第1回



        *


 遠藤敏樹(えんどう・としき)はバス停の前で、学校に向かうバスが来るのを待っていた。いつもより少し早く到着してしまったせいで、待ち時間が妙に長く感じる。
 周囲には同じようにバス通学している生徒や、近くの大学に通う学生、あるいは通勤途中のサラリーマンやOLでごった返している。
「なに朝っぱらから暗い顔してるのよっ」
 溌溂とした声が、朝の気だるい意識を吹き飛ばした。
 声をかけてきたのは一人の少女だった。
 背中まである艶かなロングヘアが夏の風になびく。長い黒髪をまとめる赤いリボンがアクセントになってよく似合っていた。
 青いブレザーにオレンジのリボン、黒いショートスカートという組み合わせの制服が、女らしいメリハリのある体つきによく映えている。
「真由子か」
 眠たげな目をこすりながら、つぶやく。
「もうっ、元気ないなー。幼馴染みの美少女が声かけてあげたのよ。ちょっとは嬉しそうな顔、できない?」
「幼馴染みの美少女……ねぇ」
 あらためて彼女──三雲真由子(みくも・まゆこ)の顔をしげしげと見る。
 確かに申し分のない美少女だった。勝気そうな瞳は元気よく輝き、シャープな顔だちは凛々しさを感じさせる。それでいて、笑うと花のように可憐だった。
(綺麗だ)
 素直に、そう思う。
 テニスで鍛えた肢体は伸びやかでいながら、女らしいまろやかなカーブを描いていた。可憐なデザインのブレザーに包まれていても、その下の裸身が成熟の兆しを見せているのが分かる。
 とはいえ、面と向かって綺麗だ、などと素直な台詞を言える間柄ではない。
 代わりに口から出たのは、どことなく疲れた台詞だった。
「真由子は元気だよな……」
「当たり前でしょ、若いんだからっ。もう夏の大会も始まってるしね。あたしは今年こそ全国優勝するんだからっ」
 やたらと熱血口調で叫ぶ真由子。
 去年の彼女は、一年生ながらすでにテニス部のエースを務めており、部を県予選優勝に導いていた。
 全国大会では二回戦で敗退し、悔し涙にくれる彼女を、敏樹が一日中励ましていたことを思い出す。
「まあ、頑張れよ」
「敏樹だってサッカー部、調子いいんでしょ。ほら、もっと元気出しなさい!」
 ばん、と背中をおもいっきりたたかれる。
「いてーな……」
 敏樹は顔をしかめた。朝からハイテンションで騒がれると、若干気持ちがついていかないのが正直なところだった。
 真由子はスポーツ万能、容姿端麗、成績優秀……と非の打ち所のない少女だ。ただし敏樹の前では乱暴な一面をあらわにすることもあった。
(性格はガキのころからずっと乱暴だけど、体つきのほうは本当に女らしくなったよな)
 視線を真由子の全身へと這わせる。すらりとした長身。メリハリのあるボディ。少女から大人へと変わる途上の色香を漂わせながらも、清純な雰囲気をまとっている。まさに女子校生ならではの魅力だった。
 と、その視線に気づいたらしく、
「ん、なに見てるのよ」
 真由子が眉をひそめた。
「いや」
 敏樹は視線を思いっきり彼女の胸元に注ぎ、
「お前、なんか胸おっきくなった?」
 青いブレザーに包まれた胸元はボリュームたっぷりに膨らみ、ムチムチだった。寝起きで、まだ意識が半覚醒状態だというのに、下腹を突き上げるような衝動が襲う。
 ぐびり、と喉が鳴った。
 最近、とみに実感する。
 男勝りだった(今でも十分男勝りだが)幼馴染みは、いつの間にか『女』へと脱皮を始めているのだ、と。
 考えていると急に胸がドキドキとなった。
(な、なに考えてるんだ、俺。真由子相手に──)
 子供のころは一緒に裸で水遊びをしたことだってあるのに。
 ……もっとも、それは幼稚園に入る前のことだが。
「なっ……」
 たちまち真由子の顔が真っ赤に染まった。意外にウブだ。
「ばかーっ!」
 ぱしん、と乾いた音が響き渡る。
「いててて……なにもぶつことねーだろ、ぶつこと」
「最低っ。変態っ。すけべっ。淫乱っ」
「えらい言われようだな……」
「朝っぱらからお暑いねぇ」
 そのとき横合いから、すらりとした長身の人影が割り込んできた。
「えっ」
 聞き覚えのある声だ。
