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「マスター、こっち向いてください」
「今、忙しいから」
「俺が居ないからって泣かないでくださいね」
「誰が泣くか。お前が居なくて清々するわ」
「マスターは素直じゃないから」
「あほか。そのまま帰って来なくても気にしないし……」
「……俺も、別の人がマスターなら良かったです」
「っ……! さっさと行っちまえ!」
「はい。それでは……」
しんとした室内に、扉の閉まる音がやけに大きく響いた。ハッとして、先程から一行も進んでいないレポートから顔を上げた。またやってしまった。思ってもいない事ばかり言ってしまう。玄関に目を遣れば、鍵の掛かっていない扉が見える。カイトは合鍵を持って行かなかったようだ。
カイトが家に来て初めての定期メンテナンスだった。泊り掛けになるという。このまま本当にカイトが帰って来なかったらどうしよう。――いや、気ままな一人暮らしに戻るだけだ。リビングも一人で広々と使えるし、床でごろごろしていても小言を食わない。
(……喉渇いたな)
コーヒーはどこにあったっけ。ここの棚か? 違う。こっちの棚? 違う。手当たり次第に棚を開けて漸くインスタントの瓶を見つけた。掃除中か、地震でもあったのかという有様だ。いつもカイトが淹れていたから場所なんて覚えていなかった。
(目に付くところに置いておけよ……)
俺が毎日飲んでいるのを知っているのに、わざわざ上の棚に入れておく事ないだろう。カイトはちょうど手の届く位置なのだろうが、俺は少し背伸びをしないといけない。腹立たしい。
そもそもカイトが初めてコーヒーを淹れてきた時も、嫌がらせなのではないかと思えてきた。
『砂糖とミルクは入れますか?』
『要らない。男は黙ってブラックコーヒー』
『あまり胃に良くないんですよ。ミルクは入れますね』
『おい。余計な事すんなよ!』
カイトはにこにこしながらミルク入りのコーヒーを差し出してきて、流しに捨ててやろうかと思ったけれど、コーヒーに罪はない。もったいないからそのまま飲んだが、舌の上に残るほのかな甘みが最初は嫌だった。今日は久しぶりにブラックコーヒーが飲める。
スプーンで豆を掬い上げて、カップの縁に当てながら入れた。カツ――。この音が好きだ。サラサラと落ちていく様も。湿気ていたりすると目も当てられない。
(うん。良い香りだ)
ずずっと一口飲み下す。……苦い。この苦味が好きだったはずなのに。もう一口含んでみたが、それ以上飲む気が起きなかった。カイトのせいだ。ぐちぐち思いながら、ミルクを足してみると今度は甘すぎた。クソ。たかがインスタントコーヒーを淹れるだけなのに、何でこんなにままならないんだ。
三十分程は経っただろうか。レポートが一段落して手を止めると、室内は静まり返っていて、時計の秒針だけが鳴っていた。カチ、カチ、カチ、カチ――……。こんなに大きな音だっただろうか。急に、耳にこびり付いたように離れなくなって、訳もなく焦った。世界は止まる事なく進んでいくのに、俺だけ置いて行かれるような錯覚に陥り、とっさに立ち上がっていた。
(ばかばかしい。何やってんだ俺)
そのまま動けなくなるのではないかと思ったのだ。
立ったついでにオーディオを設置している一角へ向かった。部屋が静かすぎるのが良くない。ホワイトノイズは集中力を上げるという実験結果もあるくらいだ。実際、落ち着いたカフェや図書室なら作業も進むし、気にならない程度の雑音が欲しかった。いっその事、出掛けてしまえばいいんだ。
(……クラシックはプレイリスト3だったかな)
出掛けるとなると、さすがに家の鍵を閉めなければ不安だ。そうすると。そうすると……。カイトが帰って来られないような気がした。ばかげた考えだ。メンテナンスが終わるのは明日なんだから、ほんの数時間出掛けたって問題ない。むしろ朝帰りしたっていいくらいだ。ばかげていると分かっているのに、胸がもやもやして落ち着かなかった。
『俺も、別の人がマスターなら良かったです』
出掛けに言われた言葉をふいに思い出して、鋭い痛みが走った。
売り言葉に買い言葉? カイトの本音? 俺はカイトにろくな事を言っていないから、そう思われても仕方がない。そうだよ、よその家のカイトになったほうが幸せなんじゃないか?
(いやだ……)
その場でしゃがみ込むと、オーディオからカイトの声が聞こえてきた。
(え、プレイリスト3もカイト?)
