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 新しく完成した曲をたずさえリビングに出ると、窓の前に立っているカイトを見つけた。夕刻の室内は仄暗く、なおさら彼の存在を際立たせていた。
 結晶のようにきめ細やかな肌、切れ長な目元にすっと伸びた鼻梁、引き結んだ薄い唇。首まできっちりとコートを纏った姿は凛としていて禁欲的だ。  たとえば、“その時”どんな顔をするだろう。ふと、そんなことを思って彼の頬に手を伸ばしていた。
 声もなく、わずかに見開かれる碧眼。指先を捉えていた視線はひとたび伏せられ、すぐに俺自身に向けられた。まっすぐに。疑問に思っているふうでもなく、困った様子もなく、悠然と俺を見つめて唇を開いた。
「……マスター」
 静謐な空気によく馴染む、色の見えない声がした。
「あ……」
 今、なにをしようとした? 頬に触れて、それから――。はっと我に返った。慌てて手を引くと、カイトはゆっくり息を吸い込み、「何か気になりましたか」と続けた。
「いや……、……曲が、できたから」
「それは楽しみです。今から始めますか?」
「ん……」
 掠れ声しか出なくて上手くごまかせていない。おそらく変に思われただろうが、カイトはあまり表に出さないから分からない。
 テーブルに移動し、二メートル程前で直立しているカイトにスコアデータを飛ばした。視線はじっと俺と端末のあたりに集中する。歌う時はいつもそうだが、さっきの今で見つめられると落ち着かない。
「……良い?」
「はい」
 合図を出すと、小さな息遣いの後、粋美でのびやかな歌声がヘッドフォンに響いた。一音一音、耳を済ませて聴き込んでいく。あらかじめ指示を載せておいたがとても良い。完璧に歌い上げている。期待通りの声音が、次々と鼓膜をふるわせる。
 ちらとカイトを見ると、忘我の様子で俺を見ていて息を呑んだ。楽音をつむぐことに全身全霊を懸けている。指示記号を通る間、視線はより一層強くなった。まるで焦がれるような眼差し。目を逸らすことができず、釘付けにされたまま見入っていた。
「マスター……」
 突然、耳元で呼ばれて心臓が跳ねた。囁くような柔らかな声色。それ以外の音は聞こえない。ああ、もう曲が終わっていたのか。少し混乱したまま、こくこくと頷くとカイトが続ける。
「すごく素敵ですね。マスターの指示がぴったりはまっていて心地よかったです。どうでしたか?」
 甘やかな声が鼓膜をくすぐる。息が止まりそうだ。心臓は早鐘のまま鳴り止まない。なんでこんなに胸が詰まるんだろう。早く返事をしないと。
「っ……、ん……、よか、った」
 どうにか引きしぼるように発してヘッドフォンを外した。ぼうっとして、これ以上何もする気が起きなかった。テーブルに突っ伏すと、鼓動が余計にうるさく感じられた。
 ふっと気配が近づいてきて、左手の先に何かが触れる。とんとんと優しく叩かれながら、「断線しますよ」と言われた。ヘッドフォンのコードを押し潰していたようだ。
「ああ……、っ……」
 のろのろと顔を上げると、至極間近に端麗な顔があってまた息を呑んだ。指先にカイトの左手がそっと重ねられている。そのまま、動かない。
 なぜ。ヘッドフォンを片づけなければいけないのに。
 おそるおそる視線を合わせると、澄んだ海のような双眸がじっとこちらを窺っていた。それは何も知らないようにも思えたし、何もかも見透かしてしまうようにも思えた。
 強く握りこまれているわけではない。何気なく手を引いてしまえばいい。分かっている。だけど、動けなかった。
 ほのかな温かさが指先から伝わってくる。そこからじわじわと侵食して、左腕をとおって、心臓でふくらんで、爪先まで巡っていくようだった。
 とっさに駄目だと思った。何かが変わってしまうようで恐ろしく感じた。
「……カイ、ト」