 振り向くと、学生らしき男が口元を吊り上げ、笑っていた。
「沢村先輩……」
 敏樹はわずかに顔をこわばらせた。
 苦手な相手だった。
 沢村俊(さわむら・しゅん)。
 敏樹のひとつ上の先輩であり、同時にサッカー部の先輩でもある。
 敏樹たちの学校では、サッカー部員は三年の春で引退だ。そのため沢村はすでに、部活動には参加していない。
 光沢の強い茶色に染めた髪の毛に、涼しげで端整な顔だち。いかにもノリが軽そうな雰囲気は、どこかホストを思わせる。
「よう、がんばってるらしいな」
 沢村もどうやらバス通学らしい。
「たしかベストエイトまで進んだんだって? こりゃ初めての全国大会出場も見えてきたんじゃねーの」
「へへ、先輩たちの代じゃベスト十六止まりでしたからね」
「こいつ」
 へっ、と笑う沢村。
 それから真由子に視線を移し、
「真由子ちゃんも綺麗になったじゃねーの」
「やだ、からかわないでくださいよ」
 真由子は頬を染めながら、まんざらでもなさそうな顔をする。
 敏樹はムッとした気持ちで、幼馴染みの少女を見やった。
「あれ、お前と沢村先輩って知り合いだっけ?」
「なに言ってんだ、俺らの試合に──っていうか、お前の応援にしょっちゅう来ていたからな。俺だって知ってるさ」
 沢村がにやついた笑顔を真由子に向ける。
 無遠慮な視線が彼女の全身──特に豊かに膨らんだ胸元あたりに注がれていた。
 ついさっき自分でもジロジロ見ておいていうのもなんだが、はっきり言って不愉快だった。
 自分以外の男が、この幼なじみの体をいやらしい目つきで見るのは。
 そのときバスが来て、三人は並んで車内に乗り込んだ。
「で、なに? お前ら付き合ってんの」
 車内で、沢村が話しかけてくる。
 正直言って、あまり話したくはなかった。だがバスの中は混雑していて、沢村から距離を取ることもできない。
「なーんか、こうしてるとお似合いのカップルって感じだよなー」
「へっ?」
「ち、ちちちち違いますっ」
 あっけに取られた敏樹と、異様なほど過敏な反応を示す真由子。真由子のあまりのうろたえぶりに、敏樹や沢村まで驚いた顔をした。
「い、いや、冗談だけどさ」
 バスが学校の前のバス停に着いた。
「じゃあ、俺たち、これで」
「あたし、先に行くねっ」
 叫んで、逃げ出すように駆けていく真由子。
「へへ、初々しいったら。本当に可愛いねー」
 沢村が彼女の後ろ姿をニヤニヤと見つめていた。
 その視線が真由子の腰周りに向けられていることに気づく。引き締まった臀部はスカートの上からでもプリプリと張っているのがよく分かる。
 綺麗なヒップラインをしていた。
「へへ、処女だな、ありゃ」
 沢村が舌なめずりをした。
「処女……」
「お前ら、本当に付き合ってないの」
 沢村に尋ねられ、敏樹は思わず言葉を詰まらせた。
「あ……はい」
「キスくらいはしたんだろ」
「いや、そもそも付き合ってないんで。なにも」
「ふーん」
 沢村の目がスッと細まる。
 いかにも女好きそうな顔が、昔からあまり好きではなかった。噂では在学中から相当遊んでいたらしい。
 学内外問わず、手を出した女は数十人単位。敏樹が知っているだけでも、この学校の女生徒のうち少なくとも七人は、沢村によって処女を奪われている。
 男女交際の経験すらない敏樹にとっては羨ましく、同時にねたましい話だった。
(くそ、俺だっていつか真由子と──)
 そんな風に思ってしまう。
「初心そうだな。ちょっと甘い言葉をかければ、コロッと騙されそうじゃん」
 どくん、と心臓の鼓動が高まった。
 確かに真由子は気が強いが、性格は素直なところがある。沢村のように女慣れした男から誘われると、案外簡単に転んでしまうかもしれない。
 自分以外の男と、真由子が──
 そんな不吉な想像に、敏樹は思わず身震いした。
「おいおい、にらむなよ。お前の女じゃないんだろ」
 気がつけば、眉間をしかめて沢村をにらんでいた。
 女たらしの先輩が苦笑まじりに、こちらを見ている。
「まあ、そうですけど……」
「へへ、食べごろじゃん」
 沢村がまた舌なめずりをした。
 敏樹は嫌な気分に捕らわれながら、バスのステップを降りていた。


