もう二度と聞きたくなかった
忘れていたかった
おとうさん!
おかあさん!
こわいよ!
息を呑む音がして開いた視界に呆然とした。真っ暗な天井。閉め忘れたカーテンをすり抜けて月光が部屋を照らす。ひゅうひゅうと自分の呼気だけが音を立てていた。喘ぐ喉は渇いて貼り付きそうだ。紅褐色の双眸は虚空を睨んだまま瞬きさえもできない。気づかずに握りしめていた指先が白い敷布にくっきりとした畝を残す。弾かれたように体を起こす。肩と胸部が上下して浅く早い呼吸を繰り返した。息を吸っているのに四肢の方へはちっとも回らない。重たくしびれた指先が震えて自分が掴んでいた敷布を見る。紅い華が咲いていた。痛みは感じなかった。
「は――…」
ぐしゃ、と前髪をかき上げて初めてびっしりと汗を浮かべていたことに気づいた。球体が崩れて流動的な汗は頬を滑って頤から落ちる。
アルヴィンの口元が引き結ばれた。ごくりと喉を落ちていく生唾はドロリとしていつまでも感触が残った。ひりつく喉に何とか感覚を持ち直しながら思い出す端から忘れていく夢にくじけた。もう何年になるかさえ判らないほどアルヴィンはこうして夜中に跳ね起きる。体を動かして疲れていれば何事も無く熟睡するのに不定期に訪う夢はアルヴィンを夜中にたたき起こしては気をくじかせた。
「…ゆ、め」
ただ鮮烈な恐怖と、痛みと、自分への怒りと。奔る激情だけは明確なのにその原因さえ今では曖昧だ。どうしたら良いか判らないのに決断を迫られていることだけが判って。結果が何であるか判っているのにそれがじわじわと迫り来るだけの恐怖。シャツの襟をかきあわせるように掴んだ手が震えた。
「どうかしたの」
アルヴィンの肩が跳ねた。薄暗がりで玉の煌めきを放つ琥珀の双眸がじっとアルヴィンを見ていた。ジュードだ。魔物の目のように発光しているかに見えたのにそれが誰であるか判った途端に月光の反射であると決着する。ジュードは寝そべったまま毛布にくるまっている。枕に乗せられた黒髪がよく手入れがされていて艶を帯びる。口元まで引き上げられた毛布で口の動きは見えないがジュードの声は鮮明だ。アルヴィンの喉が震えた。灼けつくそれを叱咤してなんでもない声を紡ぎだす。
「…ちょっと、嫌な夢見てな」
笑う口元が震えた。笑え、と自分を怒鳴りつける。こんな子供に打ち明け話は荷が勝ちすぎるし自分の弱みであるとしてそれを見ている以上、打ち明ける気はなかった。アルヴィンの思考も言葉も口調もジュードを無難にやり過ごす方へ傾いた。全部隠すのは難しいがある程度手の内を明かせば大抵の相手はそれが全てあると判じて引き下がる。大事なのは、いかに大事ではない部分を大事に見せかけるかだ。相手がそれに騙されてくれれば後は坂を転がるようにうまくいく。
ジュードはふぅんと言ったが毛布の淵から覗かせる眼光は鈍らない。アルヴィンは逃げ出したくて靴を履いた。ひもを結ぶ手が緊張と動揺に震えた。
「うなされてたよ」
ビリっと奔る電流のような刺激に指先が怯んだ。恐る恐る窺い見るジュードの双眸は何も映していない。アルヴィンの喉がゴクリと鳴った。
「…そりゃあ、悪かったな。うるさくして」
「それは別に、いいんだけど」
ジュードが起きだす。寝台の上にいるが隙をついて飛びかかってこないとも限らない。アルヴィンは手早く靴紐を結んでしまおうと目線を戻した。逃げ出したいあまりにアルヴィンはジュードへの警戒を怠った。
「怖いよ、って言ってた」
「――え」
体を起こす前に襟首をひっつかまれて寝台の上へ突き倒された。絞まった襟に気道が詰まって咳き込む。紐で縛られていない靴が落ちて重い音を立てた。ジュードの白くて細い手がアルヴィンの喉を掴んでのしかかっている。馬乗りになってジュードの幼い手がアルヴィンの喉を絞める。
