第2回



        *


 通学バスの中で、敏樹は必死で力説していた。
「だーかーらー、この間のことは誤解だって」
 マネージャーの梨香と抱き合っていたところを、真由子に目撃されて以来、彼女との仲が険悪になってしまったのだ。
 実際には、梨香がいきなり抱きついてきただけで、敏樹にすれば下心があったわけではない。
 ただタイミングが最悪だった。
 まるで図られたように、その場を真由子が訪れ、敏樹と梨香が抱き合っているところを見られてしまったのだ。
(ホント、間が悪かったよなー、あれは)
 敏樹自身も思わず頭を抱えたくなるような出来事だった
 もちろん、仮に彼と梨香がそういう仲になったとしても、それを非難されるいわれはない。
「ふーん……」
 だが真由子は、まるで彼氏の浮気をとがめるような態度で、露骨に冷淡な態度を取ってくる。
 まともに口も利いてくれない。
 仕方がない、ということで、敏樹のほうが折れることにしたのだ。
 幼馴染みとはいえ、恋人同士でもなんでもないのに、どうしてここまで気を遣わなければならないのか……
「どうだか」
 勝気な美貌は、極限まで冷え切っていた。切れ長の瞳に浮かぶ光も、絶対零度を思わせる冷たさだ。
「本当だって、信じろよ」
「信じられない」
「なんだよ、真由子。さっきから態度悪いぞ」
 敏樹がムッとした顔になった。
「俺がこれだけ説明してるのによ」
「あたしは別に、そんなことを怒ってるわけじゃない」
「ん?」
「……どうして分かってくれないの。あたしだって、色々あったのに──」
 真由子がぼそり、とつぶやいた。
「えっ?」
 相手の言っている意味が分からず、首をひねる。
 真由子は悲しげな顔で唇を指先で撫でていた。
「なんだよ? 唇がどうかしたのか」
 不審に思ってたずねる。
 真由子の顔がハッとこわばった。
「なんでもないわよっ!」
 いきなり顔を真っ赤にして怒鳴る。
 そのときバスが学校に到着した。
 真由子は肩をいからせ、ひとりでさっさと校門へ走っていく。
「あーあ……」
 ため息をついた敏樹に、一人の女生徒が声をかけてきた。サッカー部のマネージャーを務める梨香だ。
「この間はごめんなさい。私、いきなりあんなこと──」
 梨香が恥ずかしそうに体をくねらせる。清楚な顔を桃色に上気させているさまは、何とも言えず可憐だった。
「どうかしてたのよね、私。遠藤くんに迷惑かけちゃったね」
「い、いや、迷惑ってことはないけど」
 敏樹が思わずにやけながら言った。実際、梨香ほどの美少女に抱きつかれて、悪い気がする男はいないだろう。
「……ありがとう」
 それから梨香は不審げな顔をしてたずねる。
「なにかあったの、遠藤くん。言い争ってるみたいな声が聞こえたけど」
「いや、真由子の奴が、様子がおかしくってさ」
「様子がおかしい? 真由子ちゃんが?」
「妙に不機嫌だし、なんか唇のところをこう……」
 先ほどの真由子のポーズを真似してみる。
「押さえながら、なんか考えこんでるし」
「唇を……」
 梨香が首をかしげた。
 それから何かを思い出したように告げる。
「そういえば、昨日真由子ちゃんと沢村先輩が──」
「えっ」
「あ、いえ、なんでもないわ」
 と、口をつぐむ梨香。
「言いかけてやめるなよ。先輩と真由子がなんだっていうんだよ」
 昨日の、沢村が真由子に向けていた粘着質な視線を思い出し、気分が悪くなる。
「ごめんなさい、ただの噂話だから……」
「気になるだろ。教えろよ」
「私も友だちから間接的に聞いた話よ。信憑性は怪しいと思うの」
「いいから言ってくれ」
 そこまで引き伸ばされると、是が非でも聞きたくなる。
「実は昨日──」
 梨香が口を開いたとたん、敏樹の背筋に嫌な予感が走った。


