識ることの重圧
知らなかったこと
生きているのだと思った。振り下ろす木剣が空を切り、しんと静まり返る。防具を外すと体の線が弛む。この小隊に所属してそれなりの経緯があってからダミュロンの体は変化している。嗜みとして学んでいた剣戟は本格的になったし弓術も新たに覚えている。弓の方は案外早くダミュロンの体に馴染んだ。弓を使うことに不安を覚えていたが特に障りもなく上達している。弓と剣を同時に兼ねる変形の武器を使うためか、攻撃の際の姿勢への対応は柔軟だ。跳んで距離を詰めたり空けたりするのも覚えた。射程範囲も体で覚えつつある。弦を引き絞る刹那。剣の構えで変える手首の角度。どこへどう力を入れるのかを意識する。あとは体で覚えるしかない。勘は経験に裏打ちされたものなのだと何処かのおエライさんの学説を見た。傍らへ置かれている真剣を見る。刃のついたそれは実戦で使用するものだ。少し大振りなそれは弓を兼ねるからなのだがその分癖は強めだ。間合いや威力も違う。対称でもあるから左右の利き手を選ばないが、特化した強さはない。兼ねるぶん、威力の弱さは否めないところがある。
「精が出る」
玲瓏とした声に顔を上げる。滲んだ汗が玉のように散った。いつも見かけるとおりに威厳のあるアレクセイが其処に居た。アレクセイはダミュロンが所属する小隊をまとめあげる位置にいる。ダミュロンから見ればアレクセイは遠い存在であってもおかしくないのに、このお偉いさんは時折立場を気にせず顔を出す。肩書きを口にしようとするダミュロンにアレクセイは人差し指を立てて黙っていろという。ダミュロンもある程度人付き合いの経験がある。口に出せないような関係もあったから言わずに居たほうがいいことも知っている。頤を伝う汗を拭うとまっすぐに立っているアレクセイの紅い目を見据えた。アレクセイの髪は年齢による白さではなく煌めきを宿す白銀だ。真紅の双眸と白い髪と肌。これがいわゆる劣性遺伝の賜物なのかもしれない。ダミュロン自身は榛色の髪に碧色の双眸だ。生まれた地方ではありふれたから特に好まれたり厭われたりした経験はない。神子でも忌子でもない。だがアレクセイほど見事に色を抜いたのはあまり見かけたことがない。幼少期にはそれなりの苦労があったのかもしれないと思いを馳せた。
優美に閃く指先は防具に鎧われているはずなのに肉体の艶めかしさを持つ。アレクセイは流れる動きで剣を構えた。訓練用だが刃がついている。気を抜けば無事では済まない。ダミュロンは黙って防具を身につけると実戦武器をとった。赤い唇の端が釣り上がってアレクセイは笑んだ。こい。ダミュロンはジリジリと距離をとりながら弓にも剣にもなる武器を構えた。剣を兼ねるぶん弓としての攻撃力は削がれる。剣として使っても同じだ。間合いも詰めなければならない。だがその兼用の切替さえものに出来れば相手の懐で攻撃手段を変更できる。弓の間合いで闘いながら懐に飛び込んだ刹那に剣を揮える。
「いきます」
声をかけたのは自分への叱咤だ。アレクセイの冷徹な空気は普段の控えめな人の好さとうって変わる。小隊を束ねる位置につく以上、アレクセイの戦闘力は侮れないものがある。貴族の血統が騎士団として好まれるのをはねのける方針で今の位置にいるということが彼の実力の証明だ。慄えて怖じけそうになるのを振り払う。弓へ形成した武器を構えて弦を絞る。二、三撃放つのをアレクセイは流したり避けたりする。それでいい。常套手段として相手からの反撃を受けにくい弓の形状での攻撃だ。中長距離からの攻撃に反撃するものは少ない。守りの構えに入った其処へかさにかかる。弓撃を追いかけるように体を沈ませて地面を蹴る。位置の移動中に手首の返しで武器の形状を切り替える。近距離には大振りだが破壊力はある。守りから攻撃に反転する隙はつける。
定石通りの攻め手だが、定石になるからには安定した結果を得られるという証でもある。アレクセイの体が沈んだ。不味いと思っても流れのままにしなう腕や剣は止まらない。見開く碧色の前でアレクセイの剣がダミュロンの胴を薙いだ。攻撃に転じていたぶん、ダミュロンの胴部は無防備だ。反射的に距離を取ろうとするが正反対の方向性の動きに体がついて行かない。鎧う上からでも重い一撃が腹部を直撃した。跳ね飛ばされるのを何とか踏みとどまる。靴裏で地面との摩擦を起こしながらダミュロンが喘いだ。腹への一撃が重く一瞬、息が詰まった。じゃりじゃりと鳴る靴裏の砂の苦味は口の中へ広がるようだ。それでも弓へ形成しなおした一撃を放つのをアレクセイは立て直した体勢で受け止める。ぎゃん、ときらめく剣が震えて金属音がした。
