死が二人を分かつとも
二人だけの完全世界
ごろっと転がると壁に衝突した。勢い良く衝突したからか隣にいたイクスアインが慌てて声をかける。赤くなった場所をさすりながら平気といえばあっさり引っ込む。年齢も軍属時期も同じ。階級も同じだが身長はハーノインの方が先に伸びた気がする。優越に浸ったのはつかの間で即追いつかれた。誕生日はなんとかハーノインのほうが早い。それでもなにかにつけて褒められるのや頼りにされるのはイクスアインで気に食わない。イクスアインのほうが冷静なのだ。ハーノインが諍いを起こせばすぐさま取っ組み合ってしまう。養成機関時代はそのせいでだいぶ懲罰を食らったように思う。イクスアインは冷静に相手の弱点を探して準備にも時間を惜しまない。ただ時間配分が下手だからいきなり本番を迎えて泡を食う時もある。二人で組まされるといつもハーノインが焦れて飛び出す。イクスアインの入念すぎる準備は逆に基準を満たさないからひどい目に何度もあった。それでも隣にイクスアインがいれば良かった。
交渉をもっていたからイクスアインが眼鏡を外している。視力障害に特有の過剰な潤みが、乏しい光源では宝玉のように煌めいた。肌も白くて肌理が細かい。手入れもしているようだ。やわい蒼い髪は難物のようでしきりに耳へ引っ掛ける。一度訊いたら変な癖があるからわざと伸ばして耳へかける癖をつけると言っていた。よくわからない。そのくせハーノインのピアスが増えるたびに顔をしかめてこっちまで痛いと文句をつける。ハーノインは耳朶だけではなく軟骨にも開けている。色や仕掛けにはハーノインなりのこだわりがあるがイクスアインは今のところ全く気づいていない。まぁ知らないならそのほうがいいかも。知らずにいた方がいい機能のものもある。
片腕をたたんで枕にして寝そべっている。一人用の寝台であるから当然二人が寝れるわけもない。交渉の後にこうして向かい合って休むのが、最初の頃は照れくさかった。背中を向けるハーノインにイクスアインは好き放題する。着替え途中に項の鬱血を指摘されることが増えてからはハーノインは油断なく顔を向けるようにしている。うぶなくせに厚顔であるからイクスアインはにっこり笑ってハーノインの頬へ唇を寄せる。
「イクス」
壁際に追い詰められて逃げ場がない。イクスアインの部屋であるからと譲ったのがまずかった。当然のようにハーノインは追い詰められた。転換を申し出ても聞き入れない。かと言って交渉直後に自室へ帰るほど冷淡にもなれずに結局慣れた。潤んだ紺紫の双眸はハーノインだけをまっすぐ映す。
部屋には住人の癖が出る。ハーノインの部屋はどんなに消しても軽薄が消えないし、イクスアインの部屋は整然と整う。過剰なくらいだ。冷静で戦闘力の高いエルエルフより過剰なそれはもう潔癖だ。その辺りの塩梅が悪くてイクスアインは結局エルエルフに負ける。
「何を考えてる」
紅く照る唇がうごめく。白皙の朱唇は目立つ。冴え冴えと青い髪や睫毛は肌に反射して青白いくらいだ。それでもイクスアインの白さは蝋や紙の無機物ではなくで流動する官能だ。
カインを思い出す
自分たちを鍛え育てて導さえ示した男は軍属で大佐にまでなり、今は教え子をまとめて特別な任務ばかり請け負う。イクスアインと二人で見た。目の前で躍動するカインという、男の、体。その時に放たれた言葉は電撃のようにイクスアインを貫いて、だがハーノインはそれに心酔することもできずに夢と現の狭間を揺蕩う。男でも女でも求められれば応じる。それがハーノインだからだ。
イクスアインはカインを指針にしている。子供の時と微妙に好みが変わってる。それはひどく些細な、読む本とか好む映像とか体の手入れ方法とか、そんなもの。目が悪いから幼い時から眼鏡をかけてる。揶揄されて悔しい思いをしていたと思ったらなんの拍子にかカインにその程度は取り戻せると優しく言われて喜んでいた。
「ハーノ?」
「んー。何、イクス?」
