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晴れの休日にはカイトを連れ出して遊びに出ている。前のMASTERの家に居た時は一度も出掛けた事がなかったらしく、休みの日の前日になると、カイトが見るからにうきうきしているので俺も嬉しかった。
俺に付き合って美術館や映画に行くのが大半で、一度、カイトの行きたい場所や好きなものはないのか聞いてみたら「貴方が好きです」とずれた返事をされた。全く答えになっていないのに、勝手に心臓が跳ねてそれ以上追求できなかった。
チップカードをポケットに入れて、カイトと当てもなく街を歩くのは楽しい。初めて見るものは何でも「マスターはどう思いますか?」と聞いてくるので、俺がどう思うかよりまずカイトがどう思うか考えるように言ったら、カイトは俺が考えてもいなかったような事を言ってきたりするので新しい発見がある。
安全で移動しやすい都市部を少し不便だと言われた時は驚いたが、その理由もすぐに分かった。
「マスター、待ってください。そこだと僕は通れません」
「え?」
国立博物館を有する大きなビルに入ろうとした時、ゲートの前でカイトに引き止められた。
「僕らはチップカードを持てませんので、奥の広いゲートから荷物扱いで通れます」
「荷物扱いって何かイヤだなあ」
「すみません。何て表現すればいいのか……。ペットでしょうか?」
「いや、それもどうかと……」
人型でペットって変な意味にしか聞こえない。確かに愛玩はしてる……、されてる? ああ、言い訳できない。だけどその前に生活を共にするパートナーなんだ。
「広いゲートは団体とか車椅子専用だと思ってたよ」
「僕も通るのは初めてです」
多くのショップやレストランも入っているビルで、五十メートル以上ある入退場口はいつも混雑している。人込みを掻き分けるように先導していたカイトは、ゲートの前まで来ると一歩下がった。こういう身のこなしが格好良くてつい甘えたくなってしまう。
「じゃあ、入るよー」
「はい……、あっ」
「ん? どうかした?」
チップカードを通してゲートを抜けたところで、カイトが声を上げたので振り返った。
まだゲートの手前に居たカイトの視線を追うと、器用に後ろ向きでスキップしてくる金髪の少女と、それを追い掛けている若い女性が目に入った。
「リンちゃん、待って! ちゃんと前見て歩かないと!」
「速く速く!」
「ぶつかるよ……!」
「あ……っわ、わ……、え……、ごめっなさい!」
少女は一瞬、何が起こったのか分かっていないようだった。隣のゲートに激突しそうになった彼女を、カイトが背中から抱え込むようにして捉まえていた。
何だか憶えのある光景だ――、カイトと初めて出掛けた日の事だ。俺が電動二輪にぶつかりそうになった時、腕を引かれて体ごと抱え込まれた。傍から見てる分には良いけれど、俺もこの抱え方をされていたのかと思うとちょっと頭が痛い。
「すみません……! ご迷惑お掛けしました……」
「いえ、お気になさらないでください」
駆け寄ってきた女性が、がばっと頭を下げて謝罪した。カイトも同じように答礼していて面白い状況だ。
「リン、MASTERの言う事ちゃんと聞かなきゃダメだよ」
「ごめん……、カイト」
「え?」
互いに知っている様子の二人に、俺と女性はハモって疑問を浮かべたが、女性のほうはカイトの顔を見上げるとあっと声を上げた。
「KAITOですね! センターで見た事があります! あちらの方がマスターさんですか?」
「はい、僕の自慢のマスターです」
閉じてしまったゲートを挟んで傍観者になっていた俺を見て、女性は再び深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、カイトさんにご迷惑お掛けしました」
「あ、いえ……、怪我もしてないようですし良かったですね」
俺はぼうっとしてしまって、それでは失礼しますと言ってビルに入っていく女性と少女を見送った。何だかいろいろ考えないといけない事が一気に押し寄せてきて、どれから片付けようかと頭を捻っていた。
一つ。俺が今の少女のように抱えられていたらしい事。これはもういい。時効だ。
一つ。カイトとリンという少女が知り合いらしい事。ということはあの子もアンドロイドなのか。そういえばこの前、OID管理局で見掛けた子に似ていたかも知れない。
一つ。俺を『自慢のマスター』だと言ったカイトの事。さらっと言っていたけれど、自慢に思ってくれるなら嬉しい。何より、自慢をするカイトを初めてみた気がする。他人に対して誇りを持てるようになったなら良い事だ。
最後。今、カイトが心許なそうな表情で俺を見ている事。
「マスター……」