琥珀の双眸が揺らめいた。落涙しそうに水を含みながら気配さえも見せない。細い眉が釣り上がってアルヴィンを睨みつけている。ジュードの声が震えた。喉を掴む手は絞めるというより掴むに近くて、気道を鷲掴まれているようだ。そのままぶちぶちと引きちぎられそうな幻想に甘い痛みを感じる。
「何度も声をかけたよ」
喉仏が食い込んで苦しい。
「アルヴィン、って何度も何度も、呼んだよ」
ジュードの指先さえもが震えを帯びた。ぽたぽたと熱い滴がジュードの鼻梁をたどってアルヴィンの上に降る。
「起きないから! 起きないから…ッ怖くて! アルヴィンの息が何度も、何度も…僕じゃあ何もできないのかって思ったら、怖くて!」
「――放せ!」
アルヴィンの腕が一閃してジュードの手を振り払った。ぜいぜいと喘鳴を繰り返す喉は灼けるように痛い。咳き込む痰に少し血が混じった。後ずさる。
「おたくには、関係ねぇだろ!」
殴られたようにジュードの双眸が集束した。見開かれた琥珀の眼が小さくなる。同時に何かが毀れた音がした、気がした。
ジュードの目が怒りに震えていた。紅い唇が戦慄いた。
「――ぁあ、アルヴィンッ!」
口をふさぐようにジュードの手がアルヴィンの頤を掴み、その勢いのまま寝台に縫い止められる。鼻はかろうじて塞がれていないが口は完全に駄目だ。頭部が枕に埋もれてぼふんとホコリを立てる。跳ね上がる脚さえもいなしてジュードはアルヴィンの脚の間に体の位置を取る。
「関係ないなんて、赦さない!」
吼える声が明確に怒りにまみれて顔が軋むほど強く力が入れられる。銃や剣を使うアルヴィンとは違い、拳闘するジュードとは基盤の規模が違うのだ。いつもは上手くいなすアルヴィンのその場凌ぎが通じない。本気になったジュードの厄介さと難敵さにアルヴィンは戦慄した。敷布や枕を突き破らんとする勢いで埋もれる。口が塞がれて息が詰まる。外れた瞬間に大きく息を吸った。肺が軋む。水に潜っていた時のようにアルヴィンは喘いで呼吸する。ジュードの手はそのままアルヴィンの鳶色の髪を掴んだ。引き攣れる皮膚の痛みに顔を歪めるのをジュードは愉悦の表情で見下ろした。
空いた方の手がアルヴィンのシャツを開いて胸に当てられる。滲んだ汗でしっとりと馴染むアルヴィンの皮膚はジュードのそれと融け合って境界を曖昧にしていく。アルヴィンは自分の胸部や心臓にジュードの手が割り込んでくるのを感じた。心臓という臓器を鷲掴まれるような恐怖がある。
「ドキドキしてるね」
アルヴィンの息が揺れた。ジュードの体温を、アルヴィンの体は容認している。ジュードがどんな暴挙を働いてもなおそれは覆らないだろうと判る。筋肉や骨の強張りさえもがジュードの体温の侵蝕を好機として捉えている。アルヴィンの意識だけが恐怖に震えた。体の支配権がうつろいゆくそれは、恐怖。ジュードもそれを知っていてなおいたぶるようにアルヴィンを見下ろす。
「何が怖いの。…泣いて、たよ」
ジュードの琥珀が潤みきって落涙した。大きな目がボロボロと涙をこぼす。薔薇色の頬を火照らせて透明な滴が幾筋も流れる。尖った鼻先からぽたぽたと滴る。
「アルヴィンは、泣いてた…! 僕は、僕は起こすことさえできな、かった…!」
長い前髪の黒い幕で遮られても熱い滴がポツポツとアルヴィンの頬を濡らす。アルヴィンの髪を掴む乱暴な指先でさえもが無力に泣いて震えた。
アルヴィンが怯んだ。触れてくるジュードの指先の震えが明確だ。それが滴のように明確に水面に波紋を残す。アルヴィンの体はジュードをはねつけるのを躊躇した。
「……アルヴィン」
ジュードの声の震えが止まる。指先の揺らぎが大きくなったような気がした。紅い唇のままでジュードはくすりと笑んだ。その琥珀の双眸は明確にアルヴィンを見下した。
「泣くほど、何が怖いの?」
「おたくには関係ない」
「関係、ない。関係ない、か…ふふ…」
ぎりっと髪を掴む手が鳴った。激痛が走る。顔を歪めるアルヴィンの頬をジュードが舐めた。