2まではカイトなのは知っていた。初めて歌って貰った時に、「一緒に作ったものだから飾っておきたいんです」とカイトは言って、曲が完成するたびにプレイリストに追加していったからだ。デザイン優先で選んだオーディオはプレイリストに制限があって、十曲までしか登録できない。つまりもう二十曲以上、カイトに歌って貰っていた。
(……やっぱり良いなあ)
ほっと肩の力が抜けるような安らぎを感じた。初めてこの声を聞いた時、家に居てくれたらいいなと思ったんだ。帰って来なくてもいいなんて嘘だ。
最初は俺も、もう少し普通に接していたはずなのに。前にリビングでレポートを書いていたら、カイトが纏わりついてきて、気づいてしまった。
『マスター、早く終わらせてください』
『そう思うなら邪魔すんなよ! くっ付くな……っ』
『邪魔してません。俺はマスターの背もたれです』
『顔が付いてて喋る背もたれがあってたまるかっ』
耳に掛かる息遣いも声も、背中に伝わる温度も、何もかもが気になってレポートどころではなかった。普通、気持ち悪いって思うだろう。カイトは男で、アンドロイドなんだから。なのに俺は居心地が良いと思ってしまって、悟られたくないあまりに必死で虚勢を張る。マスターとしてのプライドが甘える事を許さなかった。
妨害の入らないレポートは直ぐに終わって、新しく曲を作っている間に日が落ちていた。夕飯に誘う声はない。静寂に押し潰される前に、非常食のバランスフードを持ってきて調整に入った。いつも思い浮かぶままに旋律を書き出してから、カイトの声が一番よく響くように手を加えている。
最近は「歌をください」と催促されてから、仕方なく作っているような振りをしているけれど、曲のストックはいくつかあって、直ぐにでも歌って貰いたいのに「そのうちな」とそっけなく返事をしてしまう。そして、いつ渡そうか悩んで悩んで、結局いつも三日後ぐらいに渡していた。この三日間がすごく長い。
歌って貰う時も「お前には難しいかもな」と憎まれ口を叩く俺に、カイトはにやっと笑って「聞いていてください」と言って、俺の思い描いていた通りに、それ以上に仕上げて歌ってみせた。その瞬間、嬉しくて堪らないのに、俺の口は「悪くはない」と言うんだ。本当は褒めてやりたい。感動したよ、ありがとうって。
(カイトは今頃どうしてるかな……)
時計に目を遣ると、二十二時を過ぎていて驚いた。シャワーを浴びてさっさと寝てしまおう。朝になったら、数時間後にはカイトが帰ってくるはずだ。俺に愛想を尽かしていなければ。そうしたらちゃんと「おかえり」って言いたい。
ベッドに潜って目を伏せていても、なかなか寝付けなかった。カチ、カチ、カチ、カチ――……。時計の音がまた気になりだして何度も寝返りを打つ。動かないでいたら、この空間に閉じ込められて永遠に朝など来ないような気がした。
(だめだ……)
夜はこんなに怖かっただろうか。何の気配もないのが恐ろしく思えて、幽霊なんて信じていないけれど、今もし目の前に現れたらお茶でも出して歓迎してしまいそうだ。
むくっと起き上がって、ふらふらと自室を出ていた。足の向く先はカイトの部屋だ。ベッド、テーブル、ソファ、俺のお下がりの電子ピアノ、カイトの持ち物はすごく少ない。出掛けたまま帰って来なくても、本当に困らないのではないだろうか。
ハンガーラックに掛かっていたカイトのコートが目に入った。私服として買ってやったものだ。カイトの気配を思い出したくて無造作に引き寄せると、チャリッという音がして何かが床に落ちた。家の鍵だ。俺が渡したものは全て置いて行ってしまった。
「うっ……」
鼻の奥がつんとして、ぐっと奥歯を噛み締めた。
『俺が居ないからって泣かないでくださいね』
カイトの言った通りになって堪るか。急に一人暮らしに戻って、ちょっと人恋しくなっただけだ。
コートに顔を押し当てるとカイトの匂いがした。人間のような匂いではない。機械の油くさいというわけでもなく、他に例えようがなかった。ただ、近くに居るみたいに安心できて、コートを抱えたまま自室へ戻った。
そのままベッドに寝転ぶと、時計の音はしなくなっていて、カイトの「おやすみなさい」という声を思い出した。おまじないのように、うとうとと眠りに引き込まれていくのを感じた。
「――……」
遠くで声が聞こえた。優しく呼ぶような声。誰?
