君だけが。
君だけを。
すべてを持っていた
すべてを失った
反転世界
振るう剣の重みにも慣れてきた。嗜みとしての剣術が本物の剣戟になる頃にアッシュは茫洋とヴァンを思った。時間が空けば公爵家へ出向いて子息へ剣術の稽古をつける。そこはかつてアッシュが居た場所だった。両親が居て。手入れの良い寝台と質の高い食事と出来のいい使用人と。憧れを抱く剣の師がいて。一瞬で世界は反転する。居場所も理由さえも奪われてそれでもアッシュは元の場所へ積極的に帰らない。そこにはもう成り代わった偽者が居て、アッシュを知っているヴァンでさえその齟齬を正さない。だからアッシュは戻ろうとする理由も勢いもきっかけもなくした。こらえて黙っているのに世界は何事も無く時を刻んでは進んでいく。その鬱憤をはらすようにアッシュは人に剣を向ける。偽者にすり替わった息子に気づかない両親を恨まずにはいれなかった。ヴァンに何度も言った。どうしてオレはアッシュなのか。のうのうと暮らすルークを嫌悪と憎悪の入り混じった目線で眺める。癇癪を起こして暴れるアッシュにヴァンは薄く笑むといつか必要になると嗤った。
しぶく血を避けようともしない。頭から浴びて緋色の髪はますますどす黒く染まっていく。
「さすがだねェ鮮血のアッシュ」
ぴらぴらと返り血を払いながら小柄な体躯が嘲笑する。鮮やかな翠髪は彼の顔を覆うように流れ、その上で金属の仮面をはめている。うなじや襟足が見えるのに薄荷色の髪は額だけではなく目元まで隠そうとする。癇に障る高い声。ともすれば性別さえ曖昧な高さは話す調子にさえ露骨だ。人の気に障る言葉選びと口調。不興を買うと判っていて彼は直さない。直すどころかさらにそちらへ傾倒する。
「…うるせぇ、シンク」
鮮血のアッシュはいつしか誰からともなくアッシュの呼び名として定着した。ヴァンに近い部下の中でさらに戦闘力や知略に秀でたものを集めて六神将などと別称がついた。目の前を歩くシンクもその一翼であり烈風の二つ名を持つ。
ずいぶんすんなりすんだね。報告は僕からしておくよ。当然のように言われてアッシュは顔をしかめると激しくそれに異を唱えた。てめぇは引っ込んでろ。仮面越しであるのにシンクの目線は刺さるほど痛い。引っ込めってどういう意味さ。オレがヴァンのところへ行く。露わにしているシンクの口元が嘲るように裂けた。笑みというには禍々しい。
「その血臭をまとっていくのかい。ヴァンが不愉快になるだろ」
「お前だって同じなんだよクソ野郎」
アッシュもシンクもヴァンの元へ来る理由を互いに明かしていない。それだけに二人は顔を突き合わせれば猫の喧嘩のように発火する。双方で執着する対象が同じであるのも拍車をかけた。ヴァンへの心証を良くしたい思惑が重なっていた。人の口に戸は立てられないからアッシュもシンクも互いに関する情報をわずかに持つ。しかもそれは共通している。アッシュもシンクもヴァンに拾われて現在に至っている。愛憎が絡みあった複雑な感情は独占に過敏反応する。
「君と違って僕は返り血をあまり浴びてないから。君さァぞんざいすぎるんだよ」
「変な温情出してしくじるなよ」
「喧嘩売ってんなら買うよ」
シンクが歩みを止める。街はすでに遠い。街道から少し外れるだけで魔物さえ出現する。アッシュもシンクもそこらの魔物に怯える戦闘力ではない。
「おもしれぇ」
アッシュはじゃらりと剣を抜いた。シンクも武器を構える。
「言っておくけど手加減はしないよ。だいたいお前、ヴァンに馴れ馴れしいんだよ」
「妬いてんのかよ。お前とは年季が違うんだよ」
同時に地面を蹴った。
シンクのほうが敏捷性に優れる。アッシュは普段の踏み込みより早く剣を振るった。互いの獲物がたたきつけられて耳障りな金属音と火花を散らす。アッシュは剣戟から比重を魔術へずらす。シンクは一撃で相手を圧倒するラルゴと違って短い間に何度も攻撃するタイプだ。繰り返せるぶん一撃の重みは軽い。ギリギリで捌きながらアッシュは口の中で転がしていた詠唱を解き放つ。ふわ、とアッシュの長い髪が浮く。シンクは舌打ちして後方へ飛び退る。地面が裂ける。シンクは同時に上方へ跳ね上がる。上からの敵に対してアッシュが構えを取った。
「甘いんだよ。この臆病者がァ!」
