縦書きと横書きの変更
リビングに居れば当たり前のように寄ってきたカイトが無闇に近づいて来なくなった。身も心も曝け出した次の日からだ。あの日、行為が終わった後は丁寧に体を清められ、服を着せられて、俺の部屋のベッドに運ばれた。その頃には抵抗する気は丸きり失せていて、カイトに全て委ねていた。疲労でうとうとしていた俺にカイトは「おやすみなさい」と言って自室に下がっていった。遠ざかる意識の中で「何だ、行っちゃうのか」と思った。
朝鳥のキーキーキュイキュイと鳴く声で目が覚めた。起き上がろうとして臀部に違和感を覚え、前日の出来事は夢じゃなかったのだと思い出したら、一体どんな顔をしてカイトに会えばいいのだろうと暫くベッドの中で悶々とした。
男に抱かれた。自分のアンドロイドに、カイトに。好きな気持ちに男女の別はないと彼は言った。人間と機械であっても関係ないのだろう。理性や観念を越えた先には、甘美な幸福があった。
俺の気持ちはとうに気づかれていたようだし、仮にも俺はマスターなんだから堂々としていればいい、普段どおりに過ごそう。そう覚悟を決めて部屋を出た。
「おはようございます」
「……おはよ」
「コーヒー淹れますね」
リビングに行くと、すぐにキッチンから挨拶が飛んできた。いつもの光景だ。まだ気恥ずかしくてそそくさとテーブルの前に座ると、カイトが不思議な事を聞いてきた。
「ミルクはどうしますか?」
「は……」
入れるなと言っても勝手に入れてきたくせに何を言い出すのだろう。思わず顔を見上げたが、ふざけている様子はない。カイトの淹れるほんのり甘いコーヒーに舌を慣らされてしまっている。入れろよと言おうとした口はしかし、「入れるな」と言っていた。今更、意地を張っても仕方がないのに反対の事を口走る。もう黙りたい。
どうせミルクを入れて寄越すだろうと思っていた期待は裏切られ、テーブルに置かれたのはブラックコーヒーだった。ちゃんと注文通りに作られたのに、嫌がらせかと久しぶりの感情が湧き起こる。おかしな話だ。
口を付けずにぼんやり湯気を眺めていたら「要らないですか?」という声が降ってきた。俺は反射的に「飲む」と答えて一口飲み下した。ああ苦い。
妙な事はそれだけではなかった。カイトは背もたれだと言い張っていたスキンシップをしてこないばかりか、俺がリビングに居る間は自室に下がっているようになった。挨拶も食事も先日までと何も変わらないのに、それ以外は波が引いたようになくなった。不干渉。マスターとアンドロイドは本来、これぐらいの距離感かも知れない。だけどそんなの今更だ。俺の事を好きだと言って無理やり暴いたくせに。
カチ、カチ、カチ、カチ――……。時計の秒針だけが変わらず鳴り響く。静かな室内が侘しい。邪魔が入る事もないのに何をやっても、あまり集中できない。背中がうす寒くて、クローゼットからカーディガンを引っ張り出してきた。ぽっかりと穴が空いたみたいに酷く切ない。
数日そうして過ごした俺は限界が来て、夕食後、部屋に戻ろうとするカイトを呼び付けた。
「新しい曲できたから来い」
「はい」
「座れよ」
「……? はい」
歌う時は立つのが基本姿勢で、特に新曲の場合は披露する意味合いで立ったまま歌わせた事しかない。カイトは一瞬、疑問そうな顔をしたが、すぐにその場で腰を下ろした。
碧眼がじっと俺を見ている。この目が俺の気持ちを見透かすんだ。メモリーチップを握り締め、拳を振り上げてみせると、カイトは殴られると思ったのだろう、首を竦めて下を向いた。まさか本当に殴るつもりはないけれど、防御やかわす選択も出来たはずなのに大人しく殴られる気かよと思った。
「……お前のせいで全然レポートが進まない」
「え……、わっ……」
文句を言いながら、胡坐を組んでいるカイトの上に背を向けて座った。そのまま体重を預けると、カイトは驚いた様子で硬直した。
「……マスター」
「背もたれが喋るな」
「……」
「お前なんて大嫌いだ」
憎まれ口を叩くと、両腕を回されて抱き締められた。肌が触れ合い、体温が伝わる。カイトの匂いがする。ずっと恋しかった。揺りかごの中に居るような安心感に包まれる。そのまま動かないでいたら、低い囁き声がした。
「こんな背もたれ無いんですよね……。喋っていいですか……」
「……っ」
耳に息を吹き込まれて背筋にぞくりと駆け抜けた。力が抜けそうになる。否定できずに居ると、甘く柔らかな声が続いた。
「俺も大好きです」
『俺も』って何だよ。話聞いてたのかよ。そう言ってやりたかったけれど、体がぽかぽかと熱くなってきて言葉にならなかった。男だとかアンドロイドだとかどうでもいい。好きだと言われて嬉しくて堪らない。
「……人の事、強姦しておいて次の日から知らん振りとかお前、最悪」
「マスターから来てくれるまで待っていようと思ったんです。殴られるのも覚悟してました。そうしたら抱き付いてきてくれたので凄く嬉しいです」
「抱き付いてないっ。椅子だ」
カイトはこめかみの辺りに口付けてきた後、俺を抱えたままじっとしていた。温かい。心地良くてそのまま眠ってしまいそうになる。
思考が溶けてきて、思っていた事がぽつぽつと口を衝いて出た。
「ミルク……、入れろよ……」
「ん……?」
「コーヒー……」
「はい……」
カイトの微笑む気配がした。緩やかで、ほのかに甘い時間が流れていく。
「……歌う?」
「聞いてくれますか」
「ああ……」
俺が頷くと、カイトは腕を緩めて左手の甲を見せた。皮膚の向こうにターミナルがあるからだ。半透明の磁石みたいなメモリーチップを所定の場所に付けると、即座に抱き直された。そんなに急がなくても今日は逃げない。
「……――♪ ――♪」
耳元で歌い出したカイトに一瞬、どきりとした。――何だか長閑な歌だ。渡したはずの曲と違うと思っていたら、覚えのあるメロディーが聞こえてきた。テンポを遅くしているようだ。楽譜の記号を間違える事はないから、わざとそうしているのだろう。勝手にアレンジしやがって。
目を瞑って歌声に身を委ねた。夕凪に浮かぶように穏やかで優しい。
「……良い」
軟化した心に任せてぽつりと呟くと、一層強く抱き締められた。
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