A2 もうひとつの決着 1. 響子さんは仕事に向かう五代を姿が見えなくなるまで見送ると、そのまま立ち尽くす。 ついに五代と心を通わせることができたのだからあのまま一緒にいたかったという気持ちがこみ上げてくる。 しかし、夜になればまた会えると思い直し、 (夜食は何を作ろうかしら?) などとあれこれを考え始めると自然とにやついてしまう。 いままで抑えに抑えてきた自身の感情をありのままに受け入れるとこんなにも楽になれるのか、と改めて感じてしまう響子さん。 道端で一人にやつく姿を誰かに見られたら恥ずかしいと思い顔を上げると、立ちつくす一人の女性の姿が目に入る。 「こずえさん……」 響子さんは動揺したままその女性の名前を口にする。 (ど、どうしてこずえさんがここに……?) あまりに急なこずえの登場に響子さんは動揺が隠せない。 一方のこずえは、ぽかんとした表情のまま響子さんを見ている。 「こずえさん、買い物ですか?」 重い沈黙と気まずい雰囲気に堪え切れなくなり、響子さんは無理に笑みを浮かべながら声をかける。 そんな響子の言葉にこずえは我に返ったかと思うと、響子をしっかりと見据え口を開く。 「管理人さん、ちょっと私とつきあってもらえますか?」 有無を言わせぬこずえの雰囲気の前に響子さんただ黙って頷くことしかできないのであった。 2. 響子さんはこずえにつれられて、近くの喫茶店に入る。 席についてもあまりの気まずさに俯いたまま顔を上げることすらできない。 そんな響子をこずえは無言で見つめたまま。 響子さんは今朝、時計坂の喫茶店でこずえから五代と朱美のラブホテルの話を聞いたばかりなのを思い出す。 しかし、今のこずえはそのときとは全く違う。 「ごゆっくりどうぞー」 注文したドリンクと伝票をおいてウエイトレスが去って行くとこずえが待ってましたとばかりに口を開く。 「私さっき、偶然二階堂くんにあって、聞きました。朱美さんの話は誤解だったって……」 アイスティーをすこし口に含み、こずえが話を続ける。 「でもわたし見ました、管理人さんと五代さんが出てくるところ……」 響子さんはうつむき黙ったままだ。 「はっきりしてください管理人さん。二人は付き合っているんですか?」 こずえは響子さんを問い詰める。 「…………」 響子さんは黙ったままだ。 実際、先ほどはじめて五代と結ばれたばかりで付き合っているという感覚はまだない。 「どうして返事しないんですか。まさか遊びだったとでもいうつもりですか?」 さらに激しくこずえが問い詰める。 「そんな、そんなあたし……遊びだなんて……」 さすがに響子さんが反論する。 「……じゃあ本気なんですね、本気で五代さんのことが好きなんですね?」 響子さんは黙ったままだ。 3. 響子さんの煮え切らない態度についにこずえが感情を爆発させる。 「五代さんに私がいること知っててあんなところに入ったんですか!?」 「私にだって女としてのプライドがあります。私、絶対認めません!」 こずえは興奮のあまり言葉が止まらなくなってしまう。 響子さんは五代とこずえが5年にもわたる付き合いをしてきたことを知っている。 だからこそこずえの心情が理解でき反論できない。 「もう五代さんに会わないでください」 こずえが最後通告のようにいう。 「そ、そんな……」 響子さんは絶句する。 「あなたみたいな女に五代さんは渡せません」 こずえが感情的に叫ぶ。 二人の若い女性の異様な雰囲気にまわりの客も気づき始める。 「どっちがどっちの男をとったのかしら?」 「あんな美人二人の取り合いになる奴ってどんな幸せもんだよ」 「どっちでもいいから俺と付き合ってくれ〜」 こずえの感情的な叫びを聞いて響子さんはかつて惣一郎を失ったときのことを思い出す。 しかし、はいそうですかというわけにもいかない。 惣一郎を失い失意のどん底の中、一刻館にやってきた。 そこでの生活により響子さんは、かつてのように元気を取り戻すことができた。 一刻館で長い年月を過ごすうちに住人のみんなは響子さんにとって家族のような大切な存在になってしまっている。 なにより五代と出会うことができた……。 響子さんは先ほど初めて感じた五代の肌の温もりを思い出す。 今さらそれを失ってしまうことなど到底受け入れることができない。 「こずえさん、確かにあなたにはひどいことをしてしまったかもしれない……。でも……」 響子さんは俯いたまま話し始める。 こずえは黙って耳を傾ける。 「でも……あの人はあたしにとって一番大切な人なんです。だから……」 響子さんは顔をあげる。 「だから……だからあの人は誰にも渡せないの。もちろんこずえさん、あなたにも」 響子さんはこずえの目を見つめはっきりと自分の意思を告げる。 4. 同じ男を好きになってしまった二人は激しく視線を戦わせる。 どれくらい時間がたったのだろうか……。 こずえはふと視線を外す。 響子さんもふと我に返る。 そして重い沈黙……。 こずえは数年前、管理人室で響子さんの初恋の話を聞いたことを思い出していた。 