飛散する土塊は弾丸のようにシンクを襲う。シンクは避けもせずに獲物をふるう。二人が獲物を噛ませた瞬間にアッシュの足元がズン、と沈む。
「術に頼ってんじゃないよ! 半端者がさァ」
中空にあってもシンクは器用に立ち回り二撃、三撃と攻撃を繰り出す。アッシュがその眉をひそめた。シンクの速さに剣戟が追いつかない。術の威力は大きいが詠唱時間中の無防備は致命的過ぎる。不意打ちが通じるのは一度限りだ。シンクは次にアッシュが術の詠唱に入れば狙う。待ってくれるほど温厚でも優しくもない。
「烈風を舐めるな!」
剣先がずれる。爆発的なエネルギーで辺りが発光し、白む。弾き飛ばれたアッシュは体勢を転換させるとそのまま剣を構えて突っ込んだ。切り裂くより突き抜ける狙いだった。アッシュの二つ名が鮮血であるのはアッシュが殺戮を躊躇しないからだ。そしてそれがことごとく成功していることの現れでもある。
「こっちの台詞だクソ野郎!」
火花を散らす剣先は空で止まった。アッシュもシンクも言葉がない。アッシュの剣とシンクの両手をいなしたのはヴァンだった。
ギィ、と耳障りに啼いてからアッシュの剣がパッキリ折れた。シンクの獲物も刃がこぼれている。呆然とする二人がヴァンに場所を譲るように数歩下がった。
「仲を良くとは言わないが私闘はやめておくんだな」
鶸茶の髪を結い上げ、白地に紋様が刻まれた垂れの特徴的な服。鮮やかな孔雀石の双眸はどこまでも穏やかに二人を抑える。シンクはその口元を歪めて歯を軋ませたが退いた。アッシュも腕から力を抜いた。半ばから折れている剣はアッシュの置きどころのなさのように情けない。
「ヴァン、どうしてここにいるんだい」
子供っぽい口調と高い声。ヴァンの目が上を向く。翼を持った魔物が風を起こしつつ着陸した。
「…あいつか」
六神将には魔物と情報を共有できる能力の少女がいる。魔物はそこら中にあふれているから彼女のネットワークはある意味で世界を網羅する。
「シンクは戻りなさい。行き先は覚えさせているから背中へ乗ればいい。アッシュは私と来るんだ」
「ちょっと待ってよ。なんでアッシュはヴァンと行くのさ」
明らかに不満気なシンクにヴァンは事も無げに折れた剣を示す。丸腰で次の任務へは就けてやれない。アッシュの体は羞恥と未熟の苛立ちで燃えた。剣を折られるなど恥でしかない。
「シンク。一度戻れ。獲物がそれでは雑魚にも負けるぞ」
損傷の度合いを比較した判断でアッシュに付き添うのだというヴァンにシンクは不満を露わにしたが従う。わかったよ。でも僕と同じ街に来たら連絡がほしいな。わかった。ヴァンはあっさりと快諾するとシンクは背を向けた。少女の言いつけは絶対なのか魔物もシンクを拒まずに背へ乗せると飛び去った。
ヴァンは剥き出しだった剣を収めた。剣戟の指導を行いながらヴァンは術の習得度合いも高い。俯いて動けないアッシュにヴァンはその鮮やかに映える双眸を据えた。理由を聞こうか。言い訳があるか。ヴァンの詰問が辛い。自分の足元さえ見えていなかった。アッシュは常に綱渡りで、常にその奈落へ落ちはしまいかと臆した。まだ子供で守られていたアッシュは名前も暮らしもまるで違う環境に慣れなかった。癇癪で起こした刃傷沙汰にアッシュは愕然とした。吹き上がる血を見てもなんともなかった。秘蔵っ子のようにアッシュの生活は隔離された。戦闘術を教えに来るヴァンはアッシュの全てだった。任務でヴァンが顔を出さずにいればアッシュは暴れ、泣き、喚き、破壊した。発露する方法をそれしか知らなかった。長じてからはアッシュも任務へ呼ばれるようになりその回数は劇的に減った。ヴァンのそばにいるためならなんでもした。親しくしたものを奪われるなど一度で十分だった。ヴァンだけがアッシュの縁だった。