「いつも、そう。いつもそうだよ。ちょっとでも踏み込むと、関係ないだろって突き放して、そのくせかまってほしげにほのめかしたりして。教えてくれただろう。酔っ払っていたけどね」
ジュードの口元が得意げだ。紅い唇が、音を紡いだ。
「 」
刹那、アルヴィンは体中の血が沸騰したような熱さと憤りと戸惑いと怒りを覚えた。ジュードが口にしたのはアルヴィンの本当の名前だ。親がつけたアルヴィンの名前。
「本当の名前はこれだって、教えてくれたろう」
怒号を上げるアルヴィンの口を腕力でジュードが塞いだ。めちゃくちゃに伸ばされた爪先がジュードの頬をえぐる。血が滲んでさえアルヴィンはそれに気づけなかった。脳髄を灼きつくすような怒りと恐怖に震えた。
口をふさぐ手に噛み付く。皮膚が裂けて血がにじみ、アルヴィンの口の中に鉄の味がした。それでも歯を立てるアルヴィンをジュードは憐れむように見下ろしてから手を外した。
「僕を殺しても消えないよ。アルヴィンの、本当の――名前は」
アルヴィンの紅褐色の目が見開かれる。集束する紅褐色を見ながらジュードは微笑んだ。
「アルヴィンのなかに僕が残るなら、僕はアルヴィンを痛めつけてあげるよ」
関係ないなんて言って忘れさせないから。
「逃さないよ」
アルヴィンの犬歯がジュードの皮膚を裂いた。溢れてくる血さえいとしげにジュードは眺める。めらりと燃える焔がジュードのうちを灼き、アルヴィンのうちを灼いた。
「忘れて逃げるなんて、赦さないから」
びりり、とシャツが裂かれた。アルヴィンが口を押さえる手に噛み付く。
着衣の上からジュードがアルヴィンの脚の間に手を這わせた。アルヴィンは目に見えて動揺した。熱く火照るそこにジュードの笑みが深まる。明確な目的を持った動きにアルヴィンはみるみる追い上げられていく。
「…ッ! ――…ッ!」
荒い息遣いだけがこだます。ぶるっと身震いするのをジュードはうっとりと眺めている。
「アルヴィンはかわいいよ。僕だけのものであればいい」
唇を貪られて同時に、脚の間の手がうごめく。ぞくぞくと背筋を奔る震えにびくつきながらアルヴィンは熱をこらえた。荒い呼気を貪られる。濡れた音が漏れて嬌声が上がる。
腰が震える。膝だけが閉じようともじもじするが脚の間に居座るジュードの手はそれを許さない。アルヴィンは何度も喘いだ。
「アルヴィンの体も、名前も、全部全部僕のものであればいい」
すっかりとろかされてからアルヴィンが懇願した。意識も意志も関係ない、体の熱に流された結果だった。怒涛の勢いで押し流すそれは脳裏を埋め尽くしてアルヴィンの意識を溶かしていく。口の端から溢れかえる唾液が流れを作って頤まで伝った。
「いいよ。可愛いね、アルヴィンは」
ぐぐぐ、とジュードの手が揺れる。淫具の振動にアルヴィンの体は降伏した。
「ふぁぁぁあああ、あぁぁあ」
びくびくと足の先まで攣らせてアルヴィンの体は熱を放出した。とろけた意識の端でジュードの意味有りげな目線には気づけなかった。故意に遠ざけていたのかも知れなかった。
「アルヴィンは、本当に…気づいてないの、かな」
アルヴィンの手がジュードの頭部を引き寄せた。そのまま唇が重なる。互いに貪り合う。熱くぬるい息を鼻先に交わしながら笑んだ。
好きだな。うるせぇ黙ってろよ。ジュードの手がアルヴィンの体を弄る。忘れさせてくれるんだろうな。何を? 知らないならいいさ。教えて。嫌だね。ジュードは拗ねたように幼い口付けを繰り返し、アルヴィンはジュードの手を脚の間へ導く。二人してドロドロの脚の間が結合する。痛みはなかった。アルヴィンは泣いたがすぐにそれは快感のそれに変わる。
「アルヴィン?」
アルヴィンは涙を浮かべて笑い返した。
もう父親の名も、母親の名も呼ばない。
俺は「アルヴィン」として
生きていく
泣き笑うアルヴィンにジュードは唇を降らせた。
《了》