たまに見える君の幼い
不意打ち
いつもどおりの稽古を終えてキュリオは自宅へ引き取った。すこし手足が重く敏捷性も鈍った。気づいた少年がどうかしたかと訊くのをなんでもないとかわす。仲間内での報告を兼ねた集まりにも顔を出したし自宅へ帰りつけるだけの体力があるのを疑いもしなかった。仲間内の集まりでキュリオはほとんど発言しないで聞き役に徹し、またそれがいつもどおりでもある。壁に凭れさせた背が重い。壁へ体温が移るようにゾクリと時折震えるほど冷える。周りは気温が下がったなどと話題にしないし服装もいつもどおりだ。齟齬を起こしているのは明らかにキュリオの方だった。解散すると早々に帰路へつく。現政権の抵抗勢力であるから寝床は固まらない。勢力の要となる少年とキュリオやフランシスコといった面子では住む場所が違う。少年の周りには幼馴染の少女や、臣下の孫である少年が常にいるからなにかあれば彼らがなんとかするだろう。キュリオやフランシスコはすでに成人しているし大の男が一箇所に集まるような悪目立ちする真似はしない。つらつらと考えながらどうして考えの方向がそちらを向くのかキュリオは訝った。
少々の目眩や吐き気、倦怠感などは呑み込んでしまう。自分でなんとかしてきた自負があったし、他のものに迷惑をかけるわけにも行かなかった。保存してある食材や惣菜を何とか思い出しながら露店を通る。現政権の圧力的な政治のせいで末端である市民は慢性的に物不足だ。基本的に物を手に入れる手段の清濁を問題にできるほど潤沢ではなかった。乾燥したパンや燻製肉などの匂いが鼻先をかすめるが食欲がわかない。結局空手で帰宅したが水を飲んだきりどうも腹が空かない。剣戟の稽古をつけてきたし熱量は消費しているはずなのに、と思いながら寒いのも手足が怠いのも不具合を起こしかけているのだと気づいた。水浴びさえもせずに襟を緩めてそのまま毛布にくるまった。そのままキュリオは眠りについた。
ことことと煮詰まる音がする。キュリオがのそりと起き上がる。寝起きでぼやけた頭にフランシスコの声がした。
「あ、起きましたね」
練色の長い髪をまとめあげているのは女性のようにも見える。エプロンを付けてふんぞり返っている理由が判らない。首を傾げるのをフランシスコは紅潮させた頬で得意げに笑う。ざらざら触る荒い感触が何であるか気づいた瞬間キュリオが色を失った。キュリオは今まで全裸で眠っていたのだ。だが服を脱いだ記憶はないしフランシスコがどういう経緯でここにいるかさえ判らない。住処は防御対策として分けている。目を瞬かせるキュリオにフランシスコが滔々と語る。彼が語ったところによればキュリオが眠りについたと思って意識を失くしてから何日か経っていて通信や稽古に来ないキュリオを心配した仲間が騒ぎ出すのを何とかフランシスコが抑えて様子を見ると言い出したものらしい。そこで寝台の中で意識をなくしているキュリオを発見して手当をしたという。体を拭いたから服は脱がせましたよ。さらりと言うフランシスコだがキュリオとしては意識がない自分の体をあれこれされたのかと思うとなんとも苦い味がする。眉をひそめるのをフランシスコはふんと鼻で笑った。フランシスコはキュリオと階級も立場も同等であるし幼馴染であるからある程度の赦しや油断がある。そこにつけこまれたような忸怩たる苦さが残る。
同性でもあるし裸を晒すことくらいと思う反面でキュリオの脚を開いたのはフランシスコだ。何をされるかわからない怖さはある。
「病人に何も要求しませんよ」
ぶぅっと頬をふくらませてフランシスコが翻す。向かったのはどうやら台所でなにか作ってくれているようだ。フランシスコが意味ありげに顔を向けて、でも、という。
「一度くらいはいい目を見てもいいでしょう。意識がないあなたは素直ですねえ、脚を開いて最後までちゃんと」
キュリオが掴んで投げた枕が直撃した。
「ちょっと! 火を使ってるんですから危険なことしないでくださいよ」
「うるさい!」
真っ赤になるキュリオにフランシスコはふんとそっぽを向いた。
毛布を纏いながらブツブツ言っている間に来訪を告げる呼び鈴が鳴る。まさか裸のキュリオが出るわけにも行かずにフランシスコが応対した。おかしいですね、オーディンたちには来ないように言ってあるんですが。キュリオは返事をしない。ぶすくれているうちに何やら玄関が慌ただしい。フランシスコと来訪者がもめている。不覚にも聞き慣れた玲瓏とした声にキュリオは顔を上げた。
「ティボルト?」
フランシスコのすきを突いてその体を滑り込ませたティボルトがキュリオの元へ来る。病人を見舞うような殊勝さではなくどこまでも傲岸だ。濡れ羽色の髪は艶やかに黒く瑠璃の瞳が煌めいた。
「オレの女が寝込んだと言うから見舞いだ」
何か叫びだしそうなフランシスコを止めたのはキュリオではなく吹いた鍋だった。不穏な音を立てる台所へフランシスコは飛び込んでいく。態度は偉そうなティボルトだが手荷物が多い。