「君の弓はなかなかだな」
応えられなかった。腹部の痙攣に気づく前に吐いた。急な動きとアレクセイの一薙が効いている。鎧う上からだというのにアレクセイの一撃には破壊力がある。
だが、まだまだだ。来ると判っていてなお防げない。弓撃の反動で沈む体を必死に脚で地面を蹴りつけて飛び退る。ぎゃりぃ、と耳障りな音をさせてアレクセイの初撃を流す。余波に傾ぐ体躯さえも操れないダミュロンを笑うようにアレクセイは続けざまに攻撃を放つ。危うい体勢で流しながらダミュロンは弓を構えた。近距離での弓撃。左右に避けられたら命取りだが、もしアレクセイが後ろへ飛び退ってくれたら。後ろへ下がるぶんには弓の威力は損なわれない。どこまでも追うだけだ。賭けに出るには分が悪い。だが定石通りにやって勝てる相手ではない。どうせ負けるかもしれないなら賭けに出る。瞬時に引き絞られた弦が唸る。光の早さで奔る一撃を、アレクセイは避けた。白い髪を一房と白い頬へ裂けた痕を残す。散らばる白銀の髪は白い筆のようにキラキラ舞って散っていく。
「なかなかつよい」
首筋へ剣撃が奔ると思った刹那、鳩尾を強く打たれて気を失った。くずおれるダミュロンの視界でアレクセイは微笑んだ。
茫洋と広がる世界だ。間延びした感覚と触覚。滲んだ汗が頬やこめかみを伝うのが冷たい。負担がないと気づくと同時に鎧を脱がされていることを知った。拘束を弛めた楽な体勢でダミュロンは石畳のうえに仰臥している。目が覚めたか? 傍らにいるのはアレクセイだ。…なんで、いるんですか。君が気を失ったからだが。救護にでも押し付ければいいのに。手当はしてもらった。君の技量を相手に私は悠々とはしていられなかったということだ。くすくすとアレクセイが笑った。君は才があるのに欲がない。よく? どこかで冷めているようにみえる。限界を極めてはいないか? 限界って、出来なきゃそれが限界じゃないんですか。君は最初から線引をしているようだ。線引? 君はこの先は出来ないと自分を抑えているようだ。拘束はダミュロンにはありふれた。貴族としての振る舞いや嗜みは逸脱を生むと同時にどこまで赦されるのかの線引も含んだ。アレクセイの紅玉の眼差しがダミュロンを射抜く。君の線引は、どちらかと言うとこの先はしてはならないという抑制に似ているように思うが。
「オレがそんな繊細に見えますか」
「見える。軽薄なようでいて君は深いな」
アレクセイは口元だけで笑った。そういう顔をするとすごく妖艶だ。平素が色気とは無縁であるから余計に目立つ。きっちりと首や襟まで布地で覆われているはずなのにアレクセイの唇や目元が醸す色気は厄介だ。白銀の髪はキラキラと光を映す。それは夜も昼も変わらないようで、ダミュロンはようやくあたりが夜に沈んでいるのだと気づいた。小隊の点呼がある。時間を過ぎているようだが? なんで起こしてくれないんですか。かわいかった。
過剰な自己修練の結果であればアレクセイに責任を求められないかと思う。ため息をついて怒られることへの恐れとして肩をすくめるのを、アレクセイは微笑むように見ている。君は上司の喝で怯むとは思えないな。今はちょっと厄介な上司なんです。どういう意味で厄介なのか知りたいくらいだ。アレクセイは明らかに判って言っている。あんたも厄介な上官だよ。それは光栄だ。アレクセイはあっさりいなす。
そういえばアレクセイの色恋沙汰の噂は聞かない。立場や位置からすれば、関係を訴えて成り上がろうとする女も少なくないだろう。それともアレクセイの意向について賭けに出る輩はいないか。アレクセイと上層部の関係は少なからず友好的とはいえないものばかりだ。将来の安定を求めるならアレクセイに同調するのは勇気がいるだろう。ざわりとした。アレクセイにもきっと大切な人がいるのだと思うとなんだか落ち着かない。自分を見ろと主張するほどではないのに見られていないかもしれないのは嫌だと思っている。気絶するだけの戦闘訓練であったことを言い訳にしてダミュロンは仰臥したままだ。アレクセイも特に咎めない。夜空を見上げるアレクセイの喉や頤がはりつめる。はりつめた峰のように高低差がありながら無粋な段もない。滑らかな皮膚が其処にあるだけだ。アレクセイも襟を緩めていることにダミュロンは今頃気づいた。なんだか細く見えると思ったのは防具をつけていないからだ。政へ関わるものとしてアレクセイの立場は非常に危険なものだし、いつどこでどう攻撃されるかわからない。それに騎士団の制服とも言える防具を外していることにもっと早く気づくべきだった。
