第一回



        *


 今日も妻は美しかった。
 朝一番の寝ぼけ眼に、極上の美貌は刺激が強すぎる。
 結婚してもうすぐ一年になるが、その美しさにはますます磨きがかかったように感じた。
 俺は新婚当時を思い出し、美穂の頬に軽くキスをした。
「おはよう」
「やだ……恥ずかしい」
 妻──浅川美穂(あさかわ・みほ)が照れくさそうに頬を赤く染める。そうしているとまるで十代の少女のようだった。
 長い睫に縁取られた黒瞳は、わずかに目尻がさがっていて優しげな印象を与える。今年で二十六歳になるが、学生のような初々しさを残した容貌だった。
 ゆるやかにウェーブのかかったセミロングの髪は綺麗な光沢を備えている。
 俺は、美穂の顔に向けていた視線をゆっくりと下げていった。
 Fカップ(以前、美穂に聞いたところ、恥ずかしがりながらもバストサイズを教えてくれた)のバストがエプロンの胸元を勢いよく押し上げている。白いエプロンが窮屈そうに見えた。
 俺は首筋に顔を寄せ、胸の谷間をのぞきこんだ。


 完璧な紡錘形を誇る二つの膨らみが作り出す、深い峡谷。


 芸術品とさえいえるフォルムは、結婚して一年経つというのに、いまだに新鮮な驚きと刺激を与えてくれる。
「やっ……ち、ちょっと、幹夫(みきお)さん、どこ見てるの!」
 俺の視線に気づいたのか、美穂は顔を赤くして叫んだ。慌てたように体を離し、両手で胸元を押さえる。
 上質のマシュマロを思わせる双乳が、細い腕に押しつぶされ、淫猥な形に変形した。


 ふむ、これはこれで、なかなかの眺め──


 などと考え、ぽうっとなってしまう。
 美穂はまだ顔を赤らめていた。胸の谷間をのぞかれたのが、余程恥ずかしかったらしい。
「まったく……」
 俺はさすがに苦笑した。
 下手をすると、今どきの中学生よりも純情かもしれない。
 だが、それが美穂の魅力だった。
 付き合っているときも、そして結婚してからも──こういう羞じらいは決してなくさない女だった。
 俺は朝っぱらだというのにムラムラと欲情が込み上げ、ふたたび美穂に近づいた。
「幹夫さん?」
 怪訝そうな愛妻に体を寄せ、尻のあたりにそっと手を伸ばす。
「あっ……」
 すらりとした肢体が、びくん、と震えた。
 スカート越しにプリプリとしたヒップラインをなぞっていく。
 手のひらに伝わってくるのは、引き締まっていながら、蕩けるような柔らかさをも兼ね備えた理想的な美尻だった。
 俺は悪ノリして、左右の臀裂をギュッと鷲づかみにする。スカートの生地を通してとはいえ、はちきれんばかりに膨らんだ二つの尻旧の感触はやはり極上だった。
「いいかげんにして」
 さすがに美穂も怒ったようだ。
 拗ねたように口を尖らせるようすが、また可愛らしかった。
 年齢は二十代の後半に突入したというのに、いまだに学生のように初心で、可愛らしい。
「悪い、悪い」
 俺は美穂に謝罪すると、朝食の席に着いた。
 トーストにハムエッグと、まるで朝の定番のようなメニューだ。
 だが対面に座っているのは、俺には勿体ないとさえ思えるような美人なのだ。ささやかな幸せを噛み締める瞬間だった。
 トーストを頬張る俺を、美穂は嬉しそうに見つめている。
「美味しい?」
「ああ、美味しいよ」
 特別洒落ているわけでも、ウィットに富んでいるわけでもない、他愛ない普通の会話。
 そんな会話を交わせることこそが幸せなのだ、と。
 俺は実感する。
「いってくるよ」
 働く元気が沸いてくるのを感じながら、俺は席を立った。


