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格子窓を開けると、夜風がそよそよと肌を撫でた。喫煙具を片手に、裸足のままウッドデッキへ出る。瑠璃色の空に平鉢をひっくり返したような月が浮かんでいる。梅が咲き始めたばかりの時期で、星はほとんど見えない。
まだ右も左も分からない子どもの頃、ここでカイトと流星群を見上げた。椅子に座ったカイトに抱っこされたまま、何時間も眺めていたのを憶えている。背中から伝わる温もりに包まれながら、次も一緒に見たいなと漠然と思った。その周期群が来るのは三十年先だった。
煙草を取り出し、ゆっくりと吸いながら火を点ける。咽せはしないがまだ慣れない。不規則な模様を描きながら立ち昇っていく紫煙を眺めた。じわじわと燃焼していく様が面白い。指先で叩いてアッシュトレイに灰を落とす。一つ大人になったような気がした。
ふと視線を感じて反対側を見ると、隣の部屋からカイトが出て来ていた。見つかってしまった。表情は薄暗がりでよく分からない。ただ、俺の手元をじっと見ているのは感じた。一続きのベランダを伝い、真横まで来ると落ち着いた声で言った。
「未成年が喫煙はだめですよ、マスター」
想定内の言葉だが、こんなに早く見つかるとは思わなかった。一週間前に喫煙具を揃え、自宅で吸うのは初めてだった。こういう時、遅生まれは損だなと思う。何ヶ月も前に十八歳を迎えた友達が羨ましい。
「あと一ヶ月で成人するんだからいいだろ」
「つまり今はまだ子どもという事です。没収します」
「あっ、おいっ」
吸い掛けの煙草をアッシュトレイごと奪い取られた。そのまま慣れた手付きで指に挟み、口元へ移動する。さっきまで俺が吸っていたフィルターが、カイトの唇に咥えられている。目を離せない。深く味わうようにそれは吸われた。火種が赫々と光った。いつからだろう。飲み物の回し飲みが気になるようになったのは。
呆けたままカイトを見つめていると、口角が緩やかに持ち上げられた。
「口が寂しいなら、俺とキスでもしますか?」
「近いっ……」
覗き込むように顔を寄せられ、面食らった。部屋から漏れ出る光が端整な横顔を照らしている。十年以上も共に過ごして、見慣れているはずなのに落ち着かない。咄嗟に後ずさると、カイトはふふと笑った。
「今更、恥ずかしがる事ないじゃないですか。以前は毎日してたでしょう」
「子どもの時の話だろっ」
未就学の時分に、お早うお休みのキスだけでなく、何かにつけてキスしていた事は憶えている。俺がするとカイトはお返しのようにぎゅっと抱き締めてきて、それが嬉しかったのだと思う。
そんないとけない時期もあったなと遠い目をしていると、カイトはぴしゃりと言った。
「……今も子どもですよ」
「ッ、あー、そうだな」
言い返すと余計に子どもっぽい気がして飲み込んだ。歯痒い。もうベランダのフェンスに手も届かなかった幼子ではない。カイトに抱えられなくても星に手を伸ばせる。背丈も追い付き、同じ目線で話が出来るようになった。再来月には生家を出てカレッジに通い始める。いつまでも子ども扱いしないでほしい。
フェンスに寄り掛かり、流れてくる紫煙を見るともなしに眺めた。二、三筋に分かれたそれは時々交差し、くるくると踊りながら黒闇に溶けていく。
ふいに顎を掴まれた。何事かとカイトを見れば、人差し指で下唇をなぞられた。
「なにっ……」
瞬間、擽ったいような、じっとしていられないような感覚が走った。
「指を咥えるのでもいいですよ。ほら、口を開けてください」
「おしゃぶりのつもりか、うあっ、手ェ、離っ、う、う……っ」
喋った拍子に、指が侵入してきて舌を撫でられた。突然の出来事に思考が追い付かない。反射的に顎を引こうとしたり、舌を引っ込めようとしたが全て遮られた。中溝を押されると、反動でカイトの指先を舐めてしまう。指を動かされるたび、背筋がそわそわした。
「……吸っていいですよ?」
耳元でそう囁かれてぞくりとした。俺はもう子どもじゃない。カイトに対して兄弟でも主従でもない感情を抱いている。だけどまだ、知られるのが怖かった。俺が似つかわしくない事を思っていると知ったら、どんな顔をするだろう。
「っ……、が、このっ」
「痛っ、噛む事ないじゃないですか」