「学校の前のバス停で、沢村先輩と真由子ちゃんがキスしてた、って」


「えっ」
 敏樹は頭の中をハンマーで殴られたような衝撃を覚えた。
 沢村と真由子が、キス?
 信じられない話に目の前がぐるぐると回る。
 真由子の、ぷるん、とした柔らかそうな唇──
 それをあんな軽薄そうな男が奪い、触れたのだと思うと、頭の中が灼熱した怒りで爆発しそうになった。
「あの野郎……!」
「あ、噂よ、噂。本当かどうかはわからないから」
 梨香があわてて言いつくろう。
「誰かが面白がって言いふらしたのかもしれないでしょう」
「まあ……そうだけど」
 本当のことだという可能性だって十分ある。火のないところに煙は立たないのだ。
 胸の中のもやもやがくすぶったまま、敏樹はどうしようもない嫉妬と怒りに苛まれた。
「ごめんね、おかしなことを言って」
 梨香がすまなさそうに謝った。
「あんまり一人で抱え込まないでね。私でよければいくらでも相談に乗るから」
「ありがとう」
 梨香に言われると、なぜかホッとした気分になる。
 にっこりと微笑む清純なマネージャーに、敏樹は心が癒されていくのを感じた。
(そうだよな……真由子が、あんな男とキスなんてするはずないよな)
 自分自身に強く、言い聞かせる。
 真由子は芯のしっかりとした少女だ。それは幼馴染みの敏樹が一番良く知っている。
 あんな軽薄男に、やすやすと唇を許すはずがなかった。
 ましてや初めてのキスは、特別な体験である。その相手に沢村を選ぶなど、ありえなかった。
 それから、あらためて梨香を見つめた。
 こうして見ると、真由子とはタイプが違うものの、梨香も十分に美少女だった。
 勝気そうな真由子と違って、おとなしげで、何よりも清楚な雰囲気を全身から香らせている。
(……やっぱり、あれは単なる噂だよな)
 梨香が一年前、沢村に弄ばれたという噂を思い出した。
 そんな簡単に騙されるような女には見えないし、なによりもこんな清純な女が、沢村のような軽薄な男になびくとも思えない。
(真由子とキスしたって話といい、梨香を弄んだって話といい……ロクな噂をたてないな、あの野郎は……)
 今はこの場にいない沢村に対し、敏樹は心の中で激しく罵倒した。


        *


(遠藤くん、悲しそうな顔だった)
 梨香はため息をついた。
 できることなら自分が助けになってあげたかった。なのに、敏樹は真由子のほうばかりを向いている。
 だから沢村が真由子とキスをした、という話を利用したのだ。
 敏樹にはただの噂だ、といったが、梨香はそれが真実であることを知っていた。昨日、当の沢村から得意げに知らされたのだ。
 そしてそれをネタに敏樹の心を揺さぶれ、と。
(遠藤くんのせいなんだからね)
 卑怯な手段をつかってしまったことに、今さらながら後悔の念が込み上げた。
 敏樹のことを思うと、梨香はすぐに動揺してしまう。
 恋する乙女特有の、不安定な精神だった。
 一年前に、その心の揺れにつけ込まれ、取り返しのつかない過ちを犯してしまったことを思い出す。
「私の初めては……遠藤くんに捧げたかったのに」
 恨めしげな口調でつぶやいた。
 思い出すと、今でも股間の奥が、じゅん、とうずく。
 言葉巧みに騙され、その場のノリに押し流され、敏樹以外の男に処女を貫かれてしまった疼きが。
 梨香は中小企業の社長をしている父親と、専業主婦の母親との間に生まれた。規模が小さいとはいえ、社長令嬢には違いない。
 とはいえ、まったくの世間知らずというわけでもなかった。
 半年ほど前の出来事を、今さらながらに思い出す。


 ──敏樹が真由子と付き合っている──


 そう告げられたのは、沢村からだった。
「嘘……」
 呆然と問い返したが、沢村は何度も首を振るばかりだった。同情するような視線を梨香に向けてくる。
 彼女は大きなショックを受けた。
 本気の恋、だったのだ。
 それでも、自分では失恋のショックに耐えられると思っていた。
 きっといずれはこのことを忘れ、敏樹とも普通に友人として接することができるようになるのだ、と。
 だが心の痛みは想像以上だった。
 恋をしたのも、失恋するのも、初めての経験なのだ。いくら聡明とはいえ、恋愛ごとに関しては奥手で、未熟な少女に過ぎなかった。
 同時に、心が隙だらけになっていた。
 失恋の痛手で、心の中に文字通り大きな隙間が空いていた。
 沢村はそこに付けこんだ。
 卑怯な男だ、と思う。
 失恋し、傷ついている少女にすりより、純真な心も、純潔な体も、盗み去っていくなど……
 梨香がそのことを実感したのは、随分と後になってからのことだ。


 そう、あの男に騙され、処女を奪われた後で──


 そして、今度は沢村から働きかけてきたのだ。
 敏樹と真由子の仲を割けば、梨香にもチャンスが生まれる、と。
 梨香は無我夢中でそのチャンスに乗った。
 わざわざ真由子が通りかかるのを狙って、敏樹に抱きついたのはそのためだった。それっぽい言葉を吐きながら。
 効果はてきめんだった。
 真由子は怒り心頭にその場を去っていったし、二人の仲はきっとギクシャクするようになったに違いない。
「これで、遠藤くんは私の元に──」
 うっとりとした顔で梨香がつぶやいた。







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