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目映ゆいばかりの陽光が降り注ぎ、コバルトブルーに彩られた世界を飛び回る。積乱雲を蹴り上げて霧の中へ身を隠しながら、必死で滑空した。ただでさえ片羽で飛びづらいのに、水蒸気を纏ったせいで速度は落ちていく一方だ。このまま東へ向かえば大樹の島がある。そこで束の間でも休みたい。
「待てッ! 異端者!」
「片端のくせに小賢しい!」
「容赦しないぞ!」
白い靄に浮かぶ三つの影が口々に罵ってくる。数日前からずっとこの調子だ。せっかくの散策日和なのに、無骨な連中に追い回されるなんてついていない。片羽がそんなに目障りか。昔からそうだ。種族の象徴である羽が無い者は、その理由がなんであれ、迫害の対象になってきた。
無数の浮遊島のうち、特に大きな一つが中心部になっている。中心部は工業が盛んでマキナを使役して暮らしていた。身の回りの世話や雑務はメードロイドに任せ、退屈な時間はボーカ口イドに歌や踊りを披露させた。質実剛健なガードロイドのおかげで、くだらない罪を犯す者も居ない。平穏で不自由のない日々を送っていたはずだ。
あの日、マキナたちが蜂起するまでは――。
陽は高く上がり、そろそろ昼餉の知らせが来ようという時だった。最初の異変は、優々と空を泳いでいた同胞たちにもたらされた。突然、飛び方を忘れたみたいによろめき、そのまま地上や蒼海へぼろぼろ落ちていった。一体何が起きたのか分からなかった。他の者たちが異変に気づいた時には、中心部を焼き尽くさんとする程の業火に包まれていた。鉱油を撒き、火を放ったのはメードロイドのようだった。蜂の巣をつついたような混乱の中、逃げ惑う同胞たちをガードロイドが次々撃ち落とした。誰も彼も正気を保っている者なんて居なかったと思う。ほんの数分前まで、笑顔で従事していたマキナたちが一斉に牙を剥いたのだ。耳をつんざくような爆発音の後、流星火が降り掛かってきた。それが最後の記憶だ。目を覚ました時には左羽を失くしていた。
住処のある中心部からは命辛々逃げ出したが、浮遊島のどこへ行っても少なからずマキナが居る。いつ寝首を掻かれるかも分からない。主を失くした家を転々としながら背中の傷を癒した。
ひと月が経って、これからどうしようか考えていた矢先、同胞からも追われるようになった。この騒乱で一体、何人が同じ目に遭っているのだろう。種族内でいがみ合っている時ではないはずなのに。そんな有様だから、マキナに反旗を翻されたのではないか。
上昇気流に乗って雲海を突き抜けると、青々と茂る樹林が見えてきた。目眩ましのおかげか、追っ手の声は少し遠のいている。このまま行けば撒けそうだ。見つかりにくい止まり木の方向へ、一散に向かう。
その時、上空に閃光が走った。きらきらと光を放ちながら降ってくる。それが流星でないと判別できた時にはもう遅く、わずか数メートル先で滞空していた。最も見つかってはいけない相手――、マキナだ。背中から伸びるフレームは優美な曲線を描き、蔓のような模様が六枚の風切羽を飾っている。この形状はボーカ口イドだ。青藍の髪、吸い込まれそうな碧眼、首元に白縹のスカーフを付けている。〈カイト〉だと認識した瞬間、頭の奥が痛んだ。
「う……」
よろめいて懸命に片羽をばたつかせた。今、攻撃されたのか? よりによってボーカ口イドに出くわすなんて、本当についていない。飛行中で一番の脅威は、平衡感覚を無くさせる音響兵器だ。こんな空中で音波を出されたら一溜まりもない。奈落の海へ真っ逆さまに落ちていく。
「マスター!」
ボーカ口イドが叫んだ。必死でもがいたが、体勢を立て直せない。高度はどんどん下がり始め、景色が遠のいていく。もう駄目だと思った時、手首をぐっと引っ張られた。何――? 頭上に目を凝らす。白く霞み掛かった視界に、煌やかな青が飛び込んできた。カイトが手を伸ばしている。一瞬、あらゆる情景が浮かび上がったが、それが何か理解する前に霧消した。
「あの時、怪我をしてしまったんですね……。掴まってください!」
腰を抱え込まれ、心配そうな目が覗き込んでくる。助けられたのか? 混乱したまま、呆然と見つめ返すと、背中を抱き締められた。痛みを覚えたのは、まだ傷が癒えていないせいだろうか。このまま全身の骨を砕かれて、亡骸にされても可笑しくない。身動きひとつ取れない状況で、全てがカイトに委ねられていた。
後方が騒がしくなってきた。追っ手がだいぶ近づいてきたようだ。カイトは察した様子で急旋回した。行き先は同じ大樹の島のようだ。樹林に入ると、勝手知ったる庭のように奥へ奥へと進んでいく。入り組んだ位置にある止まり木まで来ると、体を下ろされ、両手を握ってきた。
「少し休んでいてください。追い払ってきます」
ぎゅっと力を込められた後、颯爽と飛び立った。トラツグミの鳴き真似をしながら、開けた辺りまで引き返していく。
もしかしたら、カイトは連中の配下で、身柄を引き渡すつもりなのではないかと考えた。だけど、濁りなく光に満ちた瞳は、嘘を吐いているように見えなかった。事変以来、マキナに姿を見せないようにしていたけれど、友好的な者も残っていたのだろうか?