ヴァンは辛抱強い性質で子供が癇癪を起こしても淡々と理を説いた。その上で必要であると判じればどこまでも奔放だ。乞われるままに寝台へ付き添う。剣戟の稽古が済んでからヴァンをぐずぐずと引き留めては昼寝に付き合わせるのもしばしばだった。だがそれはアッシュがまだ鳥籠の中へ居た頃。アッシュの名前を得てからはヴァンを独占できなくなった。ヴァンは公爵家の子息のために時間を割き、アッシュは一人で残された。戻ってきたヴァンを罵倒して暴れる。けれど終いには戻ってきてくれたことに安堵する。泣きながら眠る。アッシュは髪を伸ばした。それは過去との決別だった。あの公爵家の自分の居場所はもうない。公爵家の子息という居場所を奪われたアッシュは六神将というヴァンのそばを目指すことを極めた。それでもこうして時折仲間と諍う。屈折や歪みを抱えた強者ばかりの団体で軋轢の生まれないほうがおかしかった。シンクとアッシュは特に諍う。年の頃が似ているから望むことも似ていて、それにヴァンが応えた応えないでひどくもめた。
「ヴァン、どうして、ここにいるんだ…」
応えさえもなかった。アッシュは眼の奥がじわりとしびれる痛みと同時に歯を食いしばって耐えた。泣き出すわけにはいかなかった。涙でことが解決するのは女子供だけだ。オレはまだヴァンにふさわしい男になれていないのか。
ヴァンは気負うでも気遣うでもなく淡々と言葉を散らす。戻りが遅かったのとどうも戦闘が発生している知らせがあった。魔物はどこにでもいるからな。彼らからは逃げられまい。アッシュとシンクの戦闘に魔物が巻き込まれなかったのは二人の闘気が並外れたからだ。魔物たちは本能でしか行動しないが、その本能はかなり優秀だ。
「一番近い街はどこだろう。お前の武器も調達しなければならないからあまり鄙では困るな。本部に戻ったら報告書と申請を済ませるんだ。その時に誂えなおそう。当座しのぎとしての武器は」
お前がオレの剣を折るからだろうが。難癖つけるアッシュにヴァンは肩をすくめた。あれはお前の攻撃の反動だ。惰弱な一撃であったなら折れはしまい。それほど本気だったということか。ヴァンの口元が弛んだ。吹き出すように笑うのをアッシュは地面を蹴りつけてやり過ごす。
「…なんで、いるんだ」
「アリエッタの」
「そうじゃねぇだろうが!」
アッシュは噛み付くようにヴァンの唇を吸った。体格はまだヴァンのほうが勝る。戦闘力や手回しも巧みだ。ヴァンはシンクを納得の行く手順で追い払ってしまう。同時のそれはアッシュにも適応されるのだと思うと腸が煮えた。ヴァンにとってアッシュとはそれだけのもの。
シンクはお前が好きだと言ってたぜ。ヴァンの反応は薄い。ふむ、と唸る吐息はただの相槌でまともに考えているとは思えない。ヴァンは隠しから取り出した地図を眺めるばかりでアッシュの昏さに気づかない。気づいているのかも知れなかったが言及もしない。アッシュは体当りするつもりでヴァンに抱きついた。地図が中空へ放り出されてからバサリと地面に落ちる。アッシュ? ヴァンは不思議そうだ。アッシュも抱きついたままでごくりと喉を鳴らした。丈も目方もヴァンのほうがあり、アッシュはかすめもしない。戦闘術でも戦略でもかなわない。巡らせる知略の深さには陥ってから気づく有り様だ。
「…懐かしいことをするな、アッシュ」
ことさらに言葉にするのはアッシュに決別を促すように斬りつける。アッシュは腕と指に力を込めて不服をあらわした。ふたりとも同じような紋様を描いた垂れの特徴的な服を着ている。所属団体が同じだからだ。同じヴァンの部下であってもシンクなどは動きやすさを重視した服をまとう。何が共通なのかアッシュには判らないがそれでも同じ団体で同じような待遇であるからなにかしらの符号があるのだろう。
「懐かしんでろ。…おれ、は」
アッシュの碧色の双眸が潤んで瞬く。泣き落としなどもっとも恥ずべき悪手だった。それでもアッシュはそれがヴァンに何かしらの波紋を呼ぶならと思っている。ヴァンは湖面のように静謐で動揺しない。幾星霜の積み重ねのように空洞に満ちる静謐な湖面だ。何年かに一度の滴りに震えてはすぐさま何事も無く静まる。それを揺らがすのは大変な難行だった。アッシュとヴァンの付き合いは長く、それでもアッシュはヴァンのすべてを知らない。ヴァンはアッシュを簡単に揺らがせるがアッシュからの働きかけは驚くほど効果をなさない。
「ヴァン、オレは居ていいんだよな? オレのことをもう要らないとは言わないよな?」
すがるように頼りない眼差しになってしまう。情けないと判っていてもすがらずにはいられない。アッシュの存在理由を肯定してくれるのはヴァンだけだった。
あのレプリカがいるからオレはいらないと、言わないよな?
