「兄さん何か嫌い!」
少女の叫び声が響き渡る。
手当たり次第に青年に物を投げつける。
しかし、それらはあらぬ方向へと飛んでいき、彼を傷つける事はできなかった。
息荒く、肩で呼吸をする彼女。それを見つめるしかできない彼は寂しそうな光を瞳に浮かべ。
「兄さんなんて兄さんなんて……」
涙が溢れ出し、頬をぬらした。
「嫌い!」
駆け出し、部屋を出て行く少女の後姿に、彼は何かを呟こうとし、すぐに口をつぐんだ。
俯く彼の頭に誰かの手が置かれる。
「うーん、今のはロシアちゃんが悪いと思うの。ちゃんと謝っておいで」
柔らかな空気を纏う女性は彼の頭を優しくなでてあげ。
彼は大きく頷いたのだった。
喧嘩の原因は何だったかは覚えていない。
些細な事だった気がする。
本当に些細な事。微かにうまれた怒りを、妹であるベラルーシにぶつけて。
いつも無条件に慕ってくれていたから、いつもの通りの返事をしてくれると思っていて。「何でこうなったんだろ」
大きくため息をつくと、彼女がいるはずの居室のドアをにらみつけた。
彼が前に立っても開かない扉。いつもは彼女の方からあけてくるのに。
「謝るって……そんなサービス僕知らないよ」
寂しそうに部屋の前に佇み、しばらく無言で立っていたのだが、やがて力なくドアを背にして座り込んだ。
「えっとさ、ベラいるんでしょ。
ねぇ、出ておいでよ。こんな事したって面白くないよ」
部屋の中から感じる気配。だけれども出てくる気配は全く無い。
大きくため息をつき、天井を見上げた。
幼い頃から一緒にいたのに、初めて喧嘩して。
だから謝る方法なんて全く知らなくて。
「あのさ、もしかしたら僕が悪かったのかもしれないよ。
僕が悪いんだったら謝らせるから。ラトビア辺りに。玩具にしてもいいよ。
でもさ、何で怒っているのか教えてくれると助かるんだけど」
それでも返事の無い彼女に、彼は俯いたまま、ただ沈黙し。
どれくらいの時が流れたのだろうか。
微かに聞こえてきた部屋の中からの物音に、肩を大きく震わせた。
ここで何て声をかけていいのかわからないから、彼は口をつぐんだまま、ドアを見つめた。
「……兄さん、約束してください」
中から聞こえてきた声は微かに震える声。
初めて聞く悲しげな声。
「……『一人で生きていける』だなんて言わないで。
兄さんが居なくなったら私は悲しくて消えてしまうから」
必死に涙をこらえているのだろうか。時折しゃくりあげる声も聞こえる。
そういえばと頭の片隅にある出来事が思い浮かんだ。ある小さな会議に参加して、小国に恐れられて。それでいらいらして。
周囲に対し、鋭い刃のような心をむき出しにし、誰も近づかないようにして。
それでも近寄ってきた妹を拒絶する発言をしてしまい。皆を、そして自分自身すらも拒絶する発言もして。「……ごめん……うん、それは僕が悪かったよ」
ドアに背を預け、彼女の言葉に大きく頷く。
「『誰にも必要とされない』だなんていわないで。
私は兄さんが全てで。兄さんがいるから私がここにいるから」
「うん。悪かった。僕も今は反省してるよ」
彼女の言葉をすんなりと受け入れ、何度も頷き。
「私は兄さんが大切。……不本意だけど、姉さんだって兄さんの事が大切で」
「……そう思ってくれて嬉しいよ」
「大切だから。私はそんな兄さんが大好きだから――」
そこで言葉がぴたりと止まった。
動きの無くなった部屋の中に首をかしげ、ノブを引こうとドアと対峙し。「――だから私と兄さんは一つになるべきなの――」
背後から聞こえた声。肩に冷たい手が置かれ。
恐る恐る後ろを振り返り。「だからさあ結婚結婚結婚けっこんけっこんけっこん」
「僕が悪かったからゆるしてぇぇぇっ!!」いつもの騒動の声を耳にしながら、サロンに居たウクライナは紅茶を傾けた。
口の中に甘い香りが広がる。穏やかな時間。
ぎしぎしと軋む床。がたがたと階段を駆け下りてくる音。それが途中で止まり、ロシアの悲鳴が響き渡る。
小さくため息をつくと、朗らかな笑みを浮かべ、二階を見上げた。
「うん、二人とも元気になったみたいだから……紅茶でも入れておいてあげよっと」
お湯で温めておいたカップに新しい紅茶を注いでいく。
ゆらりと立ち上がる湯気に頬を緩め。
「仲良いわねぇ。ロシアちゃんとベラルーシちゃんは。お姉ちゃん少しさみしいなぁ」
そうは言いながらも、ウクライナは幸せそうな顔で机の上に並べられた三つのカップを眺めていた。
初出 一年位前
『初めての喧嘩』がテーマでした。
ベラが『嫌い』というのもこういう時ぐらいしかないかなーと思いまして。
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