものよりも事件後のほうが精神的に辛かったものである。アヤは何度も熱を出しては倒れて、泣きながら兄を呼んだ。 父や母の名ではなく――おにいちゃん…と。 以降、美鶴の中心はアヤになっている。 小学校に上がる頃には、明るさを取り戻した妹だが、それでも美鶴はいつも心配でたまらないのだ。辛い思いを隠していないか。悲しい思いを堪えていないか。 「おにいちゃんもドキドキする?」 物思いに耽っていた美鶴を、アヤが現実に引き戻した。 「そうだな。少しね」 「うふふ! いっしょね!」 兄の手を大きく振って飛び跳ねる妹を「ほら、こんな所ではしゃいだら危ないだろ」軽く嗜めながら、校舎へと入って行った。 児童虐待容疑他、殺人未遂の容疑もかけられていた父親だったが、母親の不倫相手である男が世間体を憚り起訴しなかったために示談で済み。母と父のほうは、長い調停経て、翌年離婚した。 長らくかかったのは子供の監護権について争ったためである。 母の不義が原因だったのだし、母が無職だったこともあり、父方のほうが子供達を引き取る有利な条件が揃っていたのだが、父親が息子を刺したという事実は消えず。最後まで監護権について揉めに揉めた。 それでも監護権を父親が取れたのは、最終的に美鶴がそれを望んだことにあるし、子供を刺したことは故意ではなく事故であり、その原因は母親の浮気にあったとの父側弁護士の主張が通ったためでもある。争点が子供を刺した父親に殺意があったかどうだかに絞られ、美鶴自身何度も審問を受けた。が、刺された瞬間の記憶を失っている美鶴に語るべきものはなく。それがまた父親に有利に働いた。 当時、美鶴の精神状況はとても不安定で、どうして自分が父親を選んだのか、実はよく覚えていない。ただ、二年後。母は当時の不倫相手とは別の男性と再婚し、そちらに新しい子供ができたことを思えば、選択は正しかったといえるだろう。 そしてもうひとつ。 父を選んでよかったと思えたことがあった。 狭い町での出来事だ。 父親が子供を刺したというセンセーショナルな事件は、あっという間に町内に広がり。近所からは奇異の目で見られた。 警察沙汰になった父親は転職を余儀なくされたが、そもそもが有能なひとであったらしく、それを契機にヘッドハンティングされて外資系の会社へと移った。プライバシーを重視し、尚且つ海外転勤を希望できる職場は、父にとって魅力的なものであったようだ。最後まで監護権を求めた母方の実家からも逃げたかったのだろう。子供達を隠すようにして、海外へと連れ出したのである。 環境が変わり、事件のことを誰も知らない場所に行けば、子供達の心のケアにも繋がるだろうという父の目論みは、それなりに効を奏した。既におとなびた思考力を持っていた美鶴はともかく、アヤは日に日に表情が生き生きとしてきたのは事実だ。 時はアメリカの空の下で、静かに癒すように流れた。 しかし、もう少し長く続くと思われた父の海外勤務は、日本支社の方で健康を損ない入院した者が出たため、その穴埋めとして召還されたことにより終わりを告げる。 それが季節外れの転校の理由だった。 暫くぶりの日本での生活を、美鶴は迎合しかねている。 まだ短い人生の中で、日本での思い出は苦いものでしかなかったからだ。楽しい思い出ももちろんあるが、それらは全て幸福などこにでもある家族の思い出なのである。それらを微笑ましい気持ちで思い出せるほど、美鶴はおとなではない。 だが――どうしたことだろうか。 (オレはこの学校を知ってる?) 校舎内に入れば、ひんやりと冷たい空気がふたりを包み込んだ。朝早いため、ひと気の無い校舎はしんと静まり返っている。初めて目にする廊下、教室、階段であるのに、眩暈を伴う既視感に溺れそうになった。 (なんだ、いったい……) 今日は学校側への顔見せと、教科書等を取りに来たのが目的なので、まずは職員室を探さなければならないのだが。 (職員室は――あっちだ) 確認するまでもなく、自然と足が動く。ふわふわと覚束ない足取りで階段をのぼり、妹の手を引きながら職員室へと入室した。 そこでようやく、白昼夢から解放される。 「あれ、ふたりで来たのかい? 親御さんは?」 若い男性教諭に傾げられたのをきっかけに、美鶴は妹の手を引きつつ急いで自分を取り戻した。 「父は仕事でこれませんでした。自宅からここまで近いですし。どうせ明日からはふたりで通う道です。しかし父がいなければいけないということであれば、その旨伝えて明日にでも一緒に来ますが」 小学校五年生とはとても思えないしっかりとした口調に、男性教諭は目を白黒させ「いや、そういうことはないよ。ま、そうだね。明日からはふたりで登校するんだもんな」と繕った。 2、3度咳払いをすると、気を取り直すようにしてこの小学校についてと、新しいクラス、教科書等の説明を一通りする。