 何とか発した声はからからに渇いていた。
「はい……、……夕飯、つくりますね」
 そう言ってゆっくりと離れていった手をぼんやりと目で追った。カイトが一歩二歩と下がって、キッチンへ向かう頃になってようやく小さく頷いた。


 頭の中がふわふわして落ち着かない。じっとしているとキッチンにばかり意識が言ってしまう。スパゲティを作ろうとしているらしく、湯気をあげている大鍋にばらばらと乾麺が入れられていた。
 普段のカイトはどことなくミステリアスで、たやすく触れられないような雰囲気を醸しだしていたが、今はどうだろう。パスタレードルを握っている姿は通俗的で、こちら側へ降りてきたかのように感じられる。手を伸ばせば届きそうな。もっと近づいてみたいような。そんな気にさせられた。
――これ以上考えるのはよくない。
 かぶりを振る。アンビエントミュージックを流して気を紛らわせることにした。草木のさざめきに耳を傾けているうちに何かの気配が近づいてきた。カチャカチャと陶器のこすれあう音に続いて、温かな声が空をふるわせる。
「お待たせしました」
 テーブルにボロネーゼと、オニオンコンソメスープが並べられた。
「……おお。ありがとう、いただきます」
「召しあがってください」
 スパゲティをフォークに巻きつけながら、カイトの手元に目をやった。
 向かい合って座っているが、同じ食事は摂らない。カイトの皿に盛られているのは、炭酸水素ナトリウムを溶かしたゼリーだ。スプーンで丁寧に切りだしてゆっくりと口に運んでいく。少しすぼめられた唇がちゅっとゼリーを吸いあげた。
 そのしぐさに、心臓がどくっと音を立てた。今日はずっと相応しくないことばかりが頭をよぎっていく。喉が渇いたように感じるのはミートソースの味が残っているせいだろうか。
「マスター」
 見すぎていたことに気づかれたのだろう。
 しかし、静かに発せられたその声は不思議そうにしているわけでもなく、食事を促すようでもなく、ただ俺を呼んでいた。無色透明。何も見えない、そんな声だった。
「あ……、……いや、……このミートソースおいしい」
「よかったです。憶えておきますね」
 にこりと微笑んだ綺麗な顔を見ていられなくて、さっとスパゲティへ視線を落とした。何を思ったかなんて、到底言えるはずもなかった。


 カイトを家に招いてからひと月が過ぎていた。
 初めて逢った時から、ひとならざる雰囲気に惹かれていた。ただ、それは美しい景色をみて感動するのと同じで、後ろ暗くなるようなことは思っていなかったはずだ。いつからこんな懸想するようになっていたのか。
 カイトの居る光景に慣れてきていたからだろうか。“その時”なんて愚かな興味を持ったのがいけなかった。意識しないまま、淡く抱いていた感情を起こしてしまった。
 ソファーで物思いに耽っているうちに、カイトは片づけを終えたらしい。すぐ近くで「マスター」という声がしてびくりとした。
 このままではよくない。言わなければ。深呼吸をして細々と口を開いた。
「……っ、……しばらく、あまり俺に、近づかないでほしい」
「……理由を教えてもらえませんか」
 特別驚いた様子もなく、落ち着いた声が返ってきた。そうした整然とした態度が、思うべきでないことを思っていると実感させる。
「カイトに迷惑なことしか、考えられなくて……、それで、」
「迷惑なんて思うはずがありません」
「違う、違うんだ。だって俺、どうかしてる――」
「なぜそんなことを言うんですか」
 海を湛えた美しい双眸をまともに見返せない。
 返答に窮していると、ふいに両肩をつかまれた。
「え…、カイっ……」
 端麗な顔がゆっくりと近づいてくるのが見えたが、動けなかった。
 唇にカイトのそれが重ねられて、わけが分からなくて、ウソだろう? と思っているうちに離れていった。今、なにをされた?
