「しんせーろーま?」
「ええ、これから貴女、リヒテンシュタインが仕えるべき方です」
少女は首をかしげる。まだ幼い為か、しっかりとは理解できていないようだ。
口の中で、何度か仕えるべきものの名前を呟く。
「しんせーろーま。しんせーろーま……うん、しんせーろーまにつかえる」
「女の子なんですから、もう少し丁寧な言葉お使いなさい」
「えっと、つかえます……でいいの?」
「まだまだですが……よろしいでしょう」
くしゃっと髪を撫でられ、満面の笑みを浮かべる。
やっと誰かに認められた。やっと誰かに『いてもいいよ』といわれた。
そして――自分を認めてくれたまだ見ぬ神聖ローマに興味を抱いた。オーストリアの下で働いている以上、中々神聖ローマには会えない。
ご飯の時も、掃除の時も、会う機会などない。
姿を見たところで、それが神聖ローマか否か判断の仕様もなかったのだが、
それでもとにかく会いたかった。
慣れぬ戦いに身を投じ、身体を傷だらけにし……
初恋に似た思いは、小さな身体を動かす動力源となっていた。「うぅ……いたい…です」
湖で傷だらけの身体を拭う。腕や足にできた傷が水にしみる。
重い剣を引きずり、戦場を走り、頑張ってはみているのだが、所詮は下級の存在。
力もなければ、戦力もない。ただ、他のものについていくだけ。
だから、傷を負っても、誰にも心配をしてもらえない。
「……もう、嫌…です」
湖に浸かっていると、水の冷たさで更に深い孤独を感じる。
争いは嫌だ。戦いは嫌だ。
でも、戦わないと自分が保てない。
「誰か…助けてくだ…さい。もう、嫌、です」
神聖ローマに仕えるためにいろいろ無理をしてきた。嫌いな剣も握った。慣れぬ敬語も練習してきた。
いつか、神聖ローマに会うときの為に。
だけれども、もう誰も評価してくれない。もう誰も自分を見てくれない。
「…ふぇ……」
必死にこらえていた涙が溢れ出す。ぽろぽろとこぼれる涙が、水面に波紋を作っていく。
「ん? 誰かいるのか?」
背後から聞こえてきた少年の声。
その瞬間、オーストリアの言葉を思い出した。
『女の子は慎みや恥じらいを持ちなさい』
現状、身体には何も身につけず、水に浸かっているのだ。
こんな状態を見知らぬ少年に見られてしまったらどうなるか。
難しい事はわからないけれど、きっと『慎み』や『恥じらい』が無いということになってしまうだろう。
そうしたら、神聖ローマに嫌われてしまう。
それだけは避けたい。
反射的に肩まで水に浸かる。幸い、今日は天気も良い。
光の照り返しで裸体を見られることは無いだろう。
草むらから、大きな黒い帽子が現れた。そして意思の強そうな瞳をした少年が顔を出す。
周りを見回すと、湖に浸かっている少女を見つけ、いらだった口調で問う。
「おい、イタリア見なかったか?」
「イタリア……さん? みない…です」
少年は首を横に振ると、小さく舌打ちし、方向転換しようとする。
久しぶりに誰かが話しかけてくれたのに。
自分を頼ってくれたのに。役に立てなくて、それが悔しくて。
「ひっ…ぐ……うぅぅ」
再び溢れ出す涙。
「ちょっ、な、何でお前泣くんだよ!!」
突然の涙に、慌てふためく少年。
涙を止める術など知らないのか、ただただおろおろしているのみ。
「あーもう、泣くな! 泣き虫は嫌いだ!」
「や…嫌わないで……頑張るから、もっと…頑張る…です」
怒鳴り声が逆効果になり、少女は更に涙をこぼす。
このまま放っておければよかったのだろうが、さすがにそんなことはできず、
少年は気まずそうに背を向けて水辺に座り込んだ。
「……お前の名前は?」
「ひっ、り、りひてんしゅ……うぐっ、しゅたいん」
「あーあの、最近俺のとこに来た奴か。ちっこい身体のくせに頑張ってるじゃねーか」
きょとんとし、聞き返してみる。
「頑張って……る? 私の事…です?」
「ああ。ちっこい手で剣頑張って振り回しているって。あ、そうだ」
何か思いついたのか、肩かけカバンをごそごそ探し、何かを取り出した。
小さな薬いれ。蓋には美しい女神が彫られている。
少女に近い水辺に置くと、少し離れ、
「それ、傷薬だ。良く効くから使え。じゃあな」
泣き止んだのを確認すると、少年は再び草むらへと消えていった。湖から出てくると、身体を拭いもせず、薬を手に取った。
薬いれを開くと、白い軟膏が詰まっていた。ハーブの香りが心地よい。
手にできた傷に一塗りし、薬をぎゅっと両手で握り締めた。
「…頑張ってるって……見ててくれた…です。もう少し、頑張れる……です」
――そして、少女は少しだけ笑えた――
――その後、神聖ローマは消えたと聞かされた。
会いたかったのに、会えなかった。
顔も知らぬ彼女の初恋は、そうして終わる。守りたかった神聖ローマはもういない。
満たされない心のまま、長い戦いの中に身をおくことになり……
いつしか、戦いに嫌気がさし、中立を宣言する。だが、その中立も世界の争いの中では意味を持たず。
――そして、兄と出逢った。皆と出逢った――
机の上に置いてあった小さな薬いれを、久しぶりに手にする。
毎日が幸せすぎて、忘れかけていた小さな思い出。
「それは……瑪瑙のカメオか?」
後ろから優しい手が彼女の身体を抱きしめてきた。
肩越しに見事な細工の薬入れを観察していると、彼女が頬にキスをしてくる。
「ええ。昔、大切な方からいただいたものですの」
「大切な人……か」
少しだけすねた顔を見せる。そんな姿を見せてくれる彼がとても愛おしくて。
「嫉妬してくださるんですの? ドイツ様」
「嫉妬じゃない。そのだな……」
図星を疲れたのか、口ごもり、ごまかすかのように早口になった。
「俺も昔そういう瑪瑙の薬入れ持っていたなと思っただけだ。
ある泣き虫にやったから、もう手元にはないが。
そうそう、女神の横顔が蓋に描かれていて、
蓋の裏側には青緑色のフォスフォフィライトがついていてな……」
そういって、彼は薬入れの蓋をあけ……――蓋の裏には青緑色の宝石がきらきらと光を受け、輝いていた――
二人は顔を見合わせる。
どちらかともなく、笑い声を上げ、笑い始め……数百年ぶりの再会に、二人は唇を重ね合わせた。
2009/05/07初出
神聖ローマ=ドイツ設定のみで通じる話です。
リヒは昔はオーストリアの下級貴族だったらしいので。
拍手返しとしてドイリヒにはまってるゆゆさんに捧げます。
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