世界の軋む、音がした
名前と体と
燃える赤い髪が生まれたままになびくのをヴァンは茫洋と眺めた。その髪と瞳の色で表される血統に良きにつけ悪しきにつけ充ち満ちた子供は無邪気だ。何度いなされても拗ねずに向かってくるのは見込みがあるのだと思う。いつか来るときのための布石として今は事を荒立てることは避けたい。嫌われるよりは好かれる方が良かろうと思って子供のワガママにも付き合う。ルークという名前と赤い髪と碧の瞳の子供はしきりにヴァンのそばをうろついては子犬のように寄ってくる。剣術の師匠という枠さえ逸脱する危険性に子ども自身が気づいていない。髪や体を好きにいじらせて飽きるのを待つのが常だ。子供の常としてルークも飽き性だ。気が済めば案外あっさりと離れていく。拒めば意固地になって執拗になるだけだ。
不意に少年期と青年期の間のような声がする。獲得したばかりの低音に持ち主自身が馴染んでいない。ルークがむっと表情をしかめる。目線でなんだと問うたヴァンにルークはぞんざいな説明をした。師匠知らなかったっけ。ガイだよ。ルークは自らの位置は動かさずに乱暴に呼びつける。
「師匠、ガイだよ。オレにいつもくっついてくる使用人!」
「いつもくっついてくるってお前なぁ。それがオレの仕事でもあるんだぞ」
顔を見せたその姿にヴァンの体が総毛立つ。
髪の色や瞳の色。その穏やかな顔立ちと人を邪険にしない性質。紹介されたままのガイだという名前を名乗った彼の瞳は昏くヴァンを見据えた。握手を求めて差し出す手に不自然さはない。ガイです。ルーク坊っちゃんがいつもお世話様。坊っちゃんってなんだよ! そのままだろ、お前は一応貴族子息なんだぞ? キャンキャン喚くルークをいなしながらガイの放つ言葉が四肢へ絡まった。話には聞かせてもらってます、ヴァン師匠。後でお時間よろしいですか? なんだろう、怖いな。愛想としてした返事は半ば本心だった。ガイ、ずるい! オレだってヴァン師匠と。ああー、ルーク坊っちゃんほらほら勉強のお時間ですよ。そういえば家庭教師の先生からの言いつけで探してたところだったんだよなぁ。うぐっと妙な声を上げながらもルークがねばる。ぐずぐず嫌がるルークの頭にポンと手を乗せた。
「勉強もしなければな」
震えてしまうのを微笑でごまかす。ルークはしばらく照れたように頬を染めていたが元気よく駆け出していく。師匠、次はいつ? さぁ、いつかな。ルークの補習が終わってからだな。悪態をついて駆け戻っていく背中を熱心に眺めるふりを続ける。肩口や首筋で刺さるほど強い視線を感じた。振り向くのを躊躇する。
「ヴァンデスデルカ」
高いとも低いとも言えない声が昔日を思い出させる。ゆっくりと振り向くとガイが言葉もなくヴァンを見据えていた。着替えさせてもらっても構わないかな。ルークとの剣術稽古の格好のままだった。ガイはひらりとその手のひらを返して肩をすくめる。どうぞ。ついていって構わないですか? 中途半端な敬語はそのままヴァンへの敵意だ。男の着替えに興味があるかね。あなたの体には興味がある。臆面もなく言われてヴァンの方でも退くに退けない。好きにすればいいと思ってヴァンは与えられている更衣場所へ向かった。ガイの足音がヒタヒタとついてくる。刺さると思うほど強い敵意を感じながら振り向くとガイは知らぬ顔で外の景色など眺めている。ことごとく咬み合わない日だ。ルークが居てくれれば多少はごまかせると思うのにガイの手際で追っ払われている。しばらくは戻らないだろう。
間借りであるから贅沢は言えないが唯一の出入り口にガイが油断なく陣取った。逃げるのは難しそうだなと諦めた。途端に着替える仕草がぞんざいになる。見切りは明瞭であるから切り捨てたものに拘泥はしない。舐めるように見据えてくる視線に体をさらす。ヴァンも隠すような素振りは一切しない。同性であればなお恥じらいも薄い。体、変わったな。投げつけられる言葉は粗暴だ。あのときはオレもまだチビだったからなぁ。肩を掴まれて引っ張られる。反転するように壁面へ背中をたたきつけられた。肺が揺れて息が詰まる。そのまま唇が奪われた。チビのオレよりもっと深い男がいたかい。投げつけられる言葉の端々に敵意と悪意を感じる。髭なんて珍しいな、間違えたかと思ったよ。所属団体の中ではヴァンの年齢は若い部類に入ってしまうために身なりで威嚇する必要に迫られた。髭があれば年齢を即断されることも少なかろうと思って手入れを始めている。
「……ガイ、ラル……」
「忘れたか? それでもいいけどな」
頤を押さえる手の強さにヴァンは怯んだ。ヴァンの中でガイはまだ幼く小さな存在でしかなかった。自分が変わったのと同じだけの年月を経ていると判っていても記憶の中の純真な笑顔を求めてしまう。
「お前の体を知らずに別れたことを後悔してる」
首筋でうそぶかれてそのまま食まれた。じゃれて爪を立てるような甘咬みにヴァンの体が慄える。ガイの手がヴァンの鎖骨をたどって胸部を撫で、腹部を降りていく。お前の体にオレを刻んでおけなかったことも後悔している。紅く光る舌先がねっとりと胸の先端を舐る。吸い上げられる度にちゅくちゅくと濡れた音がする。腰へジリジリと結びつきそうな刺激に身震いした。ガイは見せつけるように先端の膨らみを舌先でもてあそぶ。オレ以外の男も知ってるんだろう。あんなチビだったオレは候補にも上がってないはずだ。誰に抱かれた? 獣のように荒い呼気に喉を鳴らす。体の奥底から熱がくすぶりだしていた。ガイの指がちぎらんばかりに胸の先端をつねった。ああ、ぁ、あと声が漏れる。腰が抜けそうだった。剣戟で鍛え、あらゆる戦闘術を覚えた体があっけなく降伏しようとしていた。怒らないから言ってみろ。誰に抱かれた。公爵様は優しかったか?