辺りは光に包まれたように真っ白で、姿も見えなかった。
「マ……、ター……」
カイト? 俺は笑って「どうした」と返事をしていた。ああ、夢を見ているんだ。だって俺はいつもぶっきら棒にしか応えられない。
「――……」
よく聞き取れない。「なに」と言ったら、声が少し近くなった。
「好き……す……」
そっと渡される言葉。俺の事? だったら嬉しい。カイトはどんな表情をしているんだろう。見えないのが残念だ。早く答えないと。夢の中ならちゃんと言える気がした。
「俺――」
息を吸い込んだ瞬間、ぱっと目が覚めて、視界にインディゴブルーが飛び込んできた。何だ――?
「マスター」
今度ははっきりとした声が俺を呼んだ。
「ああ……。……え!?」
思い掛けない姿が見えて、がばっと起き上がった。俺の部屋の入口でカイトが突っ立っていた。驚いた声をあげる俺に、困った顔をしている。
「おはようございます。やっぱり起きてなかったんですね」
耳を撫でていく声。メンテナンスに出掛けたのは昨日の昼頃だから、丸一日も経っていないのに懐かしい気持ちになった。
「何でっ、メンテは?」
「明け方に終わりました」
「あー、そう……」
良かった。帰って来た。おかえりって言わないと。おかえり、おかえり……。だめだ。頭の中でいくら繰り返しても声にならなかった。たった一言、たった四文字なのに。俺の口は糸で縫い合わされたみたいに動かない。
「マスター、本物がここに居ますから」
「はあ?」
言っている意味が分からない。顔を洗おうと立ち上がると、毛布が絡み付いてきてバサッと床に落ちた。――毛布じゃない。
「あ……」
少し皺になっているカイトのコートが目に入って血の気が引いた。昨夜、抱えたまま眠ってしまったんだ。こんなに早く帰って来るなんて思っていなかったから、こっそり返しておこうと思ったのに。 『本物』って言ったって事は、代わりにしてたと気づかれたのか? どうしよう、どうしよう……。
「あー……、何か良い感じの布ないかなって」
寝起きの頭をフル回転して出てきた言い訳がこれだ。意味不明。何で布抱えて寝てたんだよ。
「……良い感じの布ですか」
「ああ……、これは手触りが悪くない。今度、クッション買うならこういう布地だな」
カイトのコートとか関係ない。『ただの布ですよ』アピールを押し通したが、我ながら苦しい。カイトの顔がまともに見られなくて、「入口に立たれると邪魔」と続けて、部屋を出て行こうとした。
「それなら、こうすれば俺がクッションになれますね」
「うわっ……!?」
部屋を一歩出た所で腕を引っ張られて、無理やり振り向かされた。何? 焦る俺の目に、 手触りの良い布を纏ったカイトが映る。次の瞬間、抱き締められていた。
(え……、え!?)
混乱して抵抗するのが遅れた。背中をぎゅうと抱え込まれて身動きが出来なかった。
「おい、ばかっ、離せよ!」
「俺も寂しかったですよ」
「……っ」
やっぱり気づかれてる。カイトが居なくて寂しくて、コートに縋った事。
「俺のクッション、嫌ですか」
「いやに決まってるだろっ……。硬いし、喋るし、息苦しいし……」
唯一自由な足でカイトの脛をげしげしと蹴った。「痛いです」という反応はしたが余裕そうだ。弁慶の泣き所もアンドロイドには関係ないらしい。クソ。もう本当に離して欲しい。こんなに密着して、カイトの匂いと声がして平気でいられるわけがない。
「……手、洗いたいんだけど」
「俺がしましょうか」
「死ねっ」
「マスターが健康で良かったです」
「朝だからっ……」
体を動かされたら恥ずかしい事になる。ピリピリと警戒したが、カイトはクッションらしくじっとしていた。それはそれで困って、さっさと離して欲しいのにカイトはそのまま話を続けた。
「玄関の鍵、開けたまま寝たら危ないですよ」
「……そうだっけ? 気にしてなかった」
「俺、閉められなかったんです。私物の持込不可で鍵を持って行けなかったので」
「ふーん……」
なんだ、そうだったのか。興味のない振りをしながら内心、胸を撫で下ろした。俺が朝帰りしたり、鍵を閉めて寝たら、カイトは家に入れなかっただろう。締め出したような形にならなくて良かった。
「マスター、歌をください」
「いきなり何だよ……。脅迫だろ。離せよ」
「はい……」
カイトは名残惜しそうにしながら、漸く解放してくれた。居た堪れなくてさっと部屋を出る俺の背中に、催促の声が掛かる。
「貴方の歌をください」
「うるさい。後でな」
三日も待っていられなくて、今回はたまたま作ってあった事にしようと思ったけれど、「今日は直ぐにくださるんですね」という声がして、心臓が止まるかと思った。
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