その後妹のクラスの担任になるという女性教諭を紹介され、校長室に移動。校長の挨拶と訓辞を十分ほど受け、本日の用事は終了した。 「明日からよろしくね」 「よろしくお願いします。なにぶん妹は日本の学校は初めてなので、特にお願いできればと思います」 「おねがいします!」 きっちり頭を下げた兄の真似をして、小学校に上がったばかりのアヤも頭を下げる。 「え、あ…。うん」 やはりどこまでもおとなびた美鶴の口調に、校長含め、教諭達は押され気味に頷き、退室する兄妹を見送った。 「おにいちゃん、きょうはもう帰るの?」 廊下に出た途端、兄の腕にぶら下がりながらアヤが問う。 「ああ、学校は明日からだからな」 「ふうん、なんだつまらない。きょうからお友達が増えるとおもったのになー」 ふて腐れたようになおも兄の腕を玩ぶ妹を好きなようにさせながら、美鶴は苦笑した。 あの事件が町に広まってからというもの、芦川兄妹は常に好奇な視線の対象だった。 哀れむ者、蔑む者、嘲笑う者とあと立たず。 『あの子たちと遊んじゃダメよ』 などと、露骨に云い放つ親もいたものだ。 当時二歳だった妹は、ことの詳細はわかっていないだろうが、周囲の心無い者達からの言葉のはしはしにより、知らなくてもいいことまで知らされただろうことは想像に難くない。 それらの鬱陶しい干渉の数々は、海外へ転居したことによって逃れられたが、ただひとつ。逃れられないものがあった。 父である。 自分が息子を刺し殺そうとした事実が後ろめたいのか、美鶴をことのほか遠ざけるようになっていた。美鶴も美鶴で、無邪気とはほど遠い性格のため、ふたりの間のしこりは凝り固まり。緊張状態は現在に至るまで続いている。 「ねえ、おにいちゃん。おにいちゃんも、あたらしいおともだちが増えるといいね」 小鳥のように首を傾げ、兄を慮る妹。 可哀想な子。不憫な子。忌まわしい子――と、父親にまでレッテルを貼られてきた美鶴は、事件以降同年代の子供達とは一線を引いてきた。正直なところ、同年代の少年少女達は、疵を抱える美鶴の内側になにかしら好奇心を刺激されるようで、子供らしい不躾さでむりやり踏み込んでこようとするところが鬱陶しいのだ。それをこの妹は幼いながらにも察して心配しているらしい。 「そうだな。…ほら、いつまでもじゃれついてないで、靴を履いて」 友人に関しての問いにはぞんざいに返し、下駄箱の並ぶ生徒用玄関口に出るとアヤの腕を解いた。まだ自分達の下駄箱を持たない芦川兄妹は、すのこの端に置いていた自分達の靴を探す。美鶴が来客用のスリッパを二足分しまいに行っている間に、アヤは己の靴を履き終えていた。 「アヤ、先に行くなよ」 一応念を押すも、アヤは軽い調子で「は〜い」と答えて、ぴょこんと飛ぶ。初めての転校で気分が落ち着かないのだろう。 美鶴は急いで自分も靴を履き、その後を追おうとした。 「きゃ!」 「あ、ごめん。大丈夫?」 妹の声と、少年の声。 どうやらはしゃいでいたアヤが、登校してきた生徒にぶつかったらしい。だから注意したのにと、溜息が漏れる。 「うん」 『大丈夫?』と優しく問われたことに対して、妹が元気よく答えていることから転んだりはしていないようだ。 「アヤ、先に行くなと云っただろう」 呆れてあとに続けば、アヤは「おにいちゃん!」と振り返る。 妹に当たったらしい少年は、自分と同学年くらいだろうか。 黒い髪に、大きな双眸。全体的に丸っこく柔らかそうで、小動物を連想させる少年だった。 美鶴が玄関口に顔を出すと、ふいとこちらを見た少年と目が合う。 その少年が美鶴の顔に釘付けになって固まった。双眸を見開いて、立ち尽くす。 これまで何人か、美鶴の容姿を見て息を呑む者達はいた。 どうやら自分が人並み以上に整った顔立ちをしているらしいことは、回りの様子から否応なしに自覚を促されてきたものだ。 だが、この少年の驚きようは度を越している。 「―――」 感極まったように、くしゃりと顔が歪んだ。 何度も瞬く瞳には光るものが揺れ、華奢な身体を震わす。 (なんだ、こいつ) どこかで会ったことがあるか? と、考えるも、答えは否だ。 なのに――、 じわりと、美鶴の中に何かが溢れ、零れ落ち、波紋を広げた。込み上げてくるのは、郷愁にも似た感情。 ミツル――。と、彼の唇が動く。刹那、少年は自分に向かって抱きついてきた。 「……っ?」 驚きのあまり今度は美鶴のほうが固まる。 なんだいったい! 咄嗟に振り払おうとしたが、 「ミツル…ミツル…!」 少年があまりにも、切なく自分の名を呼ぶから。 あまりにも必死な様子で抱き締めてくるから。 胸奥から熱いものが込み上げてきて、咽を塞いだ。 一度強く瞼を閉じる。触れたところから発する熱に驚き、また開いた時。 目尻からひと筋の涙が滑り落ちた。 |
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