        *


 赤嶺(あかみね)商事。
 それが俺の勤める会社の名前だった。いわゆる総合商社で、俺は営業職だ。
 自宅からは電車で一時間ほど。
 通勤時間としては、それなりだろう。
 と、
「なんだ、袖口に口紅ついてるぞ」
 声をかけてきたのは、同じ部署の先輩である原田だった。
 お世辞にも美男とはいえない下膨れの顔だち。
 いかにも中年男、というイメージを与えるビール腹が歩くたびに、ぶるん、ぶるん、と揺れる。
 見苦しいことこの上なかった。
 俺は首をひねり、襟足に視線を向けた。
 言われて見れば、白いワイシャツにかすかな紅い跡があった。
「あれ……満員電車でつけられたんですかね?」
「へへへ、浮気の証拠写真ゲーット」
 原田は携帯電話を取り出し、写真機能で俺を撮影した。
「や、やめてくださいよ、先輩」
 俺はムッとして顔をしかめた。
 もともと、原田のことをあまり好きではない。
 はっきり言って嫌な先輩だ。
 勤務中に仕事を抜け出すことはしょっちゅうだし、裏で何をやっているのかわかったものじゃない。
 腹黒い感じが、表情にまで透けて出ている。
 もう三十歳の半ばにもなるというのに、いまだに独身。
 ……まあ、最近では三十代で独身というのも珍しくないが、原田の場合はその性格が問題で、女が寄り付かないような気がする。
 まかりまちがっても、美穂のような素晴らしい妻を娶ることはないだろう。
 そう思うと、そこはかとない優越感が沸いてくる。
「なんだ、そりゃ。お前の奥さんか」
 原田が写真をのぞきこんだ。
 デスクマットの下には美穂の写真を挟んである。
 原田は食い入るような視線を写真に注ぎこんでいた。汚らわしい目つきだった。
 まるで視線で、愛する妻を汚されている気がして、不快感が込み上げた。


 人のプライバシーに勝手に踏み込むな。
 遠慮というものを知らないのか、この男は。


 心の中で毒づいてしまう。
 相手が先輩だろうと関係ない。
 いや、こんな男を先輩として尊敬することなどできやしない。
 文句を喉の奥に押し込め、俺は愛想笑いをした。
「ええ、もうすぐ一年になります」
「随分可愛らしいじゃねえか。まるでアイドルタレントみたいだな」
 陳腐な感想をもらす。
 もっとも、アイドルタレントみたいだという意見には全面的に賛成だ。
 むしろテレビに出ている大多数のアイドルよりも、美穂のほうが可愛い……と言い張るのは、ノロケすぎだろうか。
「浅川さんって愛妻家なんですねー」
 後輩の女子社員が微笑みまじりに言った。
 名前は篠崎桃花(しのざき・ももか)。専門学校を出て、すぐに入社したとのことで、年齢はまだ二十歳を少し出たばかりだった。
 彼女を見ていると、二十八歳の俺は、自分が年寄りになったような気持ちにさらされてしまう。
 まあ、彼女から見れば、同じ二十代とはいえ、俺も若くはないのかもしれないが。
 鮮やかな赤いリボンでまとめたポニーテールが印象的な、可愛らしい娘だった。
 桃花は、まるで少女マンガのキャラクターを思わせるキラキラした瞳で、まっすぐに俺を見つめてきた。
(うっ、やっぱり篠崎は可愛いな)
 間近で見ると、思わずどぎまぎしてしまう。
 ルックスだけで言えば、美穂にも決して劣らない。
 それでも美穂は、俺にとって別格の存在だ。
 世界で一番愛する、この世でただ一人の女。


 俺の、妻なのだから。


 ……などと考えているだけで、少し照れてくる。俺は頬を両手でピシャリ、と叩き、書類に意識を集中した。
「いいよな、お前は出世コースまっしぐらじゃねえの?」
 仕事に向かおうとする俺に、なおも原田が声をかけてくる。
 相変わらず、仕事に対する熱意が感じられない先輩だった。