互いを愛称で呼ぶのは同年代だからだ。少年軍属のくくりの中ではハーノインとイクスアインは年長で、でも他の連中を愛称で呼んだりはしない。そも、呼び合う習慣が消えたのかもしれない。アードライとエルエルフは同期だと聞くが二人が親しげに愛称で呼び合うのは見たことがない。クーフィアに至っては特例に近い幼さだ。ハーノインはたぶん正確にはこの三人を同期として見ていない。
イクスアインが音を立てて唇に吸い付いた。息を詰めるハーノインの頤が掴まれる。関節を押されて開く口腔を貪られて舌を吸われる。
「ン…む、…ぁ、ふ…」
半ば閉じている紺紫の双眸はうっとりハーノインを見つめている。睫毛の蒼さが目立つ。びくびくと震えて押し戻そうとするハーノインの手首が掴まれる。
「スケベが」
「お前だ!」
イクスアインのさらりと滑る手がハーノインの脇からくびれをなぞる。腰骨の尖りを押されてハーノインは反射的に後ずさって壁に塞がれる。逃げ道がないな。追い詰めるのは楽しい。ぞくぞくした昂ぶりを潤んだ双眸に湛えてイクスアインが微笑んだ。首筋や鎖骨のあたりへ吸いつかれて慌てる。
「ば、か…! 着替えとか、どうすんだよ…」
「じゃあこっちにしよう」
朱唇が食んだのは尖った胸の先端だ。ひぅっと裏返った嬌声を上げてハーノインは裸身を蠢かせた。
「馬鹿」
銀糸を吐き出して優越に笑むイクスアインに紅潮した顔を向けるしかない。
「…ハーノは本当に良い女だな」
「お前と同じものが下がってるぞ」
「そうじゃなくて。性質がさ」
クスクス笑うイクスアインは明らかにこの言葉遊びを楽しんでいる。そういうところがカインに似てて嫌だ。カインもハーノインを嘲弄しては好き放題扱う。大佐みたいなこと言うなよ。ふむ、目標に少し近づいたか。近づかなくていいって。
「俺は大佐好きじゃない」
「どうして?」
訊いてくるイクスアインはいっそ無垢で、だからハーノインを苛立たせる。
「どうしてって。胡散臭いだろあの人」
「ハーノ。大佐は極秘任務や重要任務を兼任するんだぞ。いちいちオレたちのところまで情報を下ろすわけがない」
「…そーだけどさ」
そもそも優秀極まるエルエルフをあしらうあたりですでに真っ当でないと思う。明確な不愉快も不快もなくて、でもそれっておかしいだろ。誰かに好かれるなら誰かに嫌われて当然だ。嫌われないやつなんかいない。その辺りの塩梅がハーノインを警戒させる。悪意があるから関わらないんじゃないのか?
「…まぁイクスがカイン大佐命なのはよく知ってるからいいよ」
あっさり放り捨てるのをイクスアインも深追いしない。この話題は二人の間で何度もかわされている。結論が出ない平行線にすでに倦んでいる。
のそりと起きるのをイクスアインも咎めない。膝をぺたりと付けて壁に凭れる。脚の間へ手をおいて隠す。イクスアインは一枚しかない毛布を使っている。ハーノインの灼けた肌には幾つもの鬱血が散って、それはイクスアインの秘めた激しさだ。それを見せてくれるのはハーノイン相手の時だけなのだと識っているからうっとりと口元を弛めた。ピアスがきしりと音を立てる。山吹と栗色の髪はそれだけで目を焼く。カインから頂戴したのはあまり目立つなよという一言だけだ。軍属として時に横のつながりを断つほど秘する仕事がある。イクスさ、この間鍛錬サボっただろ。出欠も取らないのによく判ったな。ロッカーが開いてなかったもん、判るって。教官がお怒りか? 今度射撃の手本にするって言ってたぜ。それはそれは。練習しておかないと恥ずかしいか。イクスアインの白い手がハーノインの腹を撫でる。伏せた膝の上にイクスアインが頭を乗せる。耳の軟骨の手応えや髪が滑ると香りがする。眼鏡のないイクスアインの目は蠱惑的に潤む。
二人が同時に口を開く。唇は全く同じ動きで音を紡ぐ。
「すきだ」
栗色の睫毛を上下させるハーノインにイクスアインは鷹揚に微笑む。それはどこか恍惚としていて思わぬ折に交渉を思い出させた。イクスアインは知的な容貌に反するような激しい情動を秘める。ハーノインの制止など聞かない時もある。華奢な体躯と眼鏡に惑わされた。周りの大人の反応も同じだ。イクスアインの熱は制御可能だと思っている。見くびったハーノインは何度も痛い目にあった。それでも離れられない。諍いや亀裂は何度も経験した。取っ組み合って転がったことも一度や二度では済まない。それでも。懲罰房に打ち込まれた時とか。最低限しか用意できない武装で任務についた時とか。
