ほこほこと
あたたかい
あやふやな境界線
往々にして出来事は不意に始まるものだ。アルヴィンは唐突にそれを見つけた。遠巻きに気配がするから護衛でもついているのだろう。だが街中で堂々と異分子になるつもりはないらしく、当人はあくまで目立たない服装をしている。生成りのシャツに濃紺のズボン。長い髪はひとくくりにされていても豊かに揺れる。馬の尻尾か。アルヴィンは駆け寄ると肩をたたいた。
「よぉ、しばらく見なかったな」
瞬間、ざっと気配が色めき立つが男の目線一つで収まる。袋叩きにされずに済みそうだ。
「お前こそ色々と忙しいと聞いたが」
生まれ持たない地位での言葉遣いのせいかしゃべるたびに眉根がよるのが面白い。
「ひっさしぶり、…ガイアス」
敬称を略してもガイアスは怒るでもなくアルヴィンを見据えている。市井に紛れようという貴人がこれしきで腹を立てていたら永遠に無理だ。ニヤニヤ笑うアルヴィンを無表情で見返す。
「こい」
腕を引かれてアルヴィンが驚いた。
そのままガイアスはズルズルとアルヴィンを引っ張っていく。どこへ連れて行かれるのかと思ったが、なんという事はない。往来で話し込んだら迷惑であるというだけだ。喫茶店へ二人してなだれ込んだ。店の者はガイアスに気づかない。あえて黙っていることも考えられる。髪を縛り、質素な服を着て眼鏡までかけているという涙ぐましい変装を水泡に帰すのは少し罪悪感がある。アルヴィンも敬語や敬称は使わない。それではアルヴィンの方からこの男が貴人であるとばらすに等しいからだ。アルヴィンが適当に注文をつけると給仕が下がる。しばらくしてからコーヒーが運ばれてきた。
口をつけながらアルヴィンはガイアスを窺う。城下になど出てきてなんの用があるの
だろう。城下といっても直接的な王都ではないから出張中の息抜きか。だからこそ街を歩けるのかもしれない。王都ではガイアスの顔も声も知れ渡り過ぎている。
「アルヴィン」
ガイアスの声が低くて好きだ。甲高い声はそろそろ辛い。そう言うとジュードなどが怒るのだがアルヴィンにはそのあたりの事情はよく判らない。最先端であろうとする若者がそろそろ判らない程度には自分も老けているのだろう。アルヴィンは目線で先を促す。カップを傾けた。熱いな。
「屋敷を新設した」
言葉をありふれた単語に言い換えるのも不自然さを消すためだ。アルヴィンは気軽に、そりゃあ景気が良くていいねぇと応じた。
そういえばこの地方にもガイアスが滞在できるようにする話があるとかないとか言っていた。末端の領地であっても一度くらいは見ておきたいのが統治者としての心理なのか。観光じゃねぇんだから、と思うのだがそのあたりを口にするほどアルヴィンは幼くない。建前と同時に王都や政府内での勢力抗争が透けて見える。
「そりゃあ良かったな」
お愛想である。相槌ですらない。それでもガイアスはそうだなとあっさり納得した。
「風呂は?」
「ふろ?」
「いやぁおたくの新居ならきっとでっケェ風呂とかあるんだろうなーって…違うんだ?」
バカにしながらニヤニヤ揶揄する。そもそも湯殿に浸かる文化がガイアスに浸透しているかどうかも知らないのだから馬鹿なのはアルヴィンの方である。これで墓穴でも掘ろうものなら完全に自業自得だ。ガイアスが真顔で言った。
「あるぞ」
「あんの?!」
ガイアスが仰々しく頷く。動作の端々の尊大さが隠しきれていない。
「湯殿に浸かるのが案外気持よかった。作れるかと訊いたら作れると言ったから作らせた」
「へぇ、すっげー…」
「入るか」
「いいの?」
アルヴィンが食いついた。街にたどり着くときはいつも旅の疲れと汚れをまとっているから入浴という贅沢を満喫できるならする。ましてそれがガイアスの居住であれば人も少なかろうしゆっくりできることもうけあいだ。大衆の利用する公衆浴場でさえかなりの治癒効果がある。身分の高い連中がどんな生活をおくるのかも興味があった。
「いいんだったら入りたいけど」
「ならば行くぞ」
ガイアスは名残もなくあっさりと席を立つ。そのまま店を出る背中を追いながら、アルヴィンはコーヒーを飲み干して色を含めた代金を給仕につきつけた。ばたばたと慌ただしく出てくるアルヴィンにガイアスの口元が緩んだ。
