本文サンプル(一部抜粋です)書き下ろし部分から |
「御剣、洗濯終わった?」 「もう少しだな」 廊下とリビングの掃除が終わったらしい。 キッチンの掃除はいいのかと聞いたら、 そこは毎日してるから平気だと成歩堂が言ってきた。 確かにこのキッチンはリフォームが少し入っているらしい。 家の大きさの割には広く感じる。 成歩堂に言われてみれば、キッチンには見えるところにダスターがぶら下げてある。 床を掃くちりとりセットも、よく目につくところに置いてあるので、 すぐに掃除をすることが出来そうだ。 成歩堂にしては懸命な発想ではある。 私は紅茶を入れるためにキッチンに詰めている。 朝食を準備するべきかと思い、 冷蔵庫を覗いたら冷凍したパンがあったので、 それを二枚出してトースターに入れた。 湯を沸かして紅茶とコーヒーのカップを温め、 自分にはティーパック、成歩堂にはインスタントコーヒーを入れる。 本格的に入れてもいいのだが、 一人づつ違うものを入れるのは、 どちらかがひどく冷めてしまうので私には少し難しい。 成歩堂はよくそうしてくれるのだが、どうやってやっているのだろう? 両方に湯を注いだところでトースターが鳴った。 私は成歩堂を呼んで朝食を取ることにした。 「いただきます」 成歩堂は、何かを食べるときはいつもきちんと手を合わせ、 そういってから食べ始める。 私はいつもそれに感動する。 ささいなことだが、そういうことが出来るかどうかは、 本当は大きな違いではないかと思うのだ。 一枚ではさすがに足りないと思うので、 二枚目をトースターに突っ込んでから、私は冷蔵庫からジャムを出した。 私はパンに塗るものはマーガリンでも構わないしなくてもいいが、 成歩堂はジャムが好きで、いつも冷蔵庫に入っている。 あまり口をきかないまま、二人でもくもくと食事をする。 成歩堂がコーヒーに牛乳をなみなみと注ぐのに、つい私はぼんやりと見とれてしまった。 「? 疲れてるの?」 成歩堂が視線に気づく。 「…いや、…よく眠れた…」 「そう? 暑くなかった?」 確かに夕べは少し暑かった。 そう、この部屋に入って――成歩堂の肌に触れるまでは。 それから後は暑い、というものではなかった。 妙に生ぬるい昼間の暑さが、私の何かを壊したのだろうか。 成歩堂との行為は、ひどく乱れた記憶だけが残っている。 しかも断続的すぎるその記憶はどうにも曖昧で、 そうなった理由に思い当たると、知らず耳の後ろが熱くなった。 「そうでもない…」 そうでもない。 たぶん途中で私は記憶が飛んでいたのだ。 何度か自失したのは覚えている―― 見上げた成歩堂の顔や背中や指先も、切れ切れに見た記憶がある。 だがはっきりと気がついたのはもっと後で、 妙に暑く、苦しく、生臭い匂いと音で目が覚めたときだったのだ。 どうしたのか、自分でしたのか、そんなことも思い出せなかったが、 私は最後に記憶しているのとは違い、きちんと夜着を身に着けていた。 隣には成歩堂が同じようにパジャマを着て、すうすうと寝息を立てていた。 すでに気候は春を越え、夏の声を聞き始めていて、 成歩堂は今日ようやく冬の布団を片付けたんだよ――と言っていた。 夏用の薄い布団とタオルケットをかけている私たちの間に、毛の塊が横たわっていた。 私の顔の前、というのは近すぎる距離。 人間であればキスをするような至近距離に、顔があった。 成歩堂――ではなくて、猫だった。 |
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