| 座椅子について卓に向かい、帳面に書き留めたメモを基に草稿を書く。 月明かりが彩る庭を視界の端に稗田阿求はいつもの務めを果していた。言わずと知れた幻想郷縁起の執筆である。 日中は護衛の霧雨魔理沙と共に調査へ出歩いて情報を集め、夜はそれを基にして文章をしたためる、あるいは対象となった妖怪や場所の絵を描く。 概ねそのようにして阿求は第二期の編纂作業を行っていた。 さらさらと進めていた筆を止め、ため息をつく。筆を置き天井を仰いでもう一度ため息をついた。 ――億劫になってきた。 幻想郷縁起の編纂は自らの使命であり存在意義に等しいものであるが、さりとてそれだけを続けていては倦んでくる。 さらに書く事項は増える一方で、下手をすれば減らす速度より増える速度の方が早い有様だ。 「はあ……」 阿求は肩を落としてため息をもう一つ追加した。まだ熱を残している紅茶へ手を伸ばし、僅かに口に含む。 終わりまでの距離は、やる気に大きな影響を与える。終わりが近ければ「あと一息頑張ろう」となる一方、遠ければ「まだあるの……」となる。 遠くても頑張ろうと思う者も世の中には少なからずいるが、生憎と阿求はそこでげんなりしてやる気が失せていくタイプだった。 ――第一期の完成が度々伸びたところからもそれが窺い知れる。……さておく。 第二期の編纂については明確な完成予定日を設けていない事もあって、阿求のやる気と編纂の進捗にはかなりの波があった。完成予定日、言い換えれば締め切りに追い詰められれば間に合わせるべく最大限の能力でもって執筆するが、そうでなければ気の向くままである。晴れた日にはお昼寝して雨の日には読書して曇りの日には書くかもしれない、そのぐらいである。 そんなこんなで、第二期の編纂を開始してから既に一年近くが経とうとしていた。早いとは言えない進捗に加え、次々に起こる異変とそれに伴って台頭する人妖の面々のおかげであった。 阿求は書きかけの草稿を脇へよけて新しい紙を広げた。筆を取り上げて黒を引いていく。白地に書かれたのは文章ではなかった。それどころか字ですらない。 絵であった。気分転換の落書きである。書くのが億劫になりながらもさりとて床に就く気も起きない阿求の手慰みだ。 「わかってはいるんですけどね」 こんな事をしている暇があったら草稿を進めろ、と義務感や使命感といった感情が声を上げるが、時間的な猶予とやる気のなさがそれをまぁまぁといなして静かにしてしまう。そして阿求は今日も気分転換に耽る。 挿絵に仕上げるほどの丁寧さなど全くなしに気の向くままに描いていく。本人は何の気なしの落書きだが、幻想郷縁起に挿絵の導入を踏み切っただけあって上手い。少なくとも人の観賞に耐えうる程度には。 鼻歌交じりに時折紅茶を啜りつつ阿求は筆を躍らせる。このぐらいのペースで草稿も進められればいう事はないのだが、なかなか世の中うまく行かないものである。 紅茶が暖かさを失い、さらにカップから姿を消す頃になって阿求はようやく手を止めた。卓から顔を上げ、筆を置いて目を瞑り大きく伸びをする。凝り固まった肩、背中、首が音を立ててほぐれていく。うら若き乙女の身体がこんなに音を立てていいものかと思うぐらいの盛大さで骨を鳴らし、阿求は目を開いた。 「こんばんはー」 天井が映る筈の視界に上下逆さの女の顔が、吐息が触れるほど近くに、あった。 みっひゃあと叫んで阿求は後ろにひっくり返る。 「そんなにびっくりしなくてもー」 くつくつと楽しげに笑い、女はずるりと隙間≠ゥら身を抜き出した。紫紺の裾がふわりと舞い、幻想的としか表しようのない香りが漂う。 「ゆ、ゆ、ゆ……!」 仰向けのまま阿求は再び顔を覗き込んでくる女の名前を言おうとするが、喉に引っかかったように言葉が出ない。 「貴女も肝っ玉の小さい娘ねえ。そんなんじゃ寿命の前に心臓止まっちゃうわよ」 白い長手袋に包まれた人差し指で阿求の唇を押さえ、女は妖しく笑んだ。肩口から垂れるウェーブのかかった金髪をかき上げ、上体を起こす。 「……目の前に突然顔が現れたら誰だって驚きますよ」 憮然とした表情で言い、阿求も身体を起こした。 神出鬼没にして胡散臭い事この上ない妖怪の賢者――『八雲紫』が深夜のご訪問は今に始まった事ではない。 「で、こんな時間に何用ですか紫さん」 つっけんどんに言いつつ座椅子を起こして腰を下ろす。ひっくり返ったとき座卓に足を引っ掛けなかったのは幸いだった。 「あん。邪険にしないでよ」 おどかされた憤りを露にする阿求をとりなして紫はその隣に座った。 「今二期編纂の草稿を書いてるんです。用事もなしに邪魔をするなら帰ってください」 ツンと言い、阿求は筆を取って座卓に向かった。そこにあるのは描きかけの落書きだが、それと知らない相手には『下書きです』と通す事も不可能ではない。 「うそばっかり」 誤魔化すための筆の動きが止まった。 「一期でもう描いてるあの娘のコト、もう一回描き直すのかしら。それも連日連夜いくつも下書きして」 開いた扇子で口元を隠して紫は卓上の落書きに目をやる。言葉の通り、阿求が草稿相手とは裏腹の集中力を発揮して描いていたのは人物画だった。 紙の上には特徴的な帽子と不敵な表情の魔法使いの姿。今にも「だぜ」と印象深い語尾の台詞を吐きそうな出来栄えだ。 「知ってるんだから。貴女の事はよぉくね」 紫は目を細めた。 「なんでも知ってるんだから。うふふふ……」 幻想郷でプライバシーを守る事が難しい三人衆のうち一人に言われ、阿求は肩を竦めて筆を置いた。バレているのになお押し通すような考えはない。 「何の用ですか?」 向き直り改めて問う。『目的に伴う無駄を好む一方で無駄な行動は好まない』というのが阿求の八雲紫観だ。行動、言動、思考は及び知るところでないが、目的がある事ぐらいは読み取れる。 「夜遊び」 紫は簡潔に答えた。 「久しぶりにね、貴女と夜遊びにきたのよ」 扇子を畳んでしまい、阿求の腕を引いて抱き寄せる。阿求は抗わずに紫の腕へ収まった。 「夜遊びは少し違うと思いますが」 「いいのよ。意図が伝われば」 豊満な膨らみに鼻先を突っ込んだ阿求と言葉を交わして紫は自分の背に手を伸ばした。襟が緩み、胸の谷間を深く覗かせる。 「さあ、遊びましょう」 八雲紫が妖しく笑んだ。 |