隣にいるのがお前でよかった
指先がやわい髪を撫でる。蒼さがハーノインの肌にまで反射する。イクスアインはそっと体を起こしてハーノインの臍のあたりへ唇を寄せる。すぐさま沈む。一瞬のキスでも体が燃える。
「どうした、ハーノ。まだ足りないのか?」
愉しげなイクスアインの指が腰骨の尖りやくぼみを探り当てては押してくる。
「うっせ……頭なんか乗せんな」
ハーノインは肩を落とすと口を開く。イクスアインが見計らったように唇を開く。同調を紡ぐ。
「オレはお前を愛してる」
「俺はお前を愛してる」
「違うと思う。俺はお前を殺したいほど愛してる」
「殺されてはたまらないな」
「だからさ。俺はお前を殺して俺も死ぬからその瞬間まで俺はお前を好きだ」
怜悧な容貌がふわりと弛む。眇めた紺紫の双眸に自分が映っていると思うだけで息が乱れた。
「その後は?」
「知るか。面倒見切れないぜ」
イクスアインが顔を背けて笑う。肩の揺れがその度合だ。おい、どういう意味だよ。死んだら終わるっていうのが女だなって思っただけ。男なら種が残る。この状況で言うことじゃないな。
白い肌が少し赤らむ。肌が白いと紅潮や蒼白の具合がすぐ判る。イクスアインの指がハーノインの短髪を梳く。また落としたな? 伸びると面倒くさいだろ。ハーノインはいつも鬱陶しくなると自分でバッサリ落としてしまう。そうそう技術のいるような繊細な髪型ではないから粗雑だ。うなじの辺りは刈り上げないが襟を隠すほど伸ばしもしない。適当に切り落とすのがイクスアインのため息を誘うと判っていても直らない。ハーノインが欠伸をする。眠いか? イクスアインはこういう気遣いに敏いほうだ。
「…ねむい、かも」
「今日は激しかったから」
不服を膨れ面で示すとイクスアインは喉を鳴らして笑う。ゴムはつけたし障りはないかな。腹は痛くないか? 今は痛くないけど。…くそ、眠いな。交渉で熱量を過剰に消費するのは男性体の宿命だ。まして体の助けもない同性同士の交渉であれば熱量は消費するばかりだ。ずるずると敷布を滑って落ちていく裸身をイクスアインが抱きとめてくれる。起きるから背骨が軋むだろう。寝そべれ。少し眠っていっても構わないから。イクスアインの先導でハーノインは枕へ顔をうずめた。
好きかも。え? イクスアインの意表を突かれた折に出る頓狂な声は可愛げがあると思う。
「俺、お前のそう言うの好き、だな」
「眠らせるだけで陥落できるとはお前も易いな」
言い草なのはイクスアインの標準装備だ。イクスアインは拳をふるう代わりにつけつけとものを言う。
「…だって…お前の、匂い…する…から」
とろとろとまどろんでからハーノインはその眠りの沼へ体を浸した。
イクスアインは口元を手で覆うように隠しながら赤面した。ハーノインはすっかり寝入っていてくぷーと間抜けた寝息さえ晒す。弛んだ口から垂れる唾液を拭ってやる。真っ赤に火照っている自覚があればなお恥ずかしい。イクスアインは毛布をハーノインにかぶせると着衣を整える。
「馬鹿ばかり、言って」
交渉の名残として山吹の前髪はハーノインの秀でた額へ一房二房とかかっている。前髪を上げて額を露わにするのはハーノインの頑固さだと知っている。軽薄ななりと行動をするのにこのハーノインは案外根本を譲らない。そういうところが好きなわけだが。
「…まったく!」
頭を抱えるイクスアインの他所にハーノインはしっかりと寝台の取り分を使う。くたりと力の抜けた体は案外柔軟だ。頬をつつくと、んむぅと悩ましげな息を漏らす。イクスアインはハーノインの体の後始末をしてやった。
「好きだからだぞ」
眠って返事がないから言える言葉を吐いてイクスアインは寝台に背を預けて床へ座る。敷布も取り替えなくては。それでも眠っているハーノインを起こす気にはならなくてイクスアインは口元を弛めた。
「だいすきだ」
《了》