今の内に逃げ出すか、どうするか。わざわざこんな奥まった場所まで連れて来た理由は何だ? 追っ手が来た段階で引き渡せばいいはずではないか。それとも、報酬の交渉をしたいとか? 今までマキナがそんな要求をしてきた事は無いけれど、反乱の原因が分からない以上、何をされても不思議ではない。人払いをしてから、なぶり殺される可能性だってあるんだ。抱き締められたのも、安心させるように手を握ってきたのも、逃げないようにするためかも知れない。
向こうの様子を窺おうと立ち上がった時、喚き声が聞こえてきた。
「クソッ、進めん……!」
「未処理が潜んでるんじゃないか!?」
「うぐ……、気分が……」
先立って飛んできた一人が、もんどり打って地面に伏した。続けてきた二人もその場で停止したが、ジリジリと後退を強いられている。ある境界を越えると、飛行どころか立っている事も厳しい様子だ。カイトが指向性音波を発しているのだろう。そのまま鼓膜を破壊する事だって出来る。
今、カイトがこちらを向いたらどうなる? 恐ろしくなって居ても立っても居られなくなった。どこへ行けばいい? 大樹の島を出るか? だけど、身を隠すなら樹林が打って付けだ。迷いながらふらふらと飛び出したら、羽が細枝を掠めた。以前なら大した事でも無かったのに、片羽のせいで大きくバランスを崩してしまう。どこか止まれる木は――……。
「……マスター!」
誰かを呼ぶ声がする。ザザザッと風を切る音。瞬く間にそれは近づいてきた。追い付かれてしまう。落とされるのは御免だ。止まり木を目指すのは止めて、そのまま地面に降下した。走って逃げても無駄だろう。観念して振り返ると、カイトが舞い降りてきた。
「大丈夫ですか! ずっと心配してました」
また強く抱擁され、咄嗟に身を固めた。ボーカ口イド特有の典雅な風切羽が震えている。この後ゆっくりと命を奪われるのだろうかという惑いと、彼が味方だったらいいのにという願いが交互にやってきた。
「貴方が生きていて本当に良かったです……!」
深い安堵の声と共に寄せられる、真っ直ぐな眼差し。カイトの眼は煌々と輝く夜空のようでもあり、底の知れない奈落の海のようでもある。どこに行く事も叶わないなら、信じてみてもいいだろうか。
「助けてくれてありがとう……」
「何言ってるんですか。これからどうしますか? 空き家を何軒かお借りしてるんですけど、そこで休みますか?」
「……何で味方してくれるの?」
以前なら、マキナが迫害の対象者に手助けしている場面も見た。ただ、相手側を明確に攻撃してまで仲裁に入る事なんて無かった。何かが変わってしまったのは明白だった。
「え?」
当然の疑問を口にしたつもりなのに、カイトは愕然として声を上げた。
「マスター、記憶を失くしてしまったんですか……?」
「あ……、っ……」
何を言い出すのだろうと思ったが、事変以前の記憶が断片的で、漠然としているのは否定できなかった。中心部に居たから工業で生計を立てていたとは思う。では、具体的にどんな仕事をしていたのか。街並みもおぼろげで、どこに住んでいたか、誰かと暮らしていたのか、思い出そうとすると霞のように消えていく。傷を癒しながら、日々を繋いでいくので精一杯で考えないようにしていた。自分が何者であるのか、分からない。
「……そう、かも知れない……。その、マスターって……」
「貴方が僕のマスターです……。あの……、僕の事は、」
「ボーカ口イドのカイトだよね。そっか……」
歌を聴くのは好きだ。それは今でもはっきりと言える。だから、傍に居たマキナがボーカ口イドだったというのは頷ける。だけど、反乱のあった日、マキナたちは主人であろうと無差別に攻撃していたはずだ。カイトは何も無かったのだろうか。
「以前、約束をしました。『何かあったら大樹の島で会おう』と……」
天災時に避難する場所を決めておいたのだろうか? 眉間に皺の寄る程、集中して記憶の引き出しを引っ繰り返した。思い出せない。もやもやと霧の掛かった空間が拡がっていくばかりだ。曖昧に頷くしかなかった。
何を話せばいいか困って黙っていると、カイトは片膝を付いて機械羽を広げてみせた。鉱石を含んだ風切羽が、木漏れ日を反射して淡く光っている。
「誰が敵に回ろうとも、僕は貴方の傍に居たい……、貴方の手足になりたいです。どうか、僕を頼ってください」
「っ……、ありがとう……」
どこまでも真っ直ぐに射通すような視線を注がれ、逸らす事など出来ない。真摯に向けられる言葉の一つ一つに、胸が苦しくなった。自分はカイトにそこまで言って貰えるような存在だったのか? 記憶のどこに彼を仕舞い込んでしまったのだろう。しっかりと応える事が出来ず、もどかしかった。
「これからの予定はありますか?」
「特に無い……。どうしようか考えていたら追い掛けられて……」
「……それなら、旅をしませんか?」
「旅?」
「はい。方々を回っているうちに何か見つかるかも知れません」
「うん……。カイトが一緒なら心強いな」
カイトは柔和な笑みを浮かべて右手を差し出してきた。握手だ。不自由な片羽で、身を守るすべもない自分が返せるものは何も無い。だから、命を渡すつもりで手を重ねた。
固く握り合った途端、さーっと風が抜けていくように情景が駆け巡った。捉える間もなく霧散していく心象の途中で、カイトが泣いていた。後から後から溢れてくる涙の海で溺れている。助けたい。そんな考えが浮かんだ。
「マスター……?」
呼び声にはっとしてカイトを見つめ直した。夜空にも奈落にも似た碧眼。この目を知っている。ずっと傍に居た。確信めいたものを感じて、ゆっくり頷いた。
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