ずらずらと並べるそれは菓子であったり果物であったりする。缶詰まである。甘い匂いがぷんとした。興味を惹かれるキュリオにティボルトは一つ一つ説明する。これは卵を泡立てて焼いた菓子、このマシュマロは中にチョコレートが入ってる、果物は。毛布の上にゴロゴロと転がるのをキュリオがいちいち目で追う。この缶詰は魚だよ、味をつけて煮てあるから保存も効く、とっておけ。とりどりに散らばる缶詰や菓子や果物に目を奪われるキュリオの頤がとらわれる。気づいた時には唇が重なっていた。ティボルトの瑠璃の双眸が間近で瞬く。濡れた舌が潜り込む。そのまま押し倒されそうになるのを止めたのはフランシスコだ。蘇芳の目を怒らせて睨みつけるのをティボルトは鼻で笑う。
「キュリオにさわらないでください」
「触らなければ何をしてもいいのか? 薬まで持ってきてやったのに」
ひらひらと見せつける紙袋にフランシスコが黙る。用意がいいな、ととぼけるキュリオにティボルトが呆れた顔をした。
「お前、自分が何日寝てたと思ってるんだ? しばらく張っても出てこないからかなり心配したんだぜ」
「でもどうしてあなたがここへくるんですか」
つけつけとした物言いはフランシスコが苛立っている時の特徴だ。ティボルトは怯むでもなく肩をすくめた。当然のように居座る権利を主張する。
「子供に訊いたんだよ。あの隻眼の大男はどうしたって。知り合いだから具合が悪いなら薬をやりたいと言ったらここの場所まで教えてくれたぜ」
「アントニオがどうして。だいたい知り合いだなんて嘘ついて」
「嘘じゃないぜ。ちゃんと、『オーディン』に面通ししたからな。それで子供も納得したってわけだ」
ため息をついて崩れるフランシスコにキュリオが首を傾げる。
「オレは自分がどの程度の知り合いかなんて言ってないぜ、訊かれてないからな。ちゃんと顔と名前が一致したってだけだ」
それよりお前、裸でオレを迎えるなんていい度胸だな。妖しく撫でるティボルトの指がキュリオの腰骨を舐るように撫でる。腕力だけでオレを退けられると思うなよ。頤はびくともしない。たじろぐキュリオの唇はあっさりと奪われる。桜色の爪先が傷を抉る。キュリオを隻眼にした傷は深くて閉じられた視界はそのままに放置された。たぶんもう二度と開かない。閉じたままの目蓋を開こうとティボルトがグリグリと爪で抉る。奔る痛みに涙があふれた。情緒によるものというより純粋に眼球への刺激に対しての反応だ。目元がぴくぴくと引き攣る。
不服を申し立てようとするキュリオの口へティボルトの指がねじ込まれる。少し苦いそれに顔をしかめてもティボルトは退けない。
「舐めろ」
キュリオは音を立ててしゃぶった。あふれる唾液を嚥下する。同時に何か硬いものがこくこくと喉を降りていく。ティボルトの指はキュリオの舌をたっぷりと弄んでから執拗に絡みつく。ティボルトは脇の吸呑から水を含むとそのままキュリオにくちづけた。冷たい水が口腔に溢れかえるのを無理やり飲まされる。ようやくすべてを呑み込んで息をつく頃にはティボルトの体はすっかり覚めて遠ざかっている。
「薬だ。もぐりの医者だがそれだけの信用もあるからな。口当たりの悪さには目をつぶれよ。飲みやすい薬なんか特権階級だけだ」
キュリオは思わず喉に触れるのをティボルトが見て笑う。
「ちょっと、変な薬飲ませないでくださいよ、ようやく落ち着いてきたのに」
ぷりぷり怒るフランシスコにティボルトは目線だけ向けた。
「ただの風邪薬だぜ。だいたいあの子供にある程度のことは聞いてきたからな。優秀な子供ってときに扱いにくいよな」
翻ってキュリオに向き直ったティボルトがくどくどと小言を言う。いいか、水浴びしたら髪を拭うんだよこの馬鹿。湯を浴びられる階級じゃないのは知ってるから、体を綺麗にしたら水気を拭え。着替えもこまめにするんだよ。処置じゃなくて予防しろ。医者にかかれないことが判ってるなら医者に掛かるような状態にするんじゃない。
隻眼を瞬かせるキュリオにティボルトは上から物を言いつける。勢いのままに頷くのをティボルトは、いいかちゃんとやれよと念を押す。
「病人を責めてどうするんですか。まぁキュリオの自己管理に目が届かなかった落ち度は感じますがね…キュリオ、濡髪は放っておかないように」
いつの間にかフランシスコまで加わっている。あなたはいつも面倒がるんだから。濡れたら拭けよ、馬鹿。ティボルトはすぐに笑い出した。聞き分けがいいお前ってのも気味が悪いな。
強い疲労がキュリオを押さえつけつつあった。手足の重く怠い感覚が奔る。だがそれは先程のように消耗してと言うよりは休養のための節約のようでもある。ずるずると寝台に沈み込むのをティボルトの白い腕が添えられて横たえる。そのまま覆いかぶさるのをキュリオは許した。転がる菓子や果物が甘く香る。そっと伸びたのはフランシスコの手だ。目蓋を降ろさせる。とろとろと微睡むのを二人は止めなかった。
「眠れ。薬が効いてるんだよ。目が覚めた時にはいつもどおりだ」
「おやすみ」
そっとあてがわれた枕は先ほど投げつけたものだ。ふくりと沈むそれに意識はますます朦朧とした。
「おやすみ、可愛い人」
重なる紅い唇がどちらのものなのか、キュリオにはもう判らなかった。
《了》