        *


 放課後──
 授業が終わり、敏樹はサッカー部の部室で練習の準備をしていた。
 今は大会の真っ盛りだ。やる気がみなぎっていた。
「へえ。沢村さんに会ったの」
 敏樹の話にうなずいたのは、マネージャーの坂上梨香(さかがみ・りか)だ。敏樹と同じ二年生であり、サッカー部の先輩である沢村とも親しかった。
 いや、親しいというよりも──
 敏樹は彼女に向き直る。
 肩のところまである黒髪に、卵形のふわりとした顔だち。全体的に童顔で、以下にも清純派といった感じだ。
 梨香が一年生のころ、沢村と一時期付き合っていたという噂を思い出した。沢村に一方的に弄ばれ、さんざん遊ばれた上に捨てられた、という噂だ。
 もちろん噂の域を出ない話だったが、敏樹は二人の間の雰囲気からそれが真実だと確信していた。
 敏樹にとっても、この同級生の少女は魅力的(無論、真由子の次に、だが)だったが、その噂を聞いた後だと、なんとなく梨香には近寄りがたいものを感じてしまう。
 沢村との噂を知らなければ、梨香はどう見ても処女にしか思えない。清純そうな顔をしているが、あのチャラけた先輩と付き合い、さんざんヤられたんだろうな……などと思ってしまうのだ。
「ふふ、練習がんばってね」
 梨香が気品のある微笑を浮かべた。
 あらためて元気が沸いてくるのを感じる。
 大会優勝に向けて、敏樹ももっともっと上手くなりたかった。
 ベストエイトくらいで満足するつもりはない。
 狙うは優勝だけだ。
 敏樹はグラウンドに出ると、さっそくシュート練習を始めた。
 敏樹のポジションはフォワードだ。今回の大会では、チーム内の得点王。このまま点を取り続け、必ずチームを優勝に導く──
 敏樹の瞳は燃えに燃えていた。
 ゴールに向かってシュートを打ち込む。
 ただ、打ち込む。
 またたくまに汗だくになった。
「ふう」
 疲労の中にまじる爽快感が心地よかった。
「お疲れ様」
 梨香がマネージャーらしく、タオルを持って駆け寄ってきた。
「最近、凄くがんばってるね、遠藤くん」
「え、そうかな」
 正面から褒められ、照れる敏樹。
「梨香だって頑張ってるだろ。マネージャーの中で、一番仕事してるぜ」
「ふふ、ありがと」
 梨香が嬉しそうに微笑む。
 なんか、いい雰囲気だな、などと敏樹は思ってしまう。
 もちろん、彼が好きなのは真由子なのだが、やはり敏樹とて健全な男子学生である。
 清純派の、それも飛びっきりの美少女といい雰囲気になって悪い気はしない。
「私、練習用のビブスを出しておけって言われてるんだけど、一人じゃ持ちきれないの。悪いけど、遠藤くんにも手伝ってもらえたらな、って」
 二人はビブスを部室の裏に運んでいく。
 周囲に人気はなかった。
 夏の風が吹きすさび、梨香の黒髪を柔らかく揺らす。
「私、応援してるね。サッカー部はもちろんだけど、遠藤くんのことも──」
 梨香がそっと敏樹の腕に触れる。
 つぶらな瞳が濡れたように潤み、敏樹を見上げている。
 いきなり、梨香に抱きつかれた。
「えっ!?」
 敏樹は冗談抜きで心臓が止まりそうなほどの衝撃を覚える。女の子に抱きつかれたのは、生まれて初めてだった。
 信じられないほどしなやかで柔らかな感触が、腕に、足に、胸に、腰に……つたわってくる。
 心地よいぬくもりで、頭の中がカッと灼熱する。
「お願い、もう少しだけこのままで……」
 梨香がかすれたような声でささやいた。緊張のせいか、それとも興奮を昂ぶらせているのか、彼女の体は震えていた。
 敏樹もまた両腕を震わせながら、彼女の背中に回す。
 堅く抱き合う格好となった。


 なんで? どうして? 梨香が、俺に?


 敏樹の脳内ではめまぐるしく、いくつもの疑問符が並び、駆け巡っていた。
 梨香に抱きつかれたのは嬉しいが、理由も意味も分からなかった。
「ちょっと、何してるの!?」
 悲鳴のような声が上がり、敏樹は身を震わせた。
 ビクッとなって振り向く。
 そこには愕然とした顔の真由子が立っていた。