軽く歯を立てると、ぱっと手を引っ込めた。カイトの指先がてらてらと濡れている。名残惜しむように唾液が糸を引いて恥ずかしかった。
「本当に指突っ込んでくるかよ!」
「それならキスしますか」
形の良い唇が弧を描く。大した事でもないみたいに、軽々しく言ってくれる。子どもの振りをしてキスする事も、道化を演じる事も出来ない。不甲斐ない自分が嫌になる。
「しねェよ……! もう吸わないからいいだろっ……」
煙草の箱もライターもウッドデッキへ放り投げた。夜のしじまを裂くように落下音が響いて、はっとする。こういう行動が子どもっぽいんだ。みっともない。気分は沈む一方で、自室に戻ろうとすると引き止められた。
「悩みがあるなら聴かせてください」
「……無いから。もう寝る」
「以前は何でも話してくれましたが、俺に言えない事も出来たんですね」
「……」
「自慰の仕方を教えてあげた頃が懐かしいです」
「バカイトっ……!」
真顔で凄まじい爆弾を投げてくる。おしめを替えたと言われても実感がわかないが、自慰まで来るとよく憶えている。思い返せば、あの後から意識し始めていた。
その日は小雨の休日だった。うつ伏せで本を読んでいたら、急所が痛いような心地良いような違和感があった。もぞもぞと体を動かしているうちに、下着が湿ったような感覚がした。焦って手洗いに駆け込むと、見た事のない体液でよごれている。何か悪い病気になってしまったのかと混乱して、カイトに泣きついた。「大丈夫ですよ」と微笑んだカイトは、俺を抱っこして部屋に連れて行った。もう抱っこされるような歳ではなかったけれど、安心したのを憶えている。カイトの膝の間に座らされ、中心を握る俺の手にカイトの手が重ねられた。「こうするといいですよ」と言いながら触れてくる手が気持ちよくて、ほとんど身を任せていた。一人でするようになってからも、度々その手を思い出した。言えない事の一つだ。
「マスターの誕生日が来たら、最後に教えたい事があります」
「……何?」
「まだ秘密です。お休みなさい」
最後って何だ。成人の心構えでも説くつもりだろうか。気になる言を残して、自室に下がっていくカイトの背中を見送った。
彼岸に入り、誕生日まで一週間を切った。休暇期間だが、今年はあまりのんびりしていられない。カレッジや住居の各種手続きに加え、引っ越しの準備で小忙しい。学位を取るためにモラトリアムは続くが、大人になるのだと思うと晴れやかな気持ちだ。
「マスター、荷造り手伝いますよ」
「ああ、お前も必要な物まとめとけよ」
「……俺も連れて行くんですか」
「俺がマスターなんだから当たり前だろ。何だよ……、いつまでもカイトに頼ってるようじゃ子どもだって?」
「いいえ……」
カイトは最近、奥歯に物が挟まったような言い方をする。成人して生家を出ても、アンドロイドをPAとして連れて行くのは珍しくない。俺の世話が煩わしいのかと思ったが、そうでもないようだ。むしろ、寂しそうにすら見えるカイトの態度が分からなかった。
恋情を自覚してから、離れて暮らす事も考えた。だけど、一時の気の迷いではなく、もう何年も想い続けている。それならいっそ、今までどおり傍に居てほしかった。
薄雲のベールを纏った空が、春の訪れを告げた。劇しい風が季節を塗り替えていくようだ。十八歳になった。毎年ホームパーティを開いているが、強風のせいで、招待者のヘアスタイルが乱れるのはお約束になっている。スプレーを一本消費してガチガチに固めて来るのは序の口で、「そうはならないだろ!」というボサボサヘアにして来たり、「パリコレに出るの?」という斬新なセットにして来たりするから楽しくて仕方ない。皆、忙しい時期のため、早めにお開きにしたが集まってくれて嬉しかった。
後片付けを終えて、ソファで寛いでいるとカイトがやって来た。誕生日は王様扱いしてくるが、足元に跪いて「お時間よろしいでしょうか?」なんて言い出したから笑ってしまった。
「よろしいよ」
「マスター、ご成人おめでとうございます」
「ありがと」
朝も言われたが、改めてという事だろう。「贈り物です」と言って渡された包みを開けると、自分で買うには高価なタッチペンやハンカチ等の雑貨が入っていた。俺の趣味を把握してくれていて、一目で気に入った。
「皆さんと被ってしまうと思ったので、消耗品にしました」
「それがな、被ってないんだ。あいつら、普通のもの寄こさない!」
「ふふ」
