第三回



        *


 今日は一日忙しかった。
 精根尽き果てる、とはこういう状態をいうのだろう。
 明日は社長や取引先のお偉いさんの前で、プレゼンをすることになっていた。考えただけで、今から緊張してくる。
「ただいま」
 帰宅するが、美穂の出迎えがない。
「どうした?」
「あ……おかえりなさい」
 台所の美穂は、どことなく元気がなかった。
 俺の顔を見たとたん、なぜか青ざめた顔をする。
「なにかあったのか」
 心配になってたずねた。
 夕食を作る途中だったらしく、美穂はエプロン姿だ。
 白い清潔なエプロンはシンプルなデザインで、童顔の美穂にはよく似合っていた。
 メリハリのあるボディラインを上から下まで眺め回し、俺はひとり悦に入る。
 仕事の疲れも吹き飛びそうな、魅惑的なプロポーション。
 ごく、と喉を鳴らし、俺は美穂に近づいた。
「……なんでもないわ」
 美穂が顔を上げ、告げる。
「なんでもないって顔してないぞ」
 俺は、さらに美穂に近づいた。こうして近くで見ると、よりはっきりと分かる。やはり顔色が悪い。
「……大丈夫よ」
「気分でも悪いのか」
「──ねえ、この間の口紅のことだけど」
 美穂が突然、たずねた。
「口紅?」
 なんのことか分からず首をかしげると、とたんに美穂の表情が険しくなった。
「ワイシャツの襟に口紅の跡がついていたじゃない! とぼけないで」
 温厚な妻にしては珍しく、声を荒げて追求する。
 俺はようやく思い出し、うなずいた。
「ああ、あれか」
 いつのまについたのかは分からないが、おそらく満員電車で近くのOLにでもつけられたのだろう。
「本当に電車でつけられたの?」
 美穂が重ねてたずねる。
 さすがにカチンときた。
 言うまでもなく、俺は潔白だ。結婚してから──いや、恋人同士として付き合っていたときも、浮気など一度もしたことがない。
 これからも、するつもりはない。
 俺が、美穂を裏切るはずがないのだ。


 なのに、美穂はそんな俺を疑っている──


 俺を信用していない。
 今も、疑惑の視線で俺を見つめている。
「お前、俺を疑ってるのか!」
 カッとなって叫んだ。
 普段ならこの程度のことで腹を立てたりはしない。むしろ、美穂がヤキモチをやいてくれたことに幸せすら感じたかもしれない。
 だが今は時期が悪すぎた。
 俺自身、明日のプレゼンのことで緊張していたし、気持ちも昂ぶっていた。いたずらに心を乱すようなことを言ってほしくなかった。
「ごめんなさい……言えないようなことなのね」
 美穂は嫌みったらしく言った。
 いや、後から振り返れば──このときの美穂の言葉に、他意はなかったのかもしれない。
 怒りのあまり、美穂の言葉の端を捉え、そんなふうに考えてしまったのかもしれない。
 だが、このときの俺には、そこまでの冷静な判断はできなかった。一度点火した怒りの火種は、いまや轟々と燃え盛っていた。
「だから、違うって!」
 俺は怒鳴って、それからそっぽを向いた。
「もう、いいよ」
 理由を説明するのも馬鹿馬鹿しい。


 沈黙が流れる。


「おい、いいかげんに臍を曲げるのはやめて──」
 言いかけたとき、美穂がいきなり抱きついてきた。
「おいおい、どうしたんだ」
「好きよ」
 美穂は耳元でささやき、頬にチュッとキスをした。情緒不安定なのか、態度がコロコロと変わる。
 一体、妻に何があったのだろう。
 珍しく情熱的な妻に、どきり、となり、そんな疑問はすぐに吹っ飛んだ。胸元に、美穂のふくよかな乳房の感触があった。
「美穂……」
 美穂はますます強く、俺の体を抱きしめてきた。
「今日は……だめかな?」
 ぞくり、とするような色っぽい声。
 思わず美穂の両肩に手を伸ばし──


 ──駄目だ。明日は大事な仕事がある。


 大一番、といってもいいプレゼンだ。さすがに、心身を整える必要があった。
 美穂とのセックスならいつでもできる。
 なんといっても俺たちは夫婦なのだから。明日のプレゼンが無事終わったら、心置きなく妻を抱けばいいのだ。
 俺はやんわりと美穂を押し返した。
「今日は……疲れてるからさ」
 たちまち、美穂は落胆をあらわにした。
 俺のほうがびっくりするほど激しい反応だった。
「ねえ……」
 美穂はなおもすがってくる。いつもでは考えられないほど、積極的な態度だ。
「悪い。明日はいつもより早いんだ。もう寝るよ」
 少し罪悪感があったが、美穂の誘いを断った。
 何せ出世がかかった大仕事だ。


 ──いずれ仕事が一段落したら、必ず埋め合わせをするからな。


 心の中で愛妻に詫び、俺は眠りについた。


        *


 私の気持ちは暗く沈んでいた。


 誘いを断られた──


 本当なら、女のほうからベッドに誘うなどはしたないことだと思う。
 それでも勇気を出して言ってみたのだ。原田が言ったことなど、嘘に違いないと思ったから。
 私たちの夫婦間では、セックスは二、三日に一度のペースだった。
 この間抱かれたのが五日前のこと。普段のペースなら、そろそろ求めてきてもいいはずだ。


(どうして抱いてくれなかったの?)


