知らないのは貴方だけ
赦せない攻防
剣戟の稽古に火照った体で浴場へ向かう。時間帯や駐留人数を考えて水浴びで済ませようと思っていたが聞いてみれば大浴場は使用できると言われてそちらへ向かった。初めのうちは煮られるのかと思ったが入ってみれば案外具合がいい。詰め所へ当番制で詰める一般兵からの評判もいいというから浸透しつつある。扉を開けると浴場独特の重みのある空気がまとわりつく。時間が遅いから無人かと思ったがどうやら人がいる。汚れ物を入れる場所は施錠されているから中身は見えない。大浴場は広くて蛇口やシャワーが何口もあり、それらを共有する。使用する石鹸や洗浄剤は個人で持つ。
アッシュは傲岸に中仕切りを開けた。アッシュは戦闘要員であり位置もそれなりに確立している。年齢はまだ年若く見くびられることが多く、見下す目線で応戦し続けたせいかそれが平素の状態になりつつある。直す気はない。偉ぶれるだけの実績を上げていると自負している。もうもうとした湯気の中に動く人影がいる。声くらいはかけるべきなのか、と逡巡した直後に人がこちらを向いた。
「アッシュか」
「ヴァ…!」
予想以上の衝撃に手が弛む。溶剤や石鹸が派手な音を立てて散らばった。静まり返っている浴場に軽薄な音がこだます。ヴァンは首を傾げるようにして振り向いたままの姿勢でアッシュを見ている。慌てて落ちたものを拾いながら今は全裸なのだと奇妙に意識した。湯気の白が所々で濃度を変える。ヴァンはすでに向き直っていて広い肩が見える。鶸茶の髪はいつもどおりにきつく結われているが先端が垂れているから髪を洗ったのかも知れなかった。アッシュの視界へべろりと垂れる髪は長くて紅い。紅朱の髪と碧色の双眸は血統の在処を明確にする。ひどく苦い。生まれ持った血統と今までの経過はひどく方向が違う。自分と同じ髪と目を持つ男が安穏と暮らしているのだと思うと腸が煮えた。
軋む歯を食いしばってアッシュはシャワーの下へ行くと一気に把手をひねった。流れる湯が肩や髪を打つ。泡立てに熱心なふりをして背中の全神経はヴァンの方へ向いている。髪や体をひどく丁寧に洗い上げる。ヴァンは無駄口も利かず黙って湯に浸かっているようだった。たっぷりとした時間をかけて洗浄を終えると湯船の淵へいざる。入っていいかと訊けばあっさりとした返事だ。私のものではないから好きにするといい。無礼にならない程度の間を空けて熱い湯に体を沈めた。湯は薄く濁っていて薬草の香りがする。青緑の目がチラリチラリとアッシュの方を見ては背けられる。土耳古石を嵌め込んだそれにひたりと目線を据える。アッシュの碧色とは微妙に違う色合いで、どうせ同じような色を帯びるならヴァンと一緒が良かった。同じ髪と眼のルークはただ疎ましいだけだ。なりが同じであれば境遇の差に不満も募る。
「…なんだ」
低い声なのはアッシュが常に威嚇しているからだ。年齢と立場を論って云々する輩には少なからず悩まされてきた。だから子供っぽい高い声を押し殺すくせが付いている。問われたヴァンはうん、と唸ってから淀んだ。再度問おうとしたアッシュにヴァンは髪を示す。
「かみ?」
「浸かるなら髪が入らないようにしなくてはならないだろう」
平素から流れるままに長髪をなびかせているからいまいち意識に上らなかった。浴場を使用してもゆったり湯船に浸かるのはあまり経験がないから決まり事にも疎い。そういえばヴァンは洗い髪を結っているようであり、アッシュは慌てて荷物をひっくり返した。ヴァンの中でのアッシュがルークのような常識知らずに成り下がる訳にはいかない。なんとか結い紐を探しだしたが上手く結えない。結う習慣がないから手つきが鈍い。もたつくのだ。その間に滑る紅い髪が一房二房と垂れてしまう。まとめなおしては結び損ねに気づいて直すのを繰り返す。
「紐をよこしなさい。あちらを向いて」
アッシュは素直に結い紐を渡すと背を向けた。ヴァンの手が赤い髪を器用に束ねる。髪をいじってもらう時の独特の優越と心地よさに体が緩んだ。痛かったら言いなさい。あぁ。ぶっきらぼうな返事でもヴァンは気を悪くするでもなく髪を結ってくれた。穏やかな手つきで剣をふるうとは思えない。湯に浸かっているせいか二人とも体が火照っている。ひたりと項を濡らす滴がヴァンからたれたものかもしれないと思うだけで陶酔する。
「できたぞ」
ちゃぷ、と水音がして気配が離れた。顔を上げると項や肩甲骨へ触れるものがない。手を這わせて様子を探るのを見てヴァンが笑った。
「慣れないうちは気になるか」
「あ、あ、あり、が…と、う…」
尻すぼみの礼にもヴァンは大らかに笑んだ。
「そういうところはルークと似ているな」
瞬間、アッシュが固まった。アッシュはルークと違って互いの関係性を少し知らされている。誘拐事件で箱入りになってしまったルークとは比べられないほどの差があるはずだ。情報収集としてアッシュ自身もルークの身辺を探ってもいる。屋敷の中で安穏と暮らすルークの刺激といえばヴァンとの剣戟稽古程度であると知っている。それも実戦としての剣術ではない。ある程度のルールに守られた嗜みだ。