小隊の点呼など問題にならないほど時間が経っている可能性が高い。おそるおそるアレクセイの方を見るが呑気に空など眺めている。肌が撫でる感触の柔らかさに跳ね起きた。アレクセイの外套を敷いている。仰々しくないと思ったら外套を貸し与えているからだ。
「す、いませ…! 言ってください!」
ばたばたと埃や汚れを払おうとするのをアレクセイは不思議そうに見た。地面は熱を吸うから直に寝ると体が冷えるぞ。外套を寝台代わりにしたなんてしれたらオレは懲罰ものです。なぜ。訊くまでもないことです。洗濯すればいいし気を失っている時に体が冷えたら困るだろう。
「階級が違うんです」
言った刹那にアレクセイの赤い瞳が収束したかと思うと見開かれた。不意打ちの衝撃であったのか、打ち据えられたようにアレクセイは動かない。
「私はそれは嫌いだ」
はぁ? 首を傾げるダミュロンにアレクセイの表情は固いままだ。君も騎士団は貴族のみで構成するべきだと思うかね。さっとダミュロンの顔から血の気が引いた。失言だ。アレクセイの方針は貴族が慣習として構成していた騎士団を、平民からも募ろうというものだ。身分が違うなどととられる言動をアレクセイが厭うのも当然だ。
「あの、えっと、そう、じゃなくて…オレは」
あたふたとして言葉が出てこない。言葉の足りなさに余計に慌てふためいた。階級って、貴族とかじゃなくて。オレは小隊の副官だけどあなたは団体の長だから。つまり、そう、言う。
難しい顔をしていたアレクセイがふっと笑った。そうだろうと思っていた。え。ダミュロンだけがついていけない。アレクセイはもうなんのわだかまりさえなく小首を傾げて微笑んだ。君は自分の出自を誇らしげに語らないから。語るほど素晴らしい出自でもないと自認しているから自然とそうしていた。会話の手順として相手の身分を訊いても自らひけらかしはしない。なんで知ってるんですか。珍しいから。答えはあっさりしたもので何も言えない。騎士団長こそ言いませんよね。さぁどうだかな。アレクセイが受け流す。アレクセイに倣って夜天を見上げる。部屋の明かりが届かない黒闇の天幕には無数の星の穴があるのだろう。深く突き抜けるほど広いはずのそれは、居住のための明かりで薄っぺらく照らされる。その薄っぺらいくらいが自分にはちょうどいいのだと思う。野営をした際に距離感のなくなる深い空に抱くのは感動だけではない。身の程が幸せ。ダミュロンが身を投じる流れは急流かもしれないが大局の視点では案外緩いかもしれない。世界ってそんなもの。それでいいと判ってる。今の生活は楽しいし仲間とも上手くいってる。尊敬できる上官がいて馬鹿馬鹿しい悩みを相談できる同僚もいる。故郷に居た頃のお嬢さんを相手に気取る上っ面はいつの間にか摩滅した。
うっとりと見上げるダミュロンの見えない位置にアレクセイが退いた。君は君のままでいてくれるか。なんですか、それ。わからないならいいんだ。アレクセイの笑みに不意に疲労が漂った。
「オレは騎士団長の方向は間違ってないと思いますけど」
同調して協力する団員もいる。大勢とはいかずとも波紋を呼ぶだけの影響もあるし全く無視されたり効果がなかったりするわけではない。
「あぁ、そう、だな…」
夜天を見上げるアレクセイは発光しているように仄白かった。紅い目はひどく強く切なく瞬き揺らめいた。なにか不安でもあるのかもしれない。だがアレクセイとダミュロンでは立場が違う。出来ることと出来ないことが厳然と横たわっている。ダミュロンはアレクセイへの協力は惜しまないつもりだし、目指すものが叶えば良いと思う。不意にダミュロンを不安が襲う。仄白いアレクセイはそのまま燐光を放って霧散してしまいそうに頼りなく見えて手を伸ばした。布地越しでも感じられるはずの体温を求めて強く掴む。碧色の双眸が見上げるのを紅玉が受ける。二人の唇が戦慄いた。
「いなくなったり、しませんよね?」
アレクセイは妖艶に微笑った。
「痛い」
背後に迫るものが闇であればよかったのだ。
《了》