ガイアスの居住ともなれば変装は意味を成さない。すぐさま下男が姿を現しておかえりなさいませ、と手足を拭う。ガイアスは慣れているからか黙って好きにさせているがアルヴィンはひどく居心地が悪い。人に跪かれて手足を拭われる経験などない。下男は無駄口も利かず問い詰めもしない。ガイアスが直々につれ帰った事自体が通行手形になっている。
「風呂を使う」
「ご用意いたします」
引き下がる下男を追わずにガイアスは歩き出す。アルヴィンがおっかなびっくりその後を追う。怯えはしないが怯んではいる。アルヴィンが渡り合った世界は人に何かしてもらうには金が必要で、人の何かを毀すのも奪うのも暴力が物を言った。
「こっちだ」
低い声で呼ばれてそちらへ向かう。迷いそうに広い屋敷だ。下働きでも全貌の把握が難しそうで、それがこの屋敷を有る意味で要塞に仕立て上げる。
「ついてこい。知らぬ道に入った新入りを探しだすのがいつも大変なんだ」
ガイアスが笑いながら手を差し出し、アルヴィンは疑問に思う前にその手をとった。幼子のように手を引かれる。こうして手を引いてもらったのがいつまでなのかアルヴィンにはもう思い出せない。母親はすでに亡いし父親に至っては顔さえあやふやだ。尽力してくれたのかもしれないが、アルヴィンの記憶に殊更父親の強さはない。ガイアスの声はまるで安心できる庇護者のそれのような低音で心地よくアルヴィンを包み込んだ。
「可愛いところがある」
笑うようにガイアスに言われてアルヴィンは手を振り払った。離れていくぬくもりにものすごく名残惜しさを感じて驚いた。ガイアスは気を悪くするでもなく扉の前で止まる。観音開きのそれを開けると絨毯や調度が一級品の部屋が現れる。広い部屋で、しかも次の間があるようで扉がある。椅子もテーブルも一級の職人の手によるものだ。備えてあるティーポットやカップでさえ破損したら全財産を投げ打つことになりそうだ。ガイアスは当然のようにそこへ足を踏み入れ、アルヴィンを招き入れた。
「入れ。風呂の支度が整えば知らせに来るだろう」
アルヴィンは部屋に入るが調度には触れない。花瓶や皿や額を壊しでもしたらと思うと寿命が縮まりそうだ。
「アルヴィン?」
ガイアスの声が響いてからノックがあってアルヴィンが飛び上がった。ガイアスの誰何で下男が名乗る。扉は開けずに浴場の用意が整いましたと抑制の効いた声で告げた。ガイアスが判ったと告げると気配が消えた。
「慌ただしいな…こっちだ」
入ってきたのとは違う扉だ。どんな構造なのか悟らせない難解さにアルヴィンは覚えるのをやめた。迷ったら探しだしてくれるだろう。ガイアスの後ろをヒヨコよろしくとことことついていくだけだ。廊下の突き当りにそれがある。ふわりとした湿り気のある空気に風呂場のそれを感じる。ガイアスが扉を開けるとふわりと花の香がした。入っていくそこは脱衣場だ。この広さがあれば下層民の一家が暮らせそうだ。アルヴィンに、ガイアスがそこに服を脱いでおけとあっさり指図した。アルヴィンは従うだけだ。この家の主はガイアスであってアルヴィンの我儘や感覚など聞かれていない。深層の姫君ではあるまいし肌を晒すことに抵抗はない。そも、アルヴィンは男性だ。女性ならともかく男が裸になるのを恥ずかしがっても気持ち悪いだけだ。あっさりと裸身になるとガイアスが硝子戸を示す。煙るそれにそこが浴場であると判る。先に入っていろと言われてアルヴィンは従った。
入ってから後悔した。洗い場が備えられているが湯殿が広い。その豪奢さにアルヴィンは不覚にも怯んだ。公衆浴場でこんな豪華さは期待できないし、そもそも人で混み合っているのが通常であるからたった一人でこの広さなど居心地が悪すぎた。とりあえずだな、と呟いて洗い場で髪や体を洗浄した。溶剤の容器をひっくり返したり裏返したりしてそれが体を洗うのか髪を洗うのかなんとか情報を読み取る。檸檬色の石鹸があってそれはなんとか体を洗うらしいと判ったからそれを使った。丁寧に泡立てて体をこする。もそもそとやっていると入ってきたガイアスが不思議そうだ。
