第三回



        *


 ──真由にとって、加賀美圭一とのデートは三回目だ。
 デートといっても、特別目新しいことは何もない。映画を見て、食事をして、他愛もない会話をする、平凡なカップルの時間。
 だけどそれはとても楽しくて、とても心が安らいで──瞬く間に時間が過ぎていく。
「加賀美くん……」
 真由が自分の隣にいる青年に語りかける。
 半年前に恋人と別れた。本当に好きだった相手で、それ以来真由の心は虚無感に苛まれていた。
 彼のことが忘れられない──
 心の中に埋めようのない空洞ができてしまったように思えた。
 もうこんなふうに誰かを好きになることは二度とないのだろうか──そんな絶望感すら覚えた。
 そんなとき加賀美に出会ったのだ。
 彼は優しい笑顔で真由の側にいてくれた。いつでも真由の話を聞いてくれた。
 虚ろだった彼女の心は次第に解きほぐれていった。
 失恋の痛みは徐々に薄れ、代わりに新たなときめきが芽生えていく。


(私は……この人のことが好き)


 今は、はっきりとそう思える。
 彼と一緒にいるだけで胸の奥が切なくて苦しい。見つめ合っているだけで、息が詰まるくらいに心が高鳴っていく。
 卑劣な罠にはまり、増田に体を奪われたこともある。意に沿わぬ交わりを幾度も強要された。
 だがそんな苦しみも、痛みも。
 彼の傍にいれば忘れられる。
 癒されていく。
「篠原さん……」
 加賀美が彼女の肩に手をかけた。
 二人の視線がからみあう。彼の瞳の奥に、自分と同じ思いを読み取り、真由は頬が熱くなった。
「まだ時間、いいよね」
「ええ」
 真由はこくん、とうなずく。
 まだ彼と離れたくなかった。夜は長い。最後まで、一緒にいたかった。



 ──彼のアパートに入るときはさすがに緊張した。好意を抱く男性の家に二人っきりで入るのは半年ぶりのことだ。
 相手も緊張しているためか、それともこれから起きることへの期待感ゆえか、お互いに、極端に口数が少なくなる。
 なんとなく無言のうちに、それぞれがシャワーを浴び、ベッドに潜り込む。
 いよいよ、大好きな人に抱かれるのだ、と思うと、まるで初体験を迎える処女のように心がときめいた。
 恥ずかしがる真由を見て気を遣ったのか、加賀美はカーテンを閉めた。部屋の電気も消してくれた。
「真由……」
 静かに呼びかけられた。
 しなやかな腕が背中に回され、彼に抱きしめられる。真由はうっとりとした気持ちで加賀美の胸板に顔をうずめた。
 ふう、と甘美なため息が漏れる。
「真由は……」
「ん?」
「その、初めてなの?」
 薄暗い部屋の中で、加賀美がたずねた。
 一瞬、沈黙が流れた。


 やっぱり、男の人って処女にこだわるのかな……?


 ごくり、と呼吸を飲み込む。
「……いいえ、ごめんなさい」
 真由は本当に申し訳ない気持ちで首を振った。
 彼女のロストバージンは半年前まで付き合っていた、前の彼氏が相手だった。彼氏のほうが忙しくなり、会えない時間が続いた。
 結局はそれで気持ちが離れてしまい、彼とは別れたのだ。
「前に付き合っていた人と、少しだけ。でも、そんなに経験があるわけじゃないから……」
 慌てて取り繕う。処女じゃないのは事実だが、誰にでも体を許す、軽い女だとは思われたくなかった。
「あ、いや、謝らなくてもいいよ。僕だって初めてってわけじゃないし。気にすることないから」
 加賀美が優しく笑ってくれた。
 風のように爽やかで、心を軽くしてくれる。
 真由の大好きな笑顔だった。
「じゃあ、真由ってその一人とだけなんだね」
「え……あ、ええ」
 真由は口ごもりながらうなずいた。
 本当は前の彼氏以外に、増田にも体を許している。だがそれだけは打ち明けられなかった。
 打ち明けたくなかった。
 自分が、あんな卑劣な男に体を奪われたことを──
 加賀美がゆっくりと真由の体に折り重なってくる。
 彼の愛撫は繊細だった。
 優しいタッチで彼女が気持ちいいと感じるところをさすってくる。可愛らしい顔立ちとは裏腹に、女性経験が豊かなのか、手馴れた様子で真由の官能を呼び覚ましていく。
「あ……圭一くんっ……!」
 体中に痺れるような快感が走った。
 増田のようにねちっこい愛撫をするわけではない。肉体的な悦楽よりも、精神的な充足感のほうが大きかった。
 華奢に見えるが、意外に肉付きがよくてたくましい胸。
 彼の胸に抱かれているだけで、彼の女になったのだと実感できる。お互いに満たされあっていることを実感できる。
「そろそろいくよ」
「きて……」
 自分の声がかすれていることに気づいた。濡れた、おんなの声だ。
 堅い先端が股間に押し当てられる。
 胸の鼓動が最高潮にまで高まった。


