薫風のころ |
わたくしは急いで台所にいって、いただいたお菓子を真宵さまに見せました。 真宵さまはよかったねぇといいながら、わたくしの頭を撫でてくれました。 「そういえば、なるほどさまはどこにいるのですか?」 「んー、なるほどくんは客間で少し休んでいるみたい。 春美ちゃん、遊んでてもいいけど起こさないようにしてあげて」 「こんな昼間から、寝ているのですか? どこか具合が悪いのですか?」 わたくしがそう聞くと、真宵様は困ったようなため息をつきました。 「そうじゃないけど、…疲れているんだよ。 あいさつに行くのはいいけど、そっとしておいてあげてくれない?」 なんだか釈然といたしません。 なるほどさまは大人の男性ですし、病気なわけではないと思うのですが、 昼間から寝ていなくてはいけないことがあるのでしょうか? やはりどこか具合が悪いのでは? わたくしはいただいたお菓子を半分だけ食べると、客間に向かいました。 ふと見ると、みぬきちゃんが一人でおとなしく、ノートに何かを書き付けています。 「失礼します」 障子の外から一言声をかけてから手をかけて引くと、中は暗くなっておりました。 八畳のこの部屋は、綾里の本家の中で一番よいお部屋です。 お客さまをお迎えするときしかあけないお部屋で、 わたくしも掃除のときくらいしか中に入りません。 ここで遊ぶことは禁止されています。 今日は、朝から真宵さまが、この部屋を綺麗にしておりました。 「なるほどさま…? いらっしゃいますか…?」 わたくしは障子を引いて、そっと中に入ります。 廊下と室内はあまりに明るさが違っていて、 わたくしは目が慣れるまで、何度も目をぱちぱちしなくてはなりませんでした。 目が慣れてくると、部屋の奥に、すでに布団が敷いてあります。 さっと簡単に敷いただけの布団の上に、なるほどさまが横になっておりました。 その顔はわたくしの知っているなるほどさまとは違っておりました。 ずいぶん怖い顔になられたようです。 ……たしかに、目元がいくぶん落ち込んで、肌の色がくすんでおりますし、 なんというか…しばらく見ない間に、ずいぶん違う人になってしまったかのように思われます。 「寝ているのですか」 「ん? …ああ、春美ちゃん」 つぶやいたわたくしの声に、なるほどさまが目を覚ましました。 そうやって目を開けると、やっぱりわたくしの知っているなるほどさまに戻ります。 わたくしは安心いたしました。 「申し訳ありません、起こしましたか? わたくしはご挨拶にきただけですので、そのまま寝ててください」 「うん、…ごめんね、こんな格好で」 「たいへんお疲れのようすですし」 そういいながら、わたくしはなんだか、 いけないものを見てしまったような気がしていたのです。 それがなんなのか、わたくしにはわかりません。 「ゆっくりしていてくださいませ。では」 わたくしはあいさつをすませ、すぐに障子を閉めて客間を去りました。 なるほどさまは変わらない…いいえ変わってしまったのでしょうか。 変わっていないわけはありません。 少なくとも、今のなるほどさまは「お父さま」なのです。 (〜略〜) 『あの事務所だけは守るから』 こんな状態でもそんなことを言う成歩堂くんにあたしは心底怒ってしまった。 八つ当たりだった。そんなあたしに、成歩堂くんは少し困ったように笑うだけだった。 あたしは成歩堂くんと会って話を聞いた。 聞いたけど、……聞いたけど、成歩堂くんの表情が動かなくて、 あたしは足元が崩れてしまったような気分になったものだった。 成歩堂くんは全てを受けいれて、全ての責任を取ることを引き受けて、 そして事件の謎も秘密も、全部自分で引き受けることにしたのだ、とあたしは思った。 そうなった成歩堂くんには何を言っても無駄だった。 あたしはそれを何度も近くで見てて知っていたから、 その結果を受け入れることしか出来なかった。 本当に何かを決めた人を、他人が動かすことは絶対に出来ないことをあたしは知っていた。 成歩堂くんは本当はとても頑固で、一度決めたことを貫こうと思ったら、 どんなことでもする人だということもよく知っていたから、 成歩堂くんがしようとすることを、あたしは助けることしか出来ない。 なんといっても成歩堂くんは、御剣検事に会うために、 司法試験に合格してしまう人なのだから。 「御剣検事には話したの?」 「御剣に? なんで?」 「なんで、って……話さないの? 相談とかしないの?」 「うーん……」 「……御剣検事、きっとものすごく怒るね。 ……成歩堂くん、もしかして御剣検事に、怒られるのが怖いので黙ってるの?」 「はははは、そうかもね」 そういって笑う成歩堂くんの目は全然笑ってない。 そんな胡散臭い笑い方を、あたしにしてほしくなかった。 「…でも早く話ししたほうがいいよ。御剣検事って怒るとすごく怖いじゃない」 「そうだね」 すっと視線が揺れてそれる。 ああ、また寂しそうな顔をしてる。 成歩堂くんが御剣検事のことを話すとき、 気がついていないかもしれないけれど、そういう顔をすることはよくあった。 「……殴られるよ、きっと」 「御剣のパンチは痛いなぁ。あいつ結構喧嘩慣れしてるからなぁ」 「…そうなの?」 ちょっと意外。 御剣検事って、そういうこと、全然してなさそうなイメージがあるのに。 「喧嘩っていうか、…ほら、一応警察関係だからさ。 なんか研修があるみたいで、…人の弱点に確実にいれてくるんだよ。 学生時代は剣道してたっていうし」 「へぇ〜それは知らなかったなぁ。 じゃ、そのキツいパンチ、食らう覚悟があるんだ、成歩堂くんは」 「……それはない」 「じゃ、早く言いなよ。あたしから話して、怒鳴り込まれるよりいいと思わない?」 「……そうだね、……」 そういって笑う成歩堂くんに、少し光が戻ってきていることにあたしは安心した。 |
証拠偽造事件の後、みぬきを連れて倉院の里に遊びにきた成歩堂と、 それを追ってやってきた御剣の話です。 真宵と春美が妙に出てます〜。 |
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