「…どういう、ことだ…」
ヴァンは気にするでもなく気楽に語る。ルークも髪が長いからな。湯に浸かるときは結うものだと教えても面倒くさいと言っていつも結わないから私が結うんだ。嫌がるわけでもないから構わないが最初から結ってくれば手間もいらんと思うんだがな。湯の中でアッシュの拳が握られる。ヴァン、それはわざとだ! だがそれを指摘する前にアッシュには確かめねばならない項目が羅列した。
「…ヴァン、ルークの家で…風呂にはいる、のか…?」
不思議そうに目を瞬かれてアッシュの居心地はひどく悪い。子供っぽさなど捨てたはずだった。ヴァンの部下になってヴァンに魅せられてこの男にふさわしい人物になるのだと決めた。ヴァンのすべてを知り得ないと判っていても目の前でちらつけば気は逸る。
「湯をたてましたと言われれば断るのも気の毒だろう。それにルークは気難しいところもあるから正式な助言ではない一言が要り様なときもある」
奴は一度ブチのめす。不意に居合わせた幸運に動揺するアッシュと同じ環境を、剣戟の稽古のたびにルークが満喫しているなどと腸が煮えるだけでは済まない。まぁお前は優秀だからそういう野暮はいらんかな。さらりと言われてアッシュの頬が染まった。ほころぶ思考を一生懸命引き締めてしかめっ面を作る。
「他に何をしている」
「なに、とは?」
返事をしないアッシュにヴァンは怪訝そうだがつらつらと言葉を吐いた。動きが見たいというから見せているな。触っていいかというから触らせる。あとはたまに抱きついてくるな。使用人のガイはあれで案外腰が細くてダメなんだと文句を垂れるな。
煮詰まったアッシュの思考が破裂した。許すまじルーク。一緒に風呂にはいるだけではなく見たいだの触るだの。挙句抱きつく。どこが見たいんだ。どこに触るんだ。その使用人で我慢していろ糞野郎。
俯いてブツブツ呟くアッシュにヴァンが気遣う。
「どうした、大丈夫か? 湯は少し熱めにたててもらったから逆上せたのでは」
肩を掴まれてアッシュの顔が紅潮した。耳や首まで真っ赤になるのをヴァンが首を傾げそうに見ている。
「アッシュ? 本当にどうした」
しっとりと濡れた空気が隙間を埋めるようでひどく息が詰まる。ヴァンが身じろぐたびに立てる水音さえ性感を刺激する。この濁った湯の中に眠るヴァンの裸身を思うだけでアッシュの熱が上がってしまう。薬草の香りと過剰な水分はひたひたと外壁を侵食する。
「る…ッルーク、と! そんなっ」
「そんな? 剣を振るときの腕や腹に触らせるだけだぞ?」
「――ぁあぁああの破廉恥野郎!」
瞬時に沸点を超えた怒りに任せてアッシュが立ち上がる。刹那に。ぐらりと視界が傾ぐ。あ、れ? 怒りに握られた拳が解けて脚から力が抜ける。腹の奥底にわだかまる不快感と脳が真っ白に灼ける空白。
「アッシュ!」
どぼん、と音を立ててアッシュの裸身は文字通り湯に沈んだ。逆上せていた。
ばたりばたりと部屋の開け閉めの気配がする。首を巡らせると硬いものに触れる。ただよう冷気に氷枕だと気づいた。額には濡れた布が置かれている。せっかく結ってもらった髪は跡形もなく解かれているようで残念だった。
「アッシュ? 目が覚めたか」
湯上がりの軽装な姿のヴァンがパタパタと団扇のようにしてアッシュを扇いでいた。
「ヴァ………ぅぐ…」
跳ね起きようとして目眩と吐き気にくずおれた。ヴァンは子供を相手にする時のように額の濡れた布を取り替えると頬に触れる。
「逆上せたようだな。勤務医に診せたがあまり動かして騒ぎにしても悪いから処置だけ聞いておいた。気分はどうだ。水は多めに揃えてある。ぬるいかもしれんがな」
アッシュは諦めて仰臥した。腰のあたりへタオルが置かれている。蓙の上に横たえられているらしく通気性がいい。ヴァンは面倒見よく熱を帯びたアッシュの四肢や体を冷たい布で拭う。
「老いると話がくどくていかんな。お前も黙って聞いているものではない」
意識が戻ったなら診てもらうか。立ち上がろうとする裾を反射的に掴んだ。胸が押されるような切なさに碧色の目を眇める。
「い、くな」
一瞬驚いたように瞬いたターコイズがふっと微笑む。汗ばむ額に触れてくれる手の冷たさが心地よい。湯上がりであれば手足は温かいはずなのにと思う。アッシュの体温が高いせいなのかヴァンの手足を冷やすほど時間を過ごさせてしまったのかと迷う。
「ヴァ…、すま、な…」
聞き分けよく謝ろうと思うのに喉がかすれる。そばに居てほしい。忘れたはずの子供っぽさがアッシュの意識を保たせる。ヴァンの大きな手が触れる。髪を梳くように撫でられてアッシュの意識はとろりと溶けた。
「…よく、似ている」
ヴァンはアッシュの体を拭ってやると簡単な着衣を着せて背負った。医者を呼びつけるには時間が遅い。運ぶ分には問題無いと言われているからヴァンの方でアッシュが目を覚ましたら連れて行くと申し出たのだ。規則正しい寝息を聞きながらヴァンは黙って歩みを進めた。
《了》