「大事に使うよ」
早速、タッチペンの使い心地を試していると、耳元に口を寄せられた。
「……お話があります。部屋に来て貰えますか?」
密めく声が鼓膜をふるわせて、どきりとする。ボーカルアンドロイドの声が魅力的なのを、解ってやっているのだろうか。心臓が耳の中に移動してしまったみたいだ。ずきずきと痛むような気さえして、「ああ……」と頷くので精一杯だった。
カイトが先導して廊下を進んでいく。幼い頃に追い掛けていた背中は、もう目の前にあった。追い付いたはずだ。
俺たちの個室は元々広いワンルームで、可動式クローゼットで間仕切りをしている。カイト側の扉に入るのは久しぶりだ。先程の余韻もあって緊張する。椅子を差し出されて向かい合わせに座った。面接でもするかのようだ。
万華鏡のような両眼に俺の姿が映し出された。中心部に吸い込まれたら、内側へ行けるのだろうか。カイトの唇が開かれる。深々と息を吸い込んだ。一連の動きがスローモーションで映った。
「マスターが好きです」
澱みなく、はっきりとした声が室内に響いた。――今、なんて言った? こんな静かな空間で聞き間違いをしたのか。「え」と開いた口は声にならず、ただ空気をふるわせた。
「っ……、……どういう意味で?」
「抱き締めたいし、キスしたいと思っています。……その先も」
カイトは俯き、罪を告白するように声を落とした。
夢を見ているのだろうか、都合の良い妄想なのか。それは俺が言えずに、ずっと隠してきた事だ。
「い、いつから……?」
「貴方が十五歳の時でしょうか。ただの保護欲だって自分に言い聞かせていたんですけど……」
「……」
「貴方はもう子どもではありません。すべての権限があります。だから、迷惑でしたら捨ててください」
抑揚のない声で、淡々と言い終えると口を閉ざした。行儀よく膝の上に置かれていた手が、ぎゅっと拳を作る。審判を待っているようだった。
頑なに子ども扱いしてきたカイトに苛立ったり、哀しくなったりした。いつになったら認めてくれるのだろうと思っていた。だけど、俺が成人するまで我慢していたんだ。そして今日、一世一度の告白をしてくれた。
「……最後に教えたい事ってそれ?」
「はい……」
「今日一番のプレゼントだな」
「マスター……」
両眼を伏せて頭を垂れたカイトは、俺が皮肉を言ったと思ったようだ。恋人になりたいとは言わずに、去就を委ねてきたカイトらしい。
「立って」
そう言うと、弾かれたように立ち上がった。俺も歩み寄る。じっと佇んでいるカイトの腰に、腕を回して抱き締めた。
「……!」
「もっと早く、こうすれば良かった……」
「マスた……、マスター?」
カイトは紺碧の眼を見開いたまま、当惑していた。想像していなかったのだろう。俺だって、何年も好きでいてくれたなんて思いもしなかった。だから、耳元で内緒話をする。
「……自慰の時さ、お前の事思い浮かべてたって言ったら、気持ち悪い?」
「っ……、嬉しいですよ」
「ははっ、最高の誕生日だ……」
両手を背中に回されて抱き返された。夢でも妄想でもない。確かな温もりを感じて、泣いてしまいそうになった。
「キスしていいですか……?」
「うん……」
二人で顔を寄せてそっと口付けた。何年ぶりだろうか。幼い時に慣れ親しんだそれも、今は特別な意味を持っている。軽く合わせたり、食んだりしているだけで気分が高揚した。
心地良さにぼうっとしていたら、今度は耳たぶにキスされた。
「……体に触れても?」
「っ……、ん……」
甘やかな声音を注ぎ込まれて息が詰まった。心臓は破れそうな程、どくどくと脈打っている。言葉が出なくてただ頷くと、背中から腰に掛けてゆっくりと撫で下ろされた。俺の反応を窺うように、指先があちらこちらと移動する。肩甲骨の下の辺りに触れられると、じっとしていられないような感覚になった。服越しなのに何でこんなに気持ちいいのだろう。首筋から染め落ちていくような快楽が走り抜けた。
「っ……、カイト……」
「この辺りですね……」
「は……っ、あ……、立ってられ、な……」
支えられながらずるずると座り込んだ。他人にマッサージされても擽ったくもないのに、カイトに触られているからだろうか。服を捲られ、素肌を撫でられたら、何も堪えていられなかった。腹筋を辿っていく指に、その先を期待してしまって腰が浮いた。
「ここも……?」