 ずぶっ……


 熱いものが彼女の中に押し入ってきた。
「はぁぁぁぁっ!」
 期待通りの触感に真由は歓喜の声を上げた。
 彼のものが胎内を埋め尽くしたとたん、ひときわ大きな声を上げる。
 愛する人とひとつになっている。体の一番深いところでつながりあっている。
 この上ない幸せだった。
 やはり増田に強要された肉欲だけのセックスとはまるで違う。
 加賀美に抱かれるのは愛のある営みなのだ。恋人同士だけの聖なる行為。気持ちが昂ぶり、多幸感が全身を甘く蕩かせる。
「ああ……すごく締まるよ、真由」
 加賀美がせわしなく動き始めた。ずん、ずん、とたくましい衝撃が連続して子宮を揺さぶってくる。
 真由の声はしだい次第に大きくなっていった。
 自分が一匹の『牝』になっていくのを実感できる。


 もっと貫いてほしい。
 もっと貪られたい。


 牝の本能が彼を求める。
 やがて頭の中に白い輝きが炸裂した。
「ダメ、私……イク! イッちゃう」
 しばらくして、胎内にドクドクという脈動を感じた。コンドーム越しに加賀美が射精したのだ。
 自分の中で彼がイッてくれたことを誇らしく思いながら、真由はさらなる快感に押し上げられた。上気した顔で大きく息を吐き出す。
「すごかった……こんなのって」
「僕もこんなに良かったのは久しぶりだよ」
 隣で加賀美が微笑していた。
「体の相性がいいんだね、僕らって」
「ええ、素敵だったわ」
 真由は頬を染めて恋人を見つめる。愛し合う、とはこういうことを言うのだと思った。増田の、欲望だけのセックスとはまるで違う。
「真由とこんなふうになれるなんて夢みたいだよ」
「私も……」


 圭一くんとこういう関係になれて嬉しい。


 そう言おうとして、真由の表情が止まる。突如として、増田の姿が脳裏に浮かんだのだ。
(私は──増田さんに弱みを握られている)
 好きな人がいるから、もうこれ以上私に付きまとわないでほしい。何度、彼にそう告げようとしたか分からない。だがそのたびに踏みとどまった。
 もし加賀美に、増田との関係がバレたら──
 真由が下手に彼を刺激すれば、自分との性行為を写した画像を躊躇なくばら撒くだろう。
 知られてはならない。自分のあんな姿を。忌み嫌っているデブオタの前で、はしたなく股を開いている私の姿を。
 彼にだけは──知られてはならない。
「あの、圭一くん」
 真由はごくり、と息を飲んだ。
 鼓動を高めた心臓が、胸を圧迫する。心が苦しくて、痛い。
「なに?」
 加賀美は何の邪気もない顔で振り返った。真由のことを心の底から信じている表情だった。
「あの……」
 大きく息を吐き出す。
 やらなくてはならない。
 増田に従わなければ、今の彼との関係は壊れてしまう。
「私、あなたのお姉さんについて知りたいの──」


        *


 二週間後──
 繁華街の一画、高層ビルの前に増田は立っていた。彼の目当てはただ一人、ここ赤嶺商事に勤めるOLの加賀美涼子だ。
 事前に真由から情報を仕入れていた。
 涼子は通常、午後七時前後には退社するらしい。増田は会社の出口で彼女が現れるのを待っていた。やがてスーツ姿の地味な女性が現れる。