「湯殿に入らないのか」
「普通は体とか洗ってから入るんだよ」
全裸で堂々としているガイアスもどうかと思うが風呂の入り方も違うらしい。アルヴィンはむやみに泡立てた泡を腕や腹になすりつけた。屈んだガイアスがアルヴィンの背中をぬるんと撫でた。石鹸でぬめるのだ。ぞわぁと震え上がるアルヴィンにガイアスは気づいていない。
「…――っさ、さわんな!」
「ぬるぬるするな」
「卑猥なこと言うんじゃねぇ」
ごすっと石鹸を投げつけてから泡を洗い流す。ガイアスは少し離れた位置からそれを見ていた。そのまま湯殿へ入ろうとするのを止める。
「なんだ?」
「髪、だよ。髪。くくれよ。湯に入るだろ」
「気にならんが」
「俺が気にするんだよ」
そのあたりをゴソゴソ探るとうまい具合に紐が出てきた。なんの紐でもいいとする。アルヴィンが手招くとガイアスが近づいてくる。座らせてからその豊かで長い髪をくくる。高さや具合を調節してなんとか湯に浸らぬようにする。フフッとした笑いが漏れた気がしたがあえて訊かなかった。
二人で湯殿へ浸かる。アルヴィンが息を吐きだすのをガイアスは楽しそうに眺めた。
「はぁー…生き返るなー…」
「どこのおやじのセリフだ」
年かさのガイアスに言われてアルヴィンがむっと口を尖らせた。それでも広い湯殿は気持ちがいいし、多少の暴挙は許せそうな弛みを見せた。アルヴィンはズルズルと湯に浸かりふやけていく。ガイアスは平素とまるで変わらない。しばらくそうしているうちに鈴が鳴った。アルヴィンが首を傾げたがガイアスはあっさり入れと許可を出す。
「失礼致します」
給仕がてきぱきと二人の中間、ガイアスよりに小卓を設置するとティーポットとカップを二人分おいた。ふわりと香る涼やかなそれは薬草だ。
「薄荷茶でございます。お湯かげんはいかがでしょうか」
問いながら給仕は紐を手繰り寄せて小袋を引き上げた。薬草が詰まっているらしくそれらしい香りがする。乳白色の濁りもその薬草から滲みだすもののようだ。
「かまわない。それは替えておけ」
「御意」
ぎゅうっと絞るように乳白の液体を滴らせてから給仕は新しい袋を出して湯の中へ沈める。ふわふわと漂いだす新しい乳白の液体はほんのり薬草の香りがした。
「ごゆっくりどうぞ」
給仕は古い袋を携えて引き下がる。アルヴィンはボケっとそれを見送った。そもそも入浴中に誰かに気遣われる経験などない。ガイアスは平然と給仕されたカップを取って茶を含んでいる。
「飲まんのか」
「えっあ、頂き、マス…」
裸で人前にいたのかと思えば顔が燃えるようだがすでにどうしようもない。薄荷茶は喉が涼しく熱い風呂にはちょうどよかった。ずず、と行儀悪く音を立てるのもガイアスは咎めない。
ガイアスはジロジロとアルヴィンを眺めた。なんだよと目線で問うと実にあっさりととんでもない返答が来た。
「お前の胸の先端が果実のようだ」
「あほかぁぁあぁ」
殴りつける手さえ捌かれていなされ、アルヴィンはあっさりとガイアスの懐へ落ち着いてしまう。カップはひょいと取り上げられて小卓の上に避難した。
「可愛らしい。実に、愛しい」
唇が寄せられた。重なる。しっとりとしたそれにアルヴィンが酔った。ついばむように何度も繰り返す。
「…ん、ふ…」
「艶めかしい」
自分の発した吐息の音さえ恥ずかしい。真っ赤になるアルヴィンをガイアスは抱き寄せた。
「可愛らしいな」
つつ、と背骨と腰骨のくぼみをなぞっていた指先が、つぷんと割れ目を割った。
「ふわッ…あ、あぁあ、あ」
がくがくとアルヴィンの体が震えた。ぞくぞくした悪寒とも快感とも言えない感触が背筋を駆け上がる。くぷぷと潜り込む指先が暴挙を働く。
「呑み込め。もっと太いものを呑むのだからな…慣れておけ」
「あッ、ああァァあ、あああ」
アルヴィンの指先が、ガイアスの肩にしがみつく。皮膚を引きずり裂くように強く、爪が立てられた。開きっぱなしのアルヴィンの口の端から垂れるものが何であるか、アルヴィンは気づかないしガイアスは問いもしなかった。熱く豊かな湯の中で二人の体が融け合った。
《了》