かぷ、とガイの白い歯が胸の先端を咥える。ヴァンの喉がゴクリと鳴った。逃げ道はすでにない。背中に感じるのは冷たい壁だ。一連の行為ですでに壁面さえ泥のように温んだ錯覚を起こしていた。押しのけようとする手がすがりつきそうでヴァンは壁に爪を立てることだけを考えた。鶸茶の結い上げた髪を乱暴に引っ張られる。前は下ろしてたように思うんだけどオレの記憶違いか? 返事をしない。強靭な指先がヴァンの脇腹をむしるように掴んだ。筋を掴まれる痛みと衝撃に体が跳ねた。悲鳴が上がらなかったのが奇跡だ。まっすぐ睨みつける目線から目を逸し顔を背ける。その首筋へガイは噛み付いてくる。自分から喉笛差し出すなよ。下腹部へ滑りこんでいた手が抜き身を握った。
「ふわ…ッ」
驚きと突き抜ける快感に腰が砕けた。壁にすがりながらズルズルへたり込むのを追ってガイが屈みこんでくる。意外とうぶだな。操立てでもしてるのか? それとも、慣れてるから敏感なのか。指先はわざとらしく卑猥に動きまわる。水音を立てるのも意識している。判っていてヴァンにはどうしたら良いかが判らなかった。しょうがねぇなぁ。ガイはあっさりとヴァンの脚をくつろげる。無造作に開かれた脚の間へ顔を埋める。
「…ぇ、…ッ…」
驚いて声も出ないヴァンの抜き身をガイは食べるように咥え込む。硬い歯の感触と微温く蠢く舌がヴァンの体を追い上げていく。
「待ッ……、あぁ、あ……あ、ぁ――…」
がくがくと震える動きにガイは目を細め、そのまま音を立てて抜き身をすすり上げた。
「それで?」
ガイの言葉も目線も冷たい。簡易的なベンチに腰を下ろして足を組む。ヴァンは明確に見下げられていた。床に伏したヴァンの体がぴくぴくと断続的な震えを起こしている。開きっぱなしの口元からは紅い舌が覗いて艶めいた。唾液が糸を引いて垂れている。はー…、と呼吸の音さえ間遠だ。起きたほうがいいと思うぜ。ガイの言葉にヴァンは振り絞るようにして体を起こした。どろりと脚の間を垂れる感触に孔雀色の双眸が集束する。眦へ浮かんだ涙を払うようにヴァンが体勢を変える。
「言ってみろって。誰の女になったんだ?」
音をさせて口の中のものを嚥下する。苦いものも粘つくものも全て呑んだ。腹の奥へ落ちていく感覚は火が灯るようで身震いしそうになる。
「…ルークに抱かれたか」
ヴァンの口元が歪んだ。色香を匂わせたままでヴァンはいっそ不遜に言い切った。不義でも申し立てるかね。振り切るように立ち上がる。足元が揺らいだ。躊躇もなくヴァンはオラクルの服を着ていく。紋様の特徴的な垂れは足元にまで及ぶ。意識したわけではないがありがたかった。顔を拭い、髪を結い直す。そのときにはもう謡将の肩書にふさわしいだけのなりへ成っている。
ガイは苦々しげにそれを眺めている。男の体を愛でる趣味があるとはね。言い放つ言葉にガイのほうで傷を負う。言葉も無い。交わす言葉に意味はなかった。部屋を後にするヴァンの背中へガイの朗らかな声が降る。
「次にいらっしゃる時にはもっと、愉しいことを」
道具も揃えておきますよ。ひらりひらりと手まで振られた。ヴァンは乾ききった喉を殺して笑みだけ向けると歩を進めた。
名前を紡ぐことも許されない末路なのだと
「オレの名前、ガイ・セシルなんで」
「ヴァン・グランツだ」
刹那に絡む蔦をちぎるようにしてヴァンが襟や裾を調節する。ガイはすでに身なりを直し終え、艶事の片鱗もない。ヴァンの方から背を向ける。それが今の二人なのだと判っていた。
《了》