 仕事が忙しいのは分かるが、それでも恨めしい気持ちは残った。
 私だって不安なのだ。


 思いきり抱いて、その気持ちを溶かしてほしかった。
 思いきり抱かれれば、あなたの愛情を素直に信じることができるのに。


 動揺が、私の思考を堂々巡りさせていた。


 夫は浮気したのだろうか?
 原田のでまかせだったのだろうか?


 夫が浮気しているという証拠は何一つない。だが火のないところに煙は立たないともいう。
 何もなければ、そもそも原田がこんな話をわざわざ持ってくるのは変だ。
 どっちが本当なのだろう。
 何が真実なのだろう。
 思考がぐるぐると──ぐるぐると廻り続ける。
 決して答えの出ない問いかけが、私を苦しめ、消耗させていく。



 次の日、私は我慢ができずに、原田の携帯に電話をかけた。
 今度の待ち合わせ場所は駅前の居酒屋だった。原田が日中は時間が取れないというので、夜に会うことにしたのだ。
 居酒屋にしたのは、正直なところお酒の力でも借りないと、最後まで話を聴く勇気が持てないと思ったからだ。
「嬉しいですよ。こうしてもう一度奥さんとお会いできるなんて」
「私……私は」
 会った早々、言葉が出なくなる。
 何から話せばいいのか分からなくなる。
「原田さんのお話を聞かせていただけませんか。夫のこと、あらためて聞きたいんです」
 あらためて、原田からこの間の話を聴いた。
 前回と同じ内容の話──なのに、前回とは話から受け取る印象がまるで違う。
 原田の言葉は、私の、夫への疑念を膨らませていった。聞けば聞くほどに、夫が疑わしいと思えてくる。
(まさか、幹夫さん……)
 無論、証拠があるわけではない。
 だが、そもそもなぜ原田がわざわざ私にこんな話をするのかが気になった。
 もし話がデタラメなら、本来、彼には何の得もないことだ。
 夫への恨みだろうか?
 だとすれば、話は本当だということになる。
 だがやはり信じられない。信じたくなかった。
 幹夫さんが、私を裏切るはずがない。裏切られるなんて耐えられない。
「ふう」
 私はもう何杯目かも分からないグラスを、カウンターに置いた。吐く息が熱い。いや、体中が熱い。
 目の前がぐるぐると回っていた。少し酔ったのだろうか。
 そのとき、股間に男の手を感じて、私はわずかに眉をひそめた。
「少し酔いが回ってきたんじゃないですか、奥さん」
 カウンターの下で、他の客には見えないようにして原田が手を蠢かせている。スカートをもぐり、ごつごつとした指先がショーツに触れた。
「あ……」
 両脚の付け根にある一番敏感な箇所を、指の腹で撫でてくる。
 薄い下着の生地を通して、確実に刺激を送り込んでくる。
「何をするんですか。やめてください」
 原田は無言だ。
 何も言わずに私の目を見つめ、局部への刺激を続ける。
 原田の指遣いは巧みだった。
 布越しに、縦長のヴァギナに添って指を這わせ、さすってくる。絶妙の緩急をつけたタッチに、しだいに妖しい気分が込み上げた。


(だめェ、おかしくなっちゃう……!)


 夫は、こういう愛撫をしてくれたことはない。
「どうしました、息があがってきましたよ?」
「嘘よ……そんなはず、ないわ」
 言いながらも、私の呼吸は確実に荒くなっていた。
「あの……夫に電話させてください。もう帰らないと」
 さすがに危機感を覚え、私は原田から体を離した。これ以上、この男と一緒にいると妙な気分が高まるばかりだった。
 理性がきちんと働くうちに帰宅する必要があった。
 第一、人妻である私が、あまり長い時間他の男と一緒に過ごすのは好ましくない。夫もよく思わないだろう。
「もしもし」
「幹夫さん、私──」
 電話をすると、夫の態度はいつもよりもぞんざいだった。どうやらまだ会社にいるらしい。
「今、大事な会議なんだ。後にしてくれよ」
 確かに、夫は前日から仕事のことでピリピリしていた。普段の私なら、そんな夫を気遣うこともできただろう。
 だが今の私は冷静ではなかった。冷静さを失っていた。
 何よりも『安心』を求めていたのだ。
 浮気なんてしていない。
 私のことをいつも気にかけてくれている。
 いつも、愛してくれている。
 そんな確信が欲しかっただけなのだ。
 たとえ忙しくても、態度でそれを示してほしかった。
 だが夫の対応は、そんな私の期待を裏切るものだった。
「後でいいだろ。切るぞ」
 声を荒げ、そのまま通話を切られてしまう。


 つーっ、つーっ、つーっ。


 電話を一方的に切られたことを告げる音が、無情に響いた。
「どうしました、奥さん」
 原田はにやにやとした顔で笑っていた。
「わ、私……」
「送っていきましょうか? 外はもう暗いですよ」
 そっと肩に手を回される。
 私は、拒まなかった。
(もう、どうにでもなれ)
 やけっぱちといってもいい気持ちだった。
 一度負のベクトルへ向かった感情は、どこまでも──どこまでも暗い闇の底へと沈んでいく。
 頭の中がグチャグチャになっていて、まともな思考が働かない。私はこの先に待ち受ける運命も知らず、原田についていった。




 〜第四回に続く

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