入場し損ねたカイトはゲートの手前で立ち往生していた。ほんの二メートル程度の隔たりしかないんだから、そんなこの世の終わりみたいな顔をしなくてもいいのに。
もしかしたら、無意識のうちに置き去りにされた事がトラウマになっているのかも知れない。俺がショックだっただろうと考えていたら、『自分は物だから不法投棄になる』と言い出して唖然とさせられたけれど。あの時は客観的に状況を説明していただけで、実際、カイトがどう感じていたかなんて分からない。
「大丈夫だよ。カード投げるからしっかり受け取って」
「待ってください! 僕がパネルに触れるとエラーになるんです」
「そっか……、分かった。ちょっと待ってて。すぐそっちに戻るから」
このゲートは入場専用だから、一度、反対側奥にある退場ゲートに向かわなければならない。混雑回避のため入退場ゲートがきっちり分けられているが、こういう時は少し不便だ。
「はい……」
そんな泣きそうな顔をしないでくれ。ちょっと可愛いけど、よく分からない罪悪感が湧き上がってくる。
「いや……、やっぱり俺に平行して付いてきて」
「はい、マスター」
こうなると犬っぽいなという懐かしい気持ちになる。断じてペットではないけれど。
ゲートに向かおうとする人々の流れを遮らずに進もうとすると、どうしても距離が離れてしまう。俺は背の高いカイトを見失わないけれど、カイトは違うらしく、時々不安そうに眉を寄せているのが分かった。
MASTERに置いていかれるのはどんな気持ちなんだろう――。
今、目を離したら二度とカイトに会えないと想像してみたら、辛くて苦しくて、きっと周りの人達に『どいてくれ』と叫んでしまう。ゲートなんて強行突破して捕まえに行くのに。
中央の太い柱を越えてようやく退場ゲートに着くと、カイトはほっと息をこぼした。
「家に一人で居る時も不安にさせてた?」
「え……」
「俺はカイトを置き去りになんてしないから」
「あ……、はい……っ」
ぎゅっと抱き締めたかったけれど、人目が多いなんてものではないので、両手で握手をするだけにとどめた。
「はぐれたら呼び出しして貰えばいいよ」
「忘れ物……っではなくて、ええと……」
「忘れ物?」
「『お忘れ物が届いております』でいいですか?」
「あはは! 違うけど……、うん、届けといて」
忘れ物が自らサービスカウンターに赴くなんて、受付の人は冗談言ってるとしか思わないだろう。
「ほら、今度はちゃんと一緒に行こう」
「はい」
ゲートを通るほんの少しの間だけ手を繋いだ。すぐ横に居るのに、指を離す瞬間、無性に切なくなって思わず振り返っていた。
「マスター」
「ん……?」
「好きです」
忍びやかに耳打ちしてきたけれど、こんな往来で大胆な伝言ゲームはやめてほしい。耳元に口を寄せられる状況なんて限られているから、余分な事を思い出してしまう。かといって返事をしないのも良くないと思って、前を向き直してから、「俺も」と頷いた。
「もし……、もしも、僕が要らなくなったら、僕の記憶を全て消して貰えますか」
愛を囁いてきたと思ったら今度は別れる時の話だ。カイトの思考回路は一体どうなっているんだろう。
「……来ない日の事を考えても仕様がないけど、でも、そうするよ……」
人間の都合で記憶を消すなんてしたくないけれど、苦渋の色を浮かべて言うカイトに反論なんて出来なくて、カイトが望むならそうするのが良いのだろうと思う事にした。
「お願いします。僕はもう、貴方以外をマスターと呼びたくありません」
「あ……」
カイトは暗い未来の話をしているんじゃない。それだけ好きだと伝えてくれているんだ。どうしてもMASTERの事を一番に考えてしまうから、記憶を残したまま、別のヒトに囚われてしまわないように。それは、アンドロイドのカイトが持てる最上級の想いかも知れなかった。
「MASTERより、俺のこと考えてくれるの?」
「そうしたいんです。勝手ですよね」
「俺だって勝手だよ。俺はカイトに愛想をつかされてもきっとカイトを手放せない。カイトに命令するんだ。『俺を好きになれ』って……。あー……、最悪……」
「あり得ません。そんな顔しないでください。……キスしたくなります」
「……!」
またとんでもない事をこそりと告げられ、慌てて目元を拭った。大丈夫、涙は出ていない。おとといの夜の事を思い出しそうになって、今は忘れろと頭を振った。
「ネジ見に行こう、ネジ。童心に返ろう」
「はい」
雑念を払うつもりで工具店に入ったけれど、梨地仕上げのスパナが気に入って暫く眺めていたら、「僕はそのスパナになりたいです」という声が降って来て、今日はもう家に帰ることにした。
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