 だから出世できないんだろ、あんた。


 またもや心の中で毒づいてしまう。
「そんなことないですよ」
「専務の娘婿なんだ、将来の重役候補だろ」
 原田はねちねちと絡んできた。
 確かに美穂は、この会社の専務の一人娘だ。飲み会で酔いつぶれた専務を自宅まで送ったときに、たまたまその家にいた美穂(当時はまだ女子大生だったが)に挨拶したのが、俺と妻の出会いだった。
「多少のミスがあってもかばってもらえるし、いいよな。その点、俺はちょっとしたことで部長にねちねちねちねち言われるしよ──」
 俺は言い返すのも馬鹿らしくなって、だんまりを決め込んだ。
 言いたい奴には言わせておけばいい。
「将来、お前が出世したら、俺も派閥にいれてくれよ。いい働きしますぜ、専務」
 原田が嘲笑混じりに言った。わざわざ俺のことを『専務』と呼んだのも、明らかに嫌味だ。
 その日は、一日中イライラしながら仕事をする羽目になった。


        *


「どうしたの、幹夫さん」
 帰宅した夫はどことなく様子がおかしかった。
 顔つきが険しく、少し不機嫌な感じがする。
 明るい性格の彼にしては、珍しいことだった。


 ……仕事でなにかトラブルでもあったのかしら?


 少し心配になる。
「いや、なんでもないさ」
 幹夫さんはにっこりと笑って、そう言った。
 私の大好きな笑顔だった。
 見ているだけで、こちらまで癒される。
 心の中が幸せに満ちていく気分になれる。
 ネクタイを外すのを手伝いながら、ふと襟足に視線が行った。
「あら、口紅の跡……」
 ハッとなって、思わず口元を押さえる。
「これは、その……電車で付けられたみたいなんだよ」
「通勤のときに?」
「あ、もしかして、俺が浮気したと思った?」
 幹夫さんは悪戯っぽく笑った。
「もう」
 私はぷうっと頬を膨らませ、拗ねたポーズを取ってみせた。
 もちろん夫のことを信じている。
 信じてはいるが、しかし──
 やはり、ワイシャツの襟元に口紅の跡などを見つけてしまうと、ドキッとなるのは当たり前だった。
「馬鹿だな、俺が浮気なんてするはずないだろ」
「あっ……」
 幹夫さんに体をまさぐられ、私は思わず声を上げた。がっしりとした手が、服の上から私の胸を揉みしだく。
 ──私は幹夫さん以外の男を知らない。
 いまだにセックスの悦びというのもよく分からなかった。
 初体験のときは股間が裂けるような激しい痛みを感じたし、その後も半年近くは、交わるたびに痛みに襲われた。
 私にとってセックスというと、まずは苦痛をイメージしてしまう。


 いつかは、女性週刊誌などに載っているような『目くるめくエクスタシー』などというものを感じられるようになるのだろうか。


 大いに疑問だった。
 もっとも快楽を感じられなくても、それはそれでかまわなかった。
 幹夫さんは、私を抱くたびに気持ちよさそうな顔をしてくれる。私の中で、あのたくましいモノを震わせ、イッてくれる。
 それだけで、何ともいえない充足感を覚えるのだ。


 ──愛されている──


 そう実感できる。
 そのとき、家の電話が鳴った。
「あ、電話だわ」
 幹夫さんから体を離し、受話器を取る。


「もしもし」


 暗く響く、男の声。
 私がまるで知らない声だった。
 夫への用事だろうか? もしかしたら会社の人かもしれない。
 もしそうなら電話を代わろうと、幹夫さんに視線を向ける。
 瞬間、受話器の向こうで男が用件を話しだした。
「奥さんに聞いてもらいたい話があるんですよ」
「私に?」
 不審な気持ちで首をかしげる。
 もしかしたらキャッチセールスかもしれない。
 わずかに警戒心を高めたところで、
「実はね、奥さん」
 知らない男がぼそぼそとした声で話を続ける。
「お宅の旦那さん、浮気してるんですよ」
 男の言葉に、頭のなかをハンマーで殴られるような衝撃を受けた。




 〜第二回に続く

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