「聞くな、ぁ……っ」
カイトの手で擦ってほしくて抱き付いた。「はい」と優しい声がして、ベルトを外され、ボトムを脱がされた。甘えているかも知れない。子どもに戻ってしまったみたいだ。
全身が火照っている。中心は零れそうなほど湿っていて恥ずかしかった。自分だけ肌を晒している有様に、これでは駄目だと思った。幼い時に出来なかったのは、カイトのそれを愛する事だ。
「お互いしよう……?」
俺もカイトの服を脱がせてやると、嬉しそうに笑ってキスしてきた。下着がふっくらと盛り上がっている。カイトも興奮してるんだ。触りたい。薄い布を下ろすと、窮屈だったのか勢いよく出てきた。
「えろ……」
「……っ、マスター」
そそり立つ昂ぶりに見蕩れていたら、カイトはかーっと顔を赤くして横を向いた。こんな風に照れている所なんて初めて見た。愛おしくて胸が一杯になる。そのまま、きゅっと握ると「はぁ……」と切なそうな声を漏らした。もっと見たい。様子を窺いながら愛撫を始めたが、長くは持たなかった。カイトも触ってきたからだ。
「んっ……、あ……っ」
するすると摩擦しながら、親指が裏側を擦り上げる。滲んだ体液を塗り込めるように、口を弄くられたら、思考も何も吹き飛んだ。
「ああぁっ……、あぁ、ん……っ」
「俺の手どうですか……? 想像していたのと……」
「ずっとい、い……っごめ、俺……、出来てな……」
「いきそうですか……?」
「っん……、あ、あ、待って……、止めて……っ」
「……腰、揺れてますよ、マスたー……」
「かいと……っ、かいと……、ッ……!」
堪えようと思って咄嗟に腰を引いた。それが更に刺激になって、じわっと込み上げてきた。止められない。押し流されてしまう。快美にまみれて視界が反転した。白濁がぼたぼたと溢れ出るのが見えた。
「は、っ……、はぁ……っ、ん……」
お互いにと言い出したのは俺なのに、ほとんど触ってやれなかった。体の構造が同じだからといって、俺の好きな所を探り当てるのが上手すぎる。気持ちよすぎてどうしようも出来なかった。
乱れた息を整えながら、改めてカイトに手を伸ばした。
「お返しっ、お前も俺に翻弄されろ」
「っ……マスター、俺……っ、幸せです……」
「ん……、俺も」
顔を寄せて小鳥みたいなキスをした。何度か繰り返しているうちに下唇を舐られ、反射的に口を開いた。熱い舌が侵入してきて、ぴちゃぴちゃと絡ませ合う。粘膜が擦れて気持ちいい。このままカイトを愛撫してやれば、もっと乱れるのではないかと思って、両手に意識を集中した。
「は……、んっ……」
「カイトは、ここ好き……?」
反応の良い所を逃さないように、濃密に責め立てる。キスの合間に問い掛けると、悩ましそうに息を零した。肩を掴まれている手に時々、力が込められるが、俺が痛がると思っているのか直ぐに緩められる。その間隔は次第に短くなっていった。俺の手で高まっていく姿にどきどきした。
「う、う……、ます、た、俺……」
「イって」
「……ッ!」
眉間に皺を寄せ、掠れ声を上げてカイトは果てた。端整な顔が快楽に歪んで惚けている。そんな表情するんだ。可愛い。びゅーっびゅっと出てきた淫水は受け止めきれずに、俺の腹に掛かった。エロチックな眺めだ。カイトとしたんだと思うと嬉しくて、何となく肌に塗り付けていたら止められた。
「今、拭きますから……、ゴムをすべきでした」
「え、いいよ。カイトのだし……」
「よごしてしまうみたいで」
「……俺に突っ込みたいとか思ってるんじゃないの」
「っその……、でも、マスターは、」
「俺、カイトとするならどっちでもいい。前に俺が煙草吸ってた時、指咥えさせてきただろ?」
「はい……、すみません……」
「怒ってるわけじゃなくて。いや、あの時は子ども扱いされて腹立つとは思ったけど。
でも、違ったんだよな。本当はえろい事考えてた?」
「色っぽいな、と、思ってました」
「ははっ、そっか。俺さ……、俺も、いやじゃなかったよ」
照れくさくて横を向くと、両手で頬を包まれて口付けられた。俺はお返しにカイトをぎゅっと抱き締める。遠回りのような道程だったけれど、漸く結ばれて同じ方角を見ている。幼い頃に思った事も叶えられるといい。十五年後の流星群もカイトと一緒に見たい。
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