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それは愛ではない。 それは愛ではなかった。 夜半遅くになってから、玄関のドアが開いた。 完全に防音を施してある書斎には玄関の音が聞こえず、 夜はチャイムの音を違うものに変えてある。 狩魔豪の部屋には、玄関をモニターする小さいディスプレイが薄青い光を放っており、 その中でうごめく姿が彼の視界に揺れ動いた。 戻ってきたのか、そう思って様子を伺う。 合鍵は持っているのだから、自力で鍵を開ければよい。 そう思っていて、…そう、普段ならそうするはずだったのに、 その日に限って書斎の椅子を引いて、机の上の書類に付箋を貼って閉じたのは、 それはささやかな気まぐれに過ぎない。そう、気まぐれに過ぎないのだ。 足音を立てないように玄関の重い扉を開け、静かに廊下を歩く。 普段ならもっと繊細に聞こえる足音が幾分野蛮に聞こえるのは、 それは自分の気のせいだと狩魔は思った。 しばらくすると、ためらいがちにドアをノックする音が響いてきた。 狩魔はそれに一言入室の許可を与える。ゆっくりとドアが開く。 そこにいるのは彼の愛弟子、彼がいつくしみ育てているまだ若いひとりの青年。 すでに少年の時期を過ぎているとはいえ、のびやかな肉体にはいまだ、 青い未熟な果実の名残り香がある。 濡れた髪を丁寧に乾かし、シルクのパジャマに身を包んで、 彼はいくぶん頼りなげな表情で、室内の定位置にいて彼を見ている師へと目をやった。 その視線がほっと緩むのを師は見逃さない。 「どうした」 自分から聞いてやるのは彼の情けだ。 とりあえず、御剣を室内へ招き入れる。 そのほうが彼には安堵の時間になることを師は知っている。 彼は後ろ手に扉を閉める。鍵を閉じることはしない。 ここには誰も来ることはないし、 もし来たとしても目撃したことを、外部に漏らすようなことはけしてしないだろうことを お互いに知っているからだ。 密室の中で御剣は一度目を伏せ、そして師へ近づく。 足取りはおぼつかないまま、どこか不安定な動きが師の目線を引き寄せた。 何かを欲しがる動き。 「…先生」 かすれたような声には、どこか切羽詰った匂いがあり、狩魔はそれをかすかに感じ取った。 そして視線だけで御剣を見る。 ただそれだけで十分なことを彼は知っている。 何用か、と彼は問うことをしない。 彼は理由を知っている。 彼は御剣が何を彼に求めているのかを知っている。 あとはただ、彼がそれを与えるかどうかでしかない。 御剣にはそれを求める権利はない。 ただ与えられるのを待っているだけだ。 そうなるように、……そうであるようにと、彼が御剣を躾けた。 それは甘美で執拗な躾だった。 何も欲しがることを知らなかった肉体に、精神に、 彼を満たす歓喜を与え、それを欲しがらせるという躾。 |
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