「……マスターがしたかったこと、ですよね」
 やんわりと問いかけるように言われたが、確信めいた声音だった。
「ち、違……」
「違いましたか」
 まっすぐな視線が、違いませんよね、と言うように突き刺さる。
 否定しても意味がない。距離を取りたいわけはまさしくそれなのだから。
「……っ、違わない、から……、っごめ、手、離して」
「どうか逃げないでください。僕はとても、嬉しいんですよ」
 カイトはうっそりと微笑んでいるようにみえる。
 なにが起きているのだろう。混乱していた。
「僕も、してもいいですか」
 何も言えなかった。カイトの言葉をすぐに理解できなかったのと、もしも頷いたらどうなるのだろうという少しばかりの好奇心と不安があって、どうしたらいいか分からなくなった。
 まごまごしているうちに肯定と捉えられたらしい。今度は食むように口づけられて上唇をねぶられた。あごに指を置かれたと思った時には、口の中にぬめりとした感触があって、ちぢこまっていた舌を絡め取られていた。
「……っ、は……ふ、ぁ……」
 窺うようにゆったりと粘膜をすりつけられる。
 なぜ、こんなことに。そんなに、ものほしそうな顔をしていただろうか。顔を引けばいい。やめさせる合図を出せばいい。簡単なことだ。分かっているのに、柔らかく優しい舌に掬いあげられるたびに意志がぐずぐずになっていく。ああ、どうしたらいいのか。気持ちいいと思ってしまっている。
 時々、ぴちゃぴちゃと水音が漏れ聞こえて羞恥を煽られる。カイトと舌を絡ませているという実感がじわじわと押し寄せてきた。息が上がる。全身がぼっと熱くなって、どうしようもなくなってきた。
「っか、ぁ……い…と……」
「はい……」
「は、離れて……。お願いだから……」
「……僕はマスターと同じ気持ちだと思ってます。うぬぼれでしたか」
「俺は……、俺はもっと、醜いことを思ってる、から……」
「その感情を僕にください」
「なに……、っ……!」
 胸元に掌を押し当てられた。その手がゆったりと下りていく。
 カイトが触れている。心臓がどくどく、どくどく昂ぶって抑えられない。
「い、やだ……っ、触、なっで……」
「どうしてですか」
「だって、おれ、こんな……、恥ずかし……」
「すべて愛します。だから、僕に向けてください。僕から目を背けないでください」
「っ……!」
 この場に似つかわしくないような透きとおった碧眼に捉えられていた。
「あ、っ……、いやだ、っ、やだ……っ」
 とうとう熱のかたまりを握り込まれた。
 ファスナーを下ろされているのに、突き飛ばすこともできない。
 欲にまみれた浅ましい姿を映し出されている。
「マスター、いいって言ってください。おねがいです」
「っ、それ…っ、や…め……っ」
 親指で先端をやさしく撫でさすられて内腿がびくびくと震えた。
「カイ、や、っあ……、ん、ぁ……っ」
「マスター、愛してます……、愛してください……」
 懇々と訴えてくる声音はなんだか泣きだしてしまいそうだった。
 泣きたいのはこっちなのにと思う。
「あ、ぁ、っ、はぁ…っ、かい、と……っ」
「はい……」
 愛していいなら、愛したい、本当は、本当は。
「い、いっ……、っき、もち、い……、ごめっ、い、っああぁ……ッ」
 切なく湧きあがってくるまま、口にした。認めてしまうともう抑えることなどできなくなって、あっという間に波に飲み込まれた。背徳感に後押しされるようにして劣情をぶちまけた。
「は…っ、はぁ……」
 幸福に思えた時間は短く、よごれたカイトの手が見えた途端に青ざめた。
 なのに、カイトはおかしなことを言う。
「マスター、ありがとうございます」
 どことなくうっとりした声が耳をくすぐっていく。
「……なんで、カイトがお礼を言うんだ……」
「僕に感情を向けてくれたから嬉しいんです」
「こんなの、カイトに向けていいものじゃない……」
「マスター」
 よごれていない左手で、俺の右手を取ると甲にそっと口づけられた。
「仮にマスターが醜いというなら、僕はそんな醜いあなたを愛してます」
「……っ」
 行動も言葉もまるで現実みがなくて、気の遠くなる思いがした。
 そういうところがやはり触れてはならないのではないか、と思わせる。
 だけど、手を振りはらうこともできない。
「カイトはストイックで……、もし……、もし、そういうことをするなら、どんな顔をするのかなって……、思ってた」
「僕は今、どんな顔をしてますか」
「……いつもよりは、その……、」
 キッチンに居る時とはまた違う雰囲気を纏っている。ただ、欲めいたものはかすかで掴めそうにない。夢なのではないかという気さえしてくる。
 うまく言えないでいると、カイトが艶然と笑みを浮かべた。
「マスター、僕の内側、見てみますか?」
 魚も棲めないようにみえた瞳の奥に何かが息衝いていた。
 どくっと心臓が跳ねて、うまく息ができないまま、こくりと頷いた。



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