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 四帖半程の防音室には窓が無く、扉の鍵を掛けてしまえば中の様子を窺い知る事は出来ない。完全な密室空間となる。備え付けのベンチに腰掛けているのは先に収録を終えたミクだ。翠緑の大きな眼を心配そうに細めながら、マスターとカイトのやり取りを見守っていた。

「そんなんじゃ使えないって言ってるだろ! 指示通りに発声しろ!」
「ごめんなさい……っ、もう一回、もう一回お願いします……」
「納期迫ってんだよ! ミクたちの足引っ張んじゃねーよ!」

 険しい顔で叱責している男性は、カイトの歌い方が気に入らないらしい。音楽家として名が通っている彼は、近年は専らボーカ口イドのプロデュースに心血を注いでいる。自宅にはミクやカイトの他、四体のボーカ口イドが居て、それぞれに功績を残している。
 プライベートの彼は誰を贔屓する事もなく、優しくて頼りになる人だとミクは思っていた。しかし、仕事の時間となるとまるで違った。細部に神経を尖らせて、妥協を許さない。氷のように冷たく厳しい態度を、時々、怖いと思う事もある。ミクもよくリテイクを言い渡されるが、カイトに対しては特にきつく当たっているように見えた。同性同士で言葉が荒くなる点を考慮しても、言い過ぎているのではないかとハラハラさせられた。

「期限までに納得いくもん出来なかったら、お前もうクビだ。よその家で子守唄でも歌ってろ」
「頑張りますっ……、捨てないでください……!」

 死の宣告をする声に、カイトは今にも泣き出しそうな顔で叫んだ。どんな理由であれ、マスターに捨てられるのは胸を抉られるように辛く苦しいものだ。興味を失ったみたいに顔を背けてしまったマスターに、ミクはとっさに立ち上がって声を上げた。

「マ、マスタぁ!」
「ああ、ミク、ごめん。今回も良い歌が録れたよ。ありがとう。冷蔵庫にプリンあるから食べていいよ」

 気が付いた様子でミクを労うマスターはつい先程、怒声を上げていたとは思えない程、穏やかな声で言った。

「で、でも……」
「ミク。集中したいから」

 カイトは落ち着いた様子でゆっくりと頷いてみせた。『大丈夫だ』と言っているようだ。カイトに限らず、集中したいという理由で二人きりになる事は珍しくなく、特に今回は解雇されるかも知れないという状況だ。これ以上居座るのは良くないと思い直したミクは、後ろ髪を引かれる思いで防音室を後にした。


 マスターは作業を再開するでもなく、ミキシングコンソールをぼんやり眺めていた。カイトも床を見つめたままだ。ミクが去ってから一分程経った辺りだろうか。すっと顔を上げたカイトは踵を返して扉へ向かった。出て行くわけではない。カチッと鳴ったのは、インテグラル錠の回された音だ。扉の鍵が閉められた。続いて「マスター」と呼ぶ声がする。艶を含んだ甘やかな声だ。
 光芒一閃。びくっと肩を揺らせたマスターは、ふらふらした足取りでベンチへ移動した。カイトは回り込むようにして追い掛けていく。マスターが腰を下ろすと同時に、両手を掴まえて押し倒した。マスターは背中をぶつけたが、何も言わなかった。カイトを責め立てていた姿は何処にもない。自分を見下ろしている雄々しい姿にうっそりしていた。

「今日は本当に泣きそうになりました」
「それぐらいの覚悟でやって貰わないと困る」
「はい。愛してます」
「返事がおかしいだろ……、っ……」

 冷たい唇を溶かすようにカイトが口付ければ、秘密の時間の始まりだ。
 いつの日だったか。今日のように散々な言葉を浴びせられたカイトは、思い余ってマスターを押し倒してしまった。取り返しの付かない事をしてしまったと青褪めたが、破れかぶれになって想いを告げたら、マスターは嫌がるどころか真っ赤になって応えたのだ。カイトは落ち込みそうになるたび、その時の事を思い出している。両手で顔を隠して恥ずかしそうに頷くマスターが信じられないくらいに可愛かった。その日以来、こうして密やかに体温を重ねていた。お互いだけが知る本当の姿だ。

「あ、あっ、いや、だめ……っ」
「いやじゃないですよね? こんなに濡らして。ちゃんと言ってください」
「あぁっ、ふ、ぁ……っき、もち、い……」

 マスターは蕩けきった顔でカイトに身を委ねて甘い声を上げる。離したくないというように内壁がきゅうきゅうと締め付けてくるので、カイトは堪らなかった。

「ミクたちが知ったら驚くでしょうね。厳しくて怖いマスターが本当はこんなに可愛い人だなんて」
「はぁ、あっ、んっ、言う、な、ぁ……」
「どうしましょう。クビになる前に、皆に教えてあげようかな」
「あ、あぁあっ……、て、ない……、捨て、な……で……」
「……俺が解雇される話ですよ。俺がマスターを捨てられるわけないじゃないですか」
「捨、てない、で……」

 切々と訴える声は、解雇など出来ないどころか、カイトに見放される事を恐れているようだった。カイトに対して他の者より辛く当たっている自覚はあった。関係がバレないようにという思いからだが、それで傷つけてしまっている事を気にしていた。
 ぎゅっとしがみ付いてくるマスターに応えて、カイトは強く抱き返した。ちゃんとマスターの気持ちを解っているのだ。

「安心してください……。こんな姿、誰にも見せたくありませんから……」

 マスターの目じりから零れた雫を、カイトはぺろりと舌ですくい上げた。



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