 今夜のターゲットのお出ましか。


 増田はふん、と鼻を鳴らした。
 化粧気が少ない容姿は、薄く引いたルージュがかろうじてアクセントになっている。派手なアクセサリーもなく、一見すると地味な印象で埋没してしまいそうだ。だが、よく見れば整った美貌であることが分かる。
 隠れた上玉、といったところか。
「どうも、こんばんは〜」
 口の端に笑みを浮かべながら声をかけると、涼子は訝しげに首をかしげた。
「はい?」
「お仕事ごくろうさま」
「あの、どこかでお会いしました?」
 涼子はかすかに眉を寄せた。
「僕だよ、僕」
「えっと……」
「わからない?」
「ええ、その──」
 涼子は言葉を詰まらせる。どうやら増田のことを覚えていないようだ。まあ、夜のコンビニで一度会ったきりだから忘れても無理はないが。
「弟さんの友人だよ。明倫館大学のね」
「圭くんの?」
 とたんに涼子の表情が柔らかくなる。
 真由が仕入れてきた、姉弟仲が良い、という情報は本当らしい。
「デートしてもらえませんか、僕と」
 増田は単刀直入に切り出した。
「は?」
 涼子は露骨に顔をしかめた。
「あの、冗談だったら──」
「冗談じゃありませんよ。あなたと二人っきりで楽しい話がしたいんです。たとえば──」
 ねばついた視線が彼女を捕らえる。
「あなたが会社の金を使い込んだ、って話とか」
 涼子の動きが止まった。
「なん……ですって?」
『断罪天使』から手に入れた脅迫用のネタは、涼子が会社の金を使い込み、操作した帳簿の画像。
「捏造よ! こんなもの、画像を加工しただけでしょ」
 涼子は怒声を張り上げた。
「だいたい、あたしがこんなことをする理由がないわ。そこまでお金に困ってないもの」
「加賀美涼子。赤嶺商事経理課に勤務。二十四歳独身」
 増田が淡々と告げる。
「男性との交際経験はなし。交友関係で大金を使うことはなさそうだねぇ」
「な、なんで、そんなことを……」
「だから大金を必要とするなら、自分のためじゃなく他人の──いや、身内のためなんじゃないかな? たしか弟さんがいたよね」
 涼子の表情がこわばった。
「彼の恋人を通じて、聞いたんだよ。弟さんには莫大な借金があったって。涼子さんが大金を必要としたのは、その返済のため。そして会社の金に手をつけた……泣かせる姉弟愛じゃない」
「…………」
「その顔は図星、かな」
「あんた、何者なの?」
 涼子が蒼白な顔で増田をにらみつける。
 彼は平然とうそぶいた。
「ただの大学生さ。あんたたちが馬鹿にするデブでオタクな男。女の子に見向きもされない、哀れな存在──」
 増田は、脅迫用の画像をこれ見よがしに涼子の前でちらつかせる。
「取引だよ。僕がこれを警察にでも持っていけば、あんたは横領罪で刑務所行きだ。もちろん今の会社も首だし、実家の両親はどんな顔をするかな?」
「あ、あなた……」
「涼子さん、本当にまだ経験ないの?」
 増田の問いかけに、涼子は恥ずかしそうに小さくうなずいた。
「へえ、本当にバージンなんだ。情報どおりだ。うれしいなぁ」
 涼子が処女かもしれない、ということは、彼女の弟から真由を通じて聞いていた。
 男を付き合ったことはないし、おそらく処女だろう、と。
 それが事実だと知って、彼は心の中で快哉を叫んだ。
 増田は今までに三人の女性と寝たが、いずれも非処女だった。バージンとセックスをした経験はまだ一度もない。
(僕が彼女の『初めての男』になれるわけか)
 女にとって初体験の相手は、一生忘れられない存在だ。増田は彼女の初めてを奪うことで、すべてを支配しようと考えていた。
「僕はこの情報を警察に持っていくこともできるし、握りつぶすこともできる。すべては涼子さんの心積もりで決まるね」
「あたしの……心積もり?」
「僕のモノになってよ」
 増田は単刀直入に告げた。
 洒落た口説き文句などこの場では必要ない。だいいち彼にそんな口説き文句が言えるわけでもない。
「涼子さんの処女を僕に捧げてくれたら、この情報は握りつぶしてあげる」
「い、いやよ、そんなの……!」
 彼女はひかえめに首を振って、その提案を拒んだ。地味ながらも整った顔はいまや血の気を失って真っ青だった。
「ま、あんただって自分の人生がかかってるんだ。将来と、処女。どっちが大切かは比べるまでもないよね」
「お、お願いよ。こんな形で初体験するなんて、あたし──」
「どうせいつかは経験することじゃない。おまけに、二十四歳にもなって男性経験なしって、けっこう重荷じゃないの?」
「それは……」
 涼子は言葉を詰まらせた。
「もちろん断ってもいいよ。そのときは刑務所行きだけど」
 あえてそんな言葉を吐いてみる。
 ここまで来ていまさらやめるなどと言い出せるわけがない。それを分かった上で、増田はあえて尋ねていた。
 涼子の選択肢は最初からひとつしかないのだ、と痛烈に突きつけるために。増田は悠然と勝ち誇る。
 涼子は無言だったが、その表情が答えを雄弁に語っていた。
「処女を捨てられるチャンスだよ、涼子さん」
 止めを刺すように言うと、涼子はがっくりうなだれた。







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