あのときは単純にロマンチックだとしか思わなかった。 年上の美人で優しい素敵なお姉さん。 その人がいま自分にはっきりと宣言した。 五代を誰にも渡さないと。 こずえは自分が無意識のうちにこの人を恐れていたのかもしれないと思う。 初めて響子さんと出会ったとき、こずえは無意識のうちに五代の腕にしがみついた。 女としての本能がそうさせたのかもしれない。 そういえばあのとき一緒にいたあの人は……。 「管理人さん、三鷹さんとはどうなったんですか。あの人と結婚するんじゃなかったんですか?」 「えっ……三鷹さん……?」 突然三鷹の名がでてきて動揺する響子さん。 「三鷹さんは他の人とお見合いして結婚します」 響子さんは勤めて自然にこずえの質問に答える。 「……もしかして……三鷹さんとうまくいかなかったから五代さんに乗り換えたんですか?」 再びこずえが攻勢にでる。 「……あなた、五代さんと他の男を天秤にかけて……卑怯だわ」 こずえの言葉が響子さんの胸にグサリと突き刺さる。 「そんな……両天秤だなんて……」 響子さんが言葉をやっとひねり出す。 「管理人さんがそう思ってなくても私から見たらそうとしか見えないわ」 こずえが再度厳しく言い放つ。 「とにかく私はあなたと五代さんのこと絶対認めませんから」 そういうとこずえは立ち上がる。 「待って、こずえさん。確かにあなたのいうことはわかるわ。でも違うの……私は両天秤になんて……」 響子さんは必死に反論する。 しかしこずえは聞く耳を持たず伝票を掴み取ると喫茶店の入り口の方に歩いていってしまう。 響子さんはただその背中が遠ざかっていくのを見守ることしかできないのであった……。 5. こずえは喫茶店をでると今日一日の出来事を思い出しながら歩き始める。 二階堂に五代と朱美の件が誤解であると聞いたこと。 ホテルから出てきた五代と響子さんを目撃してしまったこと。 たった今、響子さんと五代をめぐって言い争いをしたこと……。 しかし、こずえには一つだけはっきりしていることがある。 このままでは確実に五代を響子さんに取られてしまうということ。 こずえはどうすればいいのかわからないまま、五代の勤めるキャバレーに向かい歩き始める。 一方、喫茶店に取り残された響子さんは、こずえとのやりとりを思い返していた。 (こずえさんがあそこまで……、やっぱりあの人のことが好きなのね……) 「卑怯だわ」 こずえの言葉が頭の中で繰り返される。 (あたし、卑怯なのかな……?) 響子さんは自問する。 響子さんは暗い気持ちのまま喫茶店を出て一刻館への帰路につく。 6. 「お疲れ様でした〜」 五代は、飯岡に声をかけキャバレーを元気よく飛び出す。 (夜食作ってくれるっていってたな、早く帰らないと) 自然に顔がにやついてくる。 ついに長年の憧れの響子さんと結ばれたのだ。 仕事中も飯岡やホステスにひやかされまくりだった。 しかしそれすらも嬉しく思えてしまうほど五代は浮かれていた。 と、そこに……。 「五代さん……」 急に名前を呼ばれ五代は振り向く。 「こ、こずえちゃん……」 一気にテンションが下がる五代。 こずえは五代が仕事を終えるのを待っていたのだ。 「五代さん、ちょっとお話があるの……」 「うん……深夜喫茶にでも入る?」 「いい、歩きながらで……」 しばし二人で並んで歩いた後に五代が口を開く。 「あんなとこ見られたあとだから、まさかきみの方から会いに来るなんて……」 「二階堂君から本当のこと……聞いたわ……なんでもなかったって……」 こずえが申し訳なさそうに続ける。 「ごめんね五代さん。信じてあげられなくて……。本当にごめんなさい」 こずえが頭を下げる。 「そ、そんなっ!あやまらなくちゃいけないのはぼくの方で……」 言葉に詰まる五代。 気がつくと二人はいつのまにか陸橋の上に来ていた。 「見て。きれいなお月様」 こずえはなんとなく手すりにもたれかかる。 「こずえちゃん、ちょっと聞いて欲しいことが……」 五代が意を決してこずえに話しかけようとする。 しかし、こずえは直感的に五代の言葉を遮る。 「五代さん、私のこと、嫌いになった?」 そう五代に尋ねるこずえは、自分でも気がつかないうちに半分泣きだしてしまっている。 「いや、そんなことは……」 相変わらず五代ははっきりこたえることができない。 「じゃあ、今まで通り付き合ってもらえる?」 こずえは泣きながら五代にすがる。 (こずえちゃん、あんなことがあったのにまだオレのことを……。でも今日こそ……) 「こずえちゃん、ごめん!ぼくはもう……もうきみとは付き合えない!」 五代は地面にひざをつきながら言葉を続ける。 「ぼくには、好きな女性がいるんだ。きみには本当に申しわけないけれど……どんなに怨まれても仕方ないと思っている……」 「誰?」 こずえが冷たく言い放つ。 五代はこずえの口調の変化に気づかない。 「え、いや、その……」 五代は言いよどんでしまう。 こずえはそんな五代を冷たく見下ろしながら言い放つ。 「知ってるわ、管理人さんでしょ?」 (後編に続く)