        *


(敏樹のやつ、マネージャーとでれでれしちゃって)
 肩をいからせながら真由子は歩いていた。
 まわりの生徒たちが怯えた顔で道を譲る。
 どうやら、自分で思っている以上に怖い顔になっているらしい。眉間に指を触れると、すさまじく皺が寄っている。
(ああ、もうっ! 全部敏樹の奴が悪いっ!)
 がんっ、と手近の壁を蹴りつけた。
 年ごろの乙女らしからぬ動作だが、どうにも怒りが収まらない。
 もちろん、真由子と敏樹は付き合っているわけではない。恋人同士でもなんでもない、ただの幼馴染みだ。
 だから敏樹が誰とデレデレしようと勝手だし、彼女にそれを咎める権利もなかった。
(すぐ近くに、こんな美少女がいるって言うのに! 敏樹も見る目がないんだからっ!)
 頭の中が爆発しそうだ。
(今日はもう、帰ろう)
 嫌な気分が晴れない。
 大会中という大事な時期なのは分かっているが、とても練習に集中できるような精神状態ではない。
 携帯電話で、部長に断りを入れてから、校門を出た。
 校門の影に、すらりとした長身の男が立っていた。
「よう、また会ったね」
 男は、気障ったらしく手を上げて挨拶を送る。
「沢村先輩……」
 先ほど出会った、敏樹の部活の先輩だった。
 綺麗に染めた茶髪が陽光を反射して、光沢を放つ。整った顔立ちに爽やかな笑みを浮かべていた。
 もっとも爽やかそうに見えるだけで、裏では派手に女遊びをしていそうだ。
 沢村が在学中に学内外問わず、片っ端から女に手をつけていた噂を、真由子は知っていた。
「あいつと一緒じゃないのか」
「あいつ?」
 真由子が首をかしげる。
「敏樹だよ。付き合ってるんだろ?」
「まさか」
 ふん、と鼻を鳴らす。
 どうして誰も彼もが、真由子と敏樹が交際しているかのようなことを言うのだろうか。
 ただの幼馴染みというだけで、それ以上の感情など持っていない──
 心の中でつぶやき、どくんと胸の鼓動が高まる。
(あたし、本当は敏樹のこと……)
 頬がかあっと熱くなる。
「それにしても本当に可愛いね、真由子ちゃんって」
 いつのまにか沢村がすぐ傍まで寄っていた。
 なんとなく二人並んでバス停まで歩いていく。
 四時半という中途半端な時間帯のためか、周囲には人気がほとんどなかった。
「今日、俺、合コンに呼ばれてるんだけどさ。真由子ちゃんも来ない?」
「えっ」
「格好いい大学生や社会人がいっぱい来るぜ。真由子ちゃんくらいのレベルだと、同い年の男じゃ釣り合わないだろ。ガキすぎて」
「あたしは──」
 だって敏樹に悪いし。
 口元まで出かかった言葉をあわてて飲み込む。
「駄目かな?」
「やっぱり、あたしは……」
 言いかけたとき、沢村の顔が近づいてきた。
 それは予想もしない、唐突な行動だった。
「あ……」
 真由子は驚きに目を見開いたまま、硬直する。
 無防備な真由子の唇に、沢村の唇が重なったのだ。
 それは一瞬の、かすめるようなキスだった。
 だが確かな、柔らかな感触が、まだ誰も触れたことのない真由子の唇に押し付けられ、キスの跡を残す。
「や、やだ……」
 真由子は呆然と唇に手を当てた。
 唇の表面が、異様なほど熱い。
「い、今、何をしたの……?」
 震える声でつぶやく。
「今、あたしの唇に、何を……」
 自分がされたことが信じられなかった。


 キスされたんだ──


 ようやくその事実に気づき、真由子はその場にへたり込んだ。
 おそらく一瞬の出来事過ぎて、真由子と沢村がキスを交わしたことに気づいた人間はいないだろう。
 バス停の周辺では、まばらな通行人がみんな思い思いの方角を見ている。
「あれ、軽い挨拶のつもりだったんだけど? そんなにびっくりした」
 沢村がヘラヘラと笑っている。
 真由子は両肩を震わせたまま立ち上がる気力もなかった。どくん、どくん、と胸が内側から爆発しそうなほど鼓動を打っていた。
「ん? もしかして初めてだった? 二年生にもなって、まさかね」
 沢村のにやけた顔を見上げる。
 きっと沢村のほうは遊び半分でしたことに違いない。おそらく今までにも同じように、軽い気持ちで何人もの女の子の唇を奪ってきたのだろう。
(こんな男に──)
 ようやく、というべきか怒りが込み上げてきた。
 視界がカッと灼熱し、真っ赤に染まる。
 ファーストキス、だったのだ。
 本当なら、大好きな人に捧げるはずの大切な唇──それを、こんなチャラけた男にあっけなく奪われてしまった。
 なぜか脳裏に、敏樹の顔が浮かんだ。
「おいおい、本当にファーストキスだったの? そりゃ悪かったね」
「触らないで」
 沢村の手を振り払い、真由子は立ち上がった。思いっきり相手に平手打ちを食らわせる。
「い、痛っ」
 顔をしかめてのけぞる沢村。
 真由子は憤然と肩を怒らせ、その場を走り去っていった。
 まぶたの奥が急に熱くなり、涙が込み上げる。
 にじんだ視界に浮かび上がったのは、幼馴染みの少年の幻影だった。







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