性的敗北本文サンプル
 資料室のドアは、中にある書類の重さに比べれば、驚くほど軽い音を立てて閉まった。
 入り口でノートに記名する。さっと目を走らせてから奥の棚に向かった。
 室内にはどこかに人の気配がある。それほど広くない室内に、ぎっしりと並んだ本棚の間、年代を確かめながら歩いた。
 探していた書類を見つけるのは早かった。思っていた通りの場所にそれはあり、思っていた通りの内容だった。
 書類を確認しながら棚の間を歩く。さっきから感じていた気配は予想通り。幾分薄暗い室内に、彼はいた。
 まっすぐに背を伸ばし、誰も見てはいないこんな場所ですら、姿勢を乱すことを許さないのは若さゆえだろうか。端整な横顔が真剣に書類を眺める姿は、どこか芸術品めいてさえ見える。
 若干二十歳という若さで、検察庁に登庁することを許された青年の噂は、神乃木も聞いていた。数回裁判所で見かけたこともあり、厳格な師の後ろを、影を踏むことさえあってはならないとでもいうように少し遅れてついていく姿は、春に映像で紹介される鳥の親子の姿にも似て、どこかほほえましくもあった。もっとも、二人が手がける事件の裁判が、けっしてそんなものではないことも神乃木には充分にわかっていた。
 しばらくその姿勢を眺める。
 一心不乱に書類をめくっている青年――――御剣怜侍に、神乃木はそっと近づく。
 どこまで気が付かないでいられるか、試してみたい気もあった。
「ナニを探しているんだい、子猫ちゃん?」
「………っ!」
 声を上げなかっただけでも、自制が効いていると関心するところだろう。
 神乃木は御剣の背後に近づき、ほとんど接近しているとさえ取れるほどの至近距離まで迫ってから、そっと背後から耳に声を吹き込んだ。
 静粛に、を必然と強要される場所に置いて、必要以上に近づいた密着度の高い接近方法だったが、御剣は声をかけるその瞬間まで、背後に誰かがいることに本当に気が付いていなかったようだった。
 おいおい、そんなに無防備じゃ、ちょっと危険すぎるじゃねぇか。
 そう思った途端、神乃木は御剣を背後から羽交い絞めにしていた。驚いた御剣が、それでも書類を―――過去の裁判記録を床に取り落とさなかったのには、感嘆に値する。
「すげぇな。よく落とさなかった」
「………、貴重なものだ、…出来るか…っ」
 小さな声で囁きながら、御剣は神乃木の手から逃れようともがく。
 それを数回感じてから、唐突に手を離した。
「……背後を取られるまで気が付かないとは、迂闊すぎじゃないか子猫ちゃん」
「…それは誰に対する呼称だ?」
「呼称、ねぇ……ニックネームって言えよ」
「なにがニックネームだ…」
「資料はもう見つかったかい?」
「……貴様は」
「ん?」
「裁判所で…見たことがある」
「一応法曹関係者なんでね。そうじゃなかったらここに入れないだろ?」
「…それは、…そうだが、…」
 不審そうに神乃木を見上げる視線が、懸命に神乃木の顔と名前を、自身の記憶のデータベースから引っ張り出そうとしているのがわかる。
 今、御剣の頭の中はものすごい勢いで回転しているのだろう。果たして、この青年の記憶に自分はいるんだろうか?
 万に一つの可能性に賭けるほど、神乃木は楽観主義ではない。即座に御剣の肩を引き寄せて、顔を寄せた。
「星影法律事務所の、神乃木荘龍ってんだ。そんなに眉をひそめなくてもいいぜ、可愛い子猫ちゃんが台無しじゃねぇか」
「私は子猫ちゃんとかいう名前ではない」
「そら悪かったな、御剣検事」
 御剣の視線がすっと厳しくなる。
「…アンタは有名人だからな、皆がアンタの名前も顔も経歴も知ってる。でも逆はない。不公平だろうがね」
「…ものめずらしいだけだ」
「自覚はあるみてぇだな?」
 その言葉に、御剣は鼻先でフンと笑った。
「わからないような愚鈍な輩ではない」
「…そりゃそうだ」
 愚鈍の輩ときたね。
 流石に生きた伝説の検事、狩魔豪のもとで厳しい研鑽を積んでいるというのは、伊達ではない。
 御剣は神乃木の顔を眺めながら、背後にある本棚に軽く背を預けた。
 ぎしり、と金属の金具のきしむ音がする。
 立てかけられた書類を束ねた分厚いファイルが、数冊横に動いた。
「…神乃木荘龍。キサマが、私に何の用だ?」
「用がなければ声をかけちゃいけねぇのかい?」
「…普通、声をかけるのは用があるときではないのか?」
「挨拶ってのもあるぜ。嗜みとしてな」
「それは、そうだが、……だが、それならもう完了した」
「まだ終わってないぜ」
「私は終わった」
「つれないねぇ」
 御剣はそこで、何故か不思議な表情になった。
「……キサマはなんのつもりで私に声をかけたのだ?」
「ん? こんな固い鋼鉄の林の中にカワイイ子猫ちゃんが一人で彷徨ってたら、優しく声をかけてあげるのが嗜みってもんだろ? 幸い、子猫ちゃんも安心したみてぇだし?」
「安心などしていない」
「そうかい?」
 神乃木は微妙に表情の変わった青年に近寄った。上背のある御剣検事より、神乃木はすこしばかり視線が上にある。
 見下ろすようにして近づくと、どこかおびえたような表情になるのが、どこか可愛らしく思えた。
「誰も取って食いやしねぇよ。……いや、こんなかわいい子猫ちゃんなら、食べてみてぇかもしれねぇかな」











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