見えないところ
いつもの二択の裏側
少年軍属は圧倒的に少数だ。だから自然と同じ面子で群れることが多い。特に訓練機関時代からの付き合いになるイクスアインは特別だと思っている。素人として始まった時からの付き合いだ。成功を共に築きながら失態や醜態も数多く見せてきた。年齢が近いから無駄な気遣いがいらないのは助かる。体の具合も読める。人通りの少ない通路や袋小路でばかり会う。それは二人の目的を暗に示した。ハーノインに改善する気はない。軍属は性別に偏りがあるから妥協する。敷居も低めだった。通過儀礼もこなしたしあしらい方や撃退法も学習した。
落ち合う場所で律儀に待っているのはイクスアインだ。蒼い髪は毛先へいくほど緩く巻きぐせがつき、毛質としても細いから頭部の形が判るようだ。眼鏡の位置を直すクセもありがちだ。前髪を伸ばすのは耳へ引っ掛ける癖をつけて癖毛を隠したいからだと聞いたような気がした。どちらにしても癖をつけるのかと思った。面倒なら切ってしまえばいいと思ったからそう言ったら冷ややかな目を向けられた。身だしなみについてイクスアインとハーノインは方向が違う。
髪の蒼さを映すようにして肌が白い。光源次第では肌へ髪色が透けると思うほどだ。ハーノインは歩調を緩めずに靴音を鳴らす。気づいたイクスアインが顔を向けたがその表情は心なしか固かった。密やかな約束で会うときに出す顔ではない。なにかあるなと思ったが深く考えない。探ろうと深読みするほど嫌な予感ばかりが当たる。悲観的な性質ではないのに嫌なことばかり当たれば気も腐る。ハーノインが茶化す前にイクスアインが口を開く。
今日は時間がとれなくなった。淡々と告げられてハーノインは口元を引き結んだ。今会ってるだろう。夜の話をしている。言葉遣いで慌てるイクスアインらしくなく直截的だ。なんでだよ。逢瀬は決め事ではないが時期が合えばそれなりに楽しみにもしていた。反故にされた立場としてそのまま引き下がるほどハーノインはおとなしくない。
「…大佐か」
律儀で融通の効かないイクスアインの予定に無理強いできるのは彼が尊敬するカインだけだ。沈黙は肯定でもある。明確に約束していたわけではないから責めるのは無理があると思っても、期待を逸らされた感情が収まらない。もともとイクスアインのカインに対する態度に不満があったからなお歯止めがきかない。冷静で公平な態度がカインに対した時にだけ変わるのが昔から癪に障る。
イクスアインは急な変更を詫びながらもハーノインの意見を聞く気はないようだった。イクスアインの中でカインが神に等しいのを付き合いで知っている。ひらっと手を返すように振ると踵を返す。言いよどんでいるのが判ったが聞いてやるような余裕が無い。
「お邪魔さま」
弁明や言い訳を聞く気はなかった。イクスアインも無理に止めようとしない。それが余計に逆撫でする。埋め合わせはする。無理やり付き合ってもらったって楽しくないからいい。ありありと判る刺にも怒らなかった。
「すまない、ハーノ」
「わかってるんならしないでほしいぜ。一つ聞きたいんだけどさぁ」
カインと俺と、どっちがいい?
コツコツ、と靴音は緩慢な間を置いて鳴った。何度目かも判らないため息に腫れた頬が熱い。厚顔に問うたハーノインにイクスアインは表情一つ動かさなかった。手加減の一切ない平手が炸裂した。カイン大佐だと言ったらどうする。即答された内容は、質問に質問で返されてハーノインが得られたものなどなかった。子どもじみた独占欲に負けたことを認める。誰と何をしても変わらないと思ったんだけどな。女を抱くのも男に抱かれるのもなんともないって思ってた。
イクスアインの火照った赤い頬やたどたどしい幼い愛撫。真摯なのに馴染まない睦言。知識が先行するものにありがちな組み立てや手順。キスをするときに眼鏡をはずすのをイクスアインはいまだに忘れる時がある。
「…まずいな…」
体の奥がうずいた。真っ当な関係じゃないとわかっていればなお、イクスアインからの興味が薄れるのが怖い。抱く方は相手の性別が変わることに変化は少なかろうが抱かれる方はそうはいかない。根幹から作り変えられてしまったハーノインは、多分もうイクスアインがいなくなったら。
「……くそ」
振り払おうと髪をガシガシかき回す。山吹と栗色に色分けられた髪は混じらない。手入れはするのに伸ばす気がないからザクザクと切り落としてしまう。拍子に耳を引っ掻いた。ピアスをかすめて破けるような痛みが走った。痛みに怯んだが確かめてみれば出血も腫れもない。痛みで思考が冷えた。
「ハーノインか」
低く響く声はカインだ。思わず壁際へ飛び退るのをカインは口元だけを弛めて笑んだ。敬礼を仕草だけで退ける。ハーノインの肩から力が抜けた。それを見たカインが余計に肩を震わせる。むっとして引き結ぶ口元に不満を隠さない。思考の坩堝で溺れている時になんで会っちゃうんだか。カインは人が思考に囚われた隙を突くようにして現れる。守りが薄くなる瞬間を見極めるように狙われて、意識的にそうしているのかと思うほどだ。劇的な出会いの時の格好良さは今では油断がならない方へ傾きつつある。イクスアインは違うようだがと思ったところで余計に気が萎える。なんでイクスのことなんか思い出すんだ。
