膝のぬくもり。
髪に触れる男の手。
少女はくすぐったそうに身をよじる。
「ほら、動いてはいけませんよ。折角の三つ編みが不格好になってしまいますから」
男に注意され、少し身を堅くするが、やはりくすぐったさには勝てないのか、必死に目をつぶり、耐えていた。
ぽんと頭の上に手が置かれる。
「できあがりです。リボンはオマケしておきました」
「ありがとうございます。エスターライヒお兄様」
お礼の言葉を述べると、彼の膝の上から降り、鏡の前に立ってみた。
金色の三つ編みが肩の上でゆらりと揺れる。
今まで髪なんて邪魔だから切ってしまおうとも思っていたのだが。
椅子に腰掛けたままの男の顔を見る。温和な笑みを向けてくれる彼に、少女は満面の笑みを返した。
何度も何度も鏡を見つめ、首をかしげてみる。その度に可愛らしい三つ編みがぴょこぴょこと揺れる。
「エスターライヒお兄様、今日は何をすればいいですか?」
「そうですねぇ……それでは……」

上司と部下の立場である事は理解している。
愛している女性がいる事も知っている。
それでも、この三つ編みが彼とのつながりだから。
小さなつながりに心が温かくなる。
だから、彼の為にできることはやりたかったのに。


雨が降りしきる。
雨の日はあの時を思い出す。
オーストリアの元から出てきて、一人で生きてきて、どうにか生活してきて。
でも、大きな喧嘩のせいで食べることすら困難になり。
倒れていた所をスイスに拾われて。

「……そろそろ、エスターライヒお兄様との最後のつながりを……」
鏡に映る少女の姿。
昔は毎日彼が三つ編みをしてくれて。
一人になってからは、自ら三つ編みをして。
最初はかなり不恰好だったけれど、それでも彼とのつながりなのだから切るわけにもいかなくて。
はさみを手に取った。震える手で三つ編みを一房軽く握り。
「さようなら。エスターライヒお兄様……いえ、オーストリア様……」
ざくりとした音が部屋の中に響き渡った。
床に広がる金色の髪。
寂しげに落ちる一房の三つ編み。
彼がくれたリボンはつけたまま、もう片方の三つ編みをもはさみで切り取る。
頭が軽くなった気がする。長年、三つ編みを続けてきたのだから仕方が無いだろう。
短くなった髪を鏡に映す。そしてひどく泣きそうな顔をしている事に今気がついた。
「私は……兄さま……スイスお兄様の妹です。だから、強いのです。
だからここで泣いては……泣くわけにはいかないんです」
鏡に映る短い髪の少女に向かって、暗示をかけるかのように何度も呟き。
無理に笑ってみせる。鏡の中の少女も歪んだ笑みを向けてきて。

床に落ちた三つ編みに雫が落ちる。
静かな部屋の中、すすり泣く声だけが静かに響き渡り。

――1919年、リヒテンシュタインはオーストリアとの関税同盟を解消した――


カラフルな雑貨屋。目の前には様々なリボンが並んでいる。
兄は居心地悪そうに少女の顔をちらりと見て、買い物を促す。
棚を見回し……目に入ってきたのは深い海のような青いリボン。
頭の片隅にその色を湛えた瞳をした男を思い出し……いつの間にかそれを手に取っていた。
兄はそれを選んだのかと思ったのだろう。店員に代金を支払い。

金色の髪に栄える蒼いリボン。
それは新たなつながりの証。
短い髪にリボンが揺れる。

「ご機嫌麗しゅう」
もう彼の顔を見ても泣くことは無い。笑って接してみせる。
彼は短くなった少女の髪に気がついたのか、小さなため息を一つつく。
だけれども、心を鈍感にしてそれに気がつかない振りをする。
懐かしい一緒の食事。本当は嬉しかったが、できる限り感情を表さない。
それが彼女のけじめだから。

――もう上司でも『兄』でもない。ただの近くの国。だから――

彼にはなるべく心を閉ざす。懐かしい思いに捕らえられぬよう。

「それではごきげんよう」
兄と共にそっけなく彼と別れる。振り向くことはせず……

――エスターライヒお兄様――

無邪気に笑ったあの日。
彼の為、兄の為、そして自分の為に。
あの日の想いは、彼がくれたリボンと共に埋めてしまおう。大きな木の下に。
兄から1歩遅れて歩きながら、彼女はぼんやりと想いをめぐらしたのだった。

――彼女の名はリヒテンシュタイン。とてもとても小さい国である――

 



書き下ろし
エスターライヒとは、オーストリアのドイツ語での発音です。
どこぞで『リヒの三つ編み』=『オーストリアとの関税同盟』という話を聞いて、
書きたくなった話です。




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