ふぅと嗤ったヴァンの手がアッシュの髪を梳く。額を露わに前髪を上げた。それはファブレの名を冠する自分との決別だ。アッシュがアッシュではなかった頃の知り合いなどいらない。公爵の子息が入れ替わっても気づかない連中なんか要らない。ただ、アッシュにアッシュという名前を与え戦闘術を仕込んだヴァンだけが。ヴァンの中で生きているならオレはそこだけで生きる。他人なんか要らない。
「アッシュ、応えを求めるのに早計は禁物だ」
時間がかかるぞ。あの子がお前を受け入れるのにも、お前があの子を受け入れるのにも。お前たちは生きている。お前たちが、ルーク、だ。
「オレはもうルークじゃねぇ!」
癇癪のような激高にもヴァンはひるまない。時が来れば判る。時なんかこない。アッシュは頑なに否定する。オレはもうルークじゃない。だから、今のルーク、を受け入れるやつなんか、オレは! その唇はふわりと指に遮られた。ヴァンの指は驚くほど綺麗だ。剣戟の師匠であるのに不思議と強張りや肉刺もない。だからといって弱いかというとそうでもない。打ちかかる少年をヴァンはあっさりといなす。子供の一撃であればなお片手で捌くほどの腕前だ。アッシュはヴァンに触れるたびにその体に魅了される。完成された筋肉。過度の鬱陶しさも見苦しさもなくそれでいて破壊力を損なわない。剣戟だけではなく術にも長け、詠唱時間さえも活用する。アッシュはヴァンと対した時に勝つ自信はなかった。
「ヴァン、オレはもう、ルークじゃない。ルークの名前も、生活も寝床も、使用人も、全部あいつに明渡しちまったんだよ」
だからオレはお前だけは離さない。お前までルークに奪われたら、オレはオレでいる自信がない。
「ヴァン、お前の、名前」
刹那にヴァンの表情が冷える。アッシュは判っていて言葉を紡ぐ。ガイが、こぼした。お前はもう少し長い名前だって。違うかなってガイは言ってたけど。ヴァンは団体でそれなりの地位を築いている。子供の処遇など簡単なはずだった。口の堅い部下もいるだろう。
「どうしてオレに、鮮血の名を寄越したんだ?」
俯いたアッシュは顔を上げられない。お前でなくともよかったと言われたらアッシュの根底が砕かれる。応えを聞きたくない問いだった。
「すまん、ヴァン。なんでもない。取り消せ」
ヴァンの手がアッシュの顔を上げさせる。頤を抑えられた。そのまま唇が重なる。舌を貪られてからアッシュは心情をこぼした。
「…――…なぁ、抱かせろ。ヴァン」
街と街の繋ぎ目は明確で、外れれば限界なく森林が広がった。ちょっとした茂みへ体を伏せれば旅人さえもやり過ごせる。魔物さえ何とか出来る力量があれば街中で抱擁するより安全だった。
お前の剣はどうする。次の街で誂える。それだけの金はあるんだ。アッシュは年齢と不相応に給金を稼いでいる。ただ難しい仕事の給金は高く、それを選んで請け負うからだ。その雇い主には時折ヴァン・グランツの名があった。
「お前からの仕事はタダで受けてるぜ」
だから見返りをよこせ。詰め寄るアッシュにヴァンが苦笑する。とんだ買い物だ。うるせぇよクソ。アッシュは耳をヴァンの胸に押し当てた。規則正しい鼓動が聞こえる。腕を回して抱きしめるのをヴァンは拒まない。お前のこれは、変わらないんだな。どれ? なんでもねぇよ。アッシュは泣きたくなるのを不意に抑えた。泣くのが許されるのは女子供だけ。男が泣いてもなんにもならない。
「…泣きそうな気がするのだがな。アッシュ。泣きたいなら泣きなさい」
「誰が泣くんだよ馬鹿野郎」
アッシュは顔をヴァンの服へ押し付ける。紋様の刻みが頬へ写っても構わない。
「ヴァンデスデルカ」
ヴァンの体が怜悧に凍る。アッシュはひたすらに頬を寄せて涙をこらえる。そう呼んだのは使用人であるガイだった。ヴァンを見た瞬間に凍りついた彼がこぼした名前だった。意味は知らない。影響も知らない。ガイがその名を紡いだ意味も理由も知らない。アッシュはただそこに居合わせたから聞いただけだ。
「お前はオレと、共に居てくれるよな?」
ヴァンは口元だけを弛めて笑んだ。唇が重なる。ひどく冷たいくちづけだった。冷たく凍えるその体を、アッシュは抱きたかった。強張りを解いてやりたかった。行き場を失った嗅覚がヴァンにだけ反応するのをアッシュは突き詰めて考えない。明確になってから牙を剥く事実がある。正確であることは正解ではない。知らぬままであったほうが円滑に済むことなどありふれる。それでも。
「ヴァン・グランツ」
オレはお前を離さない。お前を抉ると判っていてもオレはお前を逃さないために爪を立てる。
アッシュの朱唇は食むようにヴァンの唇を貪った。
《了》