「イクスアインと喧嘩でもしたかね」
年齢を感じさせない口調と態度は老獪だ。問い返したいのをこらえる。下手な口を利いて墓穴を掘りたくなかった。軍属では上官は絶対だ。極端な話、許可もなく口を利いただけで咎めを受けることもあり得る。カインの指がハーノインの頤を撫でた。優しいがそこには犬や猫を愛でる以上の感情はない。黒を基調にした眼帯は大きく、頬骨あたりまで覆う。その素顔を見たものはいないという話で、傷があるのだ目が開かないのだ、いや眼球がないのだと尾ひれのついた噂ばかりが飛び交った。
同じ軍属であっても階級で身なりが違う。白地に赤襟、金糸で袖と襟に階級を示す縫い取りがある。加えてカインは肩を覆う布があり裾も長い。外套に似ている。いきなりカインの手がハーノインの腰骨を掴んだ。紅褐色のベルトあたりを掴むだけの動作なのに裸にされたかのように荒々しさを感じる。腰の要を抑えられて身動きがとれない。
「甘いな。情報収集練度も及第点はやれない。仲間と情報は共有するものだ」
指が唇を撫でる。親指が無理やりねじ込まれる。ぅぶ、とくぐもった声が漏れる。歯茎を爪に抉られて震えた。涙が浮かぶ。目を閉じそうにすくんでしまうのをカインの笑みが嘲った。
「ハーノ!」
その時の声に不覚にも泣き出しそうになった。カインの吐息が笑う。
靴音も憤りも隠さず駆け寄ったイクスアインはそれでもカインに掴みかかったりするような真似はしなかった。カイン様、処理は終わりました。敬礼はいっそ嫌味だ。つまずいていたから時間があると思ったんだが。終わりました。執拗なイクスアインにカインはあっさりと手を引いた。口から引き抜かれる糸は紅く粘ついた。カインはハンカチで指を拭うと何事もなかったように立ち去る。そちらを見据えるイクスアインはいつもどおりだ。
「ば」
「馬鹿者!」
罵ろうとしたら先を越された。きょとんとしてしまうのをイクスアインは指を突きつけて叱りつける。どうしてお前はそう危機感がないんだ! 危機感? 頭ごなしに叱りつけられて反射的に反発する。どうもそういう性質のようで抑えこもうとする相手の階級を考えずに反発する。イクスアインは付き合いも長いからそのあたりの塩梅も判っているのだが、封じ込める手順も判っている。
「物欲しそうな顔をしてうろつくんじゃない」
「も…! そりゃお前だろ! 大佐に尻尾降ってんのは誰だよ!」
予定の変更を強いられるそもそもはカインの圧力にイクスアインが応じたからだ。イクスアインは指摘に苦々しい顔をする。カイン様を引き留めておけると思ったんだ。ハァ? 話が見えない。
「この間報告に行った時に、ハーノに手を出すようなことを言ったから! 彼が初めてかどうかは重要ではないがね、ってオレに言ったんだ! だから事務処理にかこつけて」
ハーノが自室へ引き取るまでつなぎとめておこうと思ったんだ。今日、たまたま気が向いた程度の話だったから、今日を乗り切ればなんとかなると。
苛立たしげに眼鏡を直されてハーノインの気が抜けた。なんだよそれ。口の中が瞬間痛みに燃えた。呑み込む唾が気持ち悪い。目眩がした。壁に背中を預けたら力が抜けた。ずるずると座り込む。
「馬鹿じゃない?!」
「お前もだ。オレもそうだがお前も相当馬鹿だ」
何をウロウロしてたんだ。さっさと部屋へ引き取るなり外出なりすればよかったろう。いつも始末書書くほど門限破るのだから。つけつけ言い放たれる言葉にハーノインは顔を伏せた。羞恥で顔が燃えた。耳が千切れると思うほど熱い。判っていないイクスアインが追い打ちをかける。オレとの約束がなくなればさっさとどこかへ行ってしまうと思ったのに何をしてたんだ?
「ハーノ?」
屈みこんだイクスアインの指が耳に触れた。弾かれたように顔を上げる。そこへ唇が重なった。合わせるばかりで噛み付いてもこない。舌も入らずふわりとやわい感触と体温だけが行き交った。
「本当にどうした? なんだか熱いぞ」
「…ば…ッ…――あー、もう…」
しゃべろうとすると傷がしみた。舌で探ると裂けている。爪でやられたのだから当然か。口の中にたまる涎が鉄の味に苦い。口の中の傷って治りにくいのに。もごもごやるのをイクスアインがあっさり押さえつけた。馬鹿、傷でも負ったか? 見せてみろ。見えるわけ無いだろ。じゃれあいのように組み付く。見せろ、嫌だ、と繰り返す。白い繊手がハーノインの頤を抑える。薄く開いた口元をとらえたのは指でも目でもなかった。桜唇が重なりあう。蔦のように腕を絡ませて抱擁とキスを繰り返す。
「なぁ、俺と大佐のどっちが大事?」
「そんな質問ができないほど抱いてやる」
イスクアインの手入れされた指先が眦の涙を払う。傷は負わなかった。
《了》