ひねくれているのは、お前
言葉の裏側
表通りの店や窓にはすでに鎧戸が閉められている。キュリオは手元の明かりさえ持たずに界隈をぶらぶら歩いた。路地裏を歩きながら完全な裏側には所属しない曖昧な境界線上を歩きまわった。客引きも稀だし不用意な諍いも起きない。ある程度身分を隠して暮らすキュリオの寝床自体がそういう曖昧な界隈にあった。ときどき路地裏へ飛び込んで金を稼ぐ。稼ぐというより強要の果てにそれはある。引っ張りこまれて脚を開かれ虚ろなキュリオの上に紙幣が舞った。苦々しい屈辱と同時にある程度の安定さえ示唆するそれをキュリオは明確に拒絶できていない。追手がかかれば下水路さえ使う。外套の裾を汚水に浸して息を潜めることは一度や二度ではない。引っ張りこまれれば抵抗する。腕力を伴うそれに相手はたいてい咥えるだけでいいと譲歩した。
石路を歩く靴音が止まる。そばを運河が流れていた。耳鳴りのように水音がしてあたりの空気は湿っぽい。水際には藻や苔や黴がはびこって密やかに領域を拡大しつつある。夜半に明かりもない手元を月白が照らす。運河は黒黒と洋墨を流したように底さえ見えない。野犬の声さえしない。腰に短刀を携えて入るが呑気な構えであることには違いない。ただしばらくは目覚しい変化が多くて少し考えを整理したかった。大抵において考えることはフランシスコに丸投げしているキュリオだが事が守っている子に関係するとあって完全に無関心でもいられなかった。黒い髪と瑠璃の双眸のティボルトは明確にキュリオたちに加担しながら慣れ合いはしない。彼がどこを寝床にしているかや行動範囲もキュリオは知らない。唐突に彼が現れるのを待つしかなく、しかも引き止める手立てはない。一方的な関わりに過ぎず、それでいてティボルトの動きは重要性さえかすめる。キュリオたちが隠していた事実も知らなかった真実さえもティボルトは匂わせて去っていく。立ち位置は明確に違うのにティボルトの関わりは執拗でもある。
あの子が十六歳になるまでは。それは憤りを鎮める呪文だった。少なくともキュリオにとっては。圧政に喘ぐ市民ときつくなるばかりの締め付けに真っ当性は失われつつある。物を手に入れる手段に正当性を求めることが難しくなっている。それは同時に路地裏に潜んでいた闇の爆発的な膨張の予兆のように蠢いた。キュリオの足が止まる。気配がした。ある程度の訓練と戦闘をこなした副産物的にキュリオはある程度の気配が読める。相手に戦う気があるかどうかや、逃げるか迎えるかくらいは判断できる。ただ後をついてくるだけならありふれた出来事として撒くだけだが時折それでは退かない厄介な輩もいる。気配が奔る。向かってくるかと思ったが消えた。後ろを振り向いたままでキュリオは呆然とそこを見た。名残さえなく静まった空気に満ちたそこにため息が出た。隠れ住むことになって長いが過敏になりすぎたのかもしれないと思う。
刹那、後ろから伸びたてがキュリオの口をふさいだ。キュリオは隻眼であるからそちら側からの攻撃には著しく弱い。鍛錬を積んでも見えない視界というのは厄介だ。呻く音を残して引っ張りこまれた袋小路にキュリオは押し倒された。にょきりと伸びていた白い手はキュリオより華奢で、それでいて意地悪い動きをする。体格はキュリオのほうが勝っているが不意をついたことと敏捷性は相手のほうが勝っていた。キュリオはすぐさま四肢を拘束された。露骨に縛り上げないが関節や駆動部を圧して責めるやり口は路地裏独特の色を帯びた。
「お前、誰の情人になるつもりなんだよ隙だらけだぜ」
下賎な台詞とやり口。明朗に響く声はひそめられながらも艶っぽく響いた。
「ティボルト…!」
「オレの名前は覚えてるのか、いい子だな」
ティボルトの白い指先がキュリオの頤を抑える。唇を殊更強調するように撫でる。桜色に調えられた爪先はティボルトが路地裏やその界隈の住人だとは思わせない。キュリオの訝りに気づいたようにティボルトはふんと吐き捨てた。
「血統だけはどうやら上等らしいんだよ。お前より上だぜ、たぶんな。今は不問にしてやるよ」
隻眼にした傷口や目蓋をしきりに舐めた。傷は深くてキュリオの視界の半分を奪った。まだ感覚が過敏で触れられるのも避けたいくらいだ。不意の接触は爪の硬さを思い知らせてときおり痛い。出血に至ることは少ないが奔る刺激は明確に痛い。破損が眼球にも及んでいるのかも知れなかったが、キュリオに判るのは傷を負った方の目はもう開かないということだけだ。ティボルトはその閉じた目蓋を押し開くように舌を潜り込ませてくる。唾液がしみて痛いし皮膚の引き攣れで痛い。なんとか引き剥がすのをティボルトは面白そうに眺めるだけだ。
無理な刺激にキュリオの閉じた方の目がすでに落涙しそうだ。皮膚に覆われて見えないが目は完全に潤んでいるし、開こうとする刺激は余計に潤みを誘うばかりだ。平素のキュリオは泣かない。だいたい泣いてことが収まるようななりでも性質でもない。不意打ちであってもキュリオは不運を嘆くより報復に奔る。あまり口を利かないから周囲の評判が違うのだが元来キュリオの負けん気は強いし、黙って殴られるような性質ではない。暴れるのを見越したようにティボルトは拘束を強めた。駆動部が軋む。無理に動かせば怪我を負う危険もはらんだ。
「なめるな。お前より路地裏ぐらしは長いんだ」
ティボルトはしばらくキュリオの体を好きに扱った。体温を上げさせたり急き立てたりする。キュリオは喘ぎながらそれに従った。鍛錬はこなしても交歓の経験はあまりない。ティボルトは自分の欲望とキュリオのそれとを上手く天秤に乗せてあしらう。終わった時には襟はおろか留め具さえ解かれたままだ。キュリオの感覚は果てしなく膨張して微温湯につかっている時を思い出させる。制限を失った感覚は際限なくその先端を伸ばしてしまいには浴槽いっぱいに敷き詰められる。浴槽の形そのままがキュリオの認識範囲になった。その時のようにキュリオの感覚はすでに自制を振り払っている。外的な作用によると判っていながら次の一手を体は待っている。
「素直な奴は好きだぜ」
ティボルトの指がどこにあるかさえすでにどうでもいい。熱膨張で体が膨らんだように感じられるし、過剰な膨張は抑えられているように思われる。キュリオはすでに体の外郭をなぞれずにいる。
「ばかだな」
唇が重なる。乾いたキュリオを湿すようにティボルトの紅い舌が撫でる。艶めく朱唇にキュリオが動揺する。ティボルトの瑠璃が煌めいた。眇められるそれはキュリオを厭うように疎んじるように、それでいて捨てきれない優しさがある。
白い指が傷を撫でる。思いの外深かったそれに塞がれた視界の残像は未だにキュリオをくじかせる。
「目立つ傷だな。由来は知ってるぜ…あの子を守ってついたとかって話じゃないか」
殊更話題にするあの子が誰を指すか悟れないわけではないが、それは同時に不用意に口にできる名前ではないことも識っている。睨みつけるキュリオにティボルトは不遜に嗤う。
「勲章のつもりか?」
拘束を振り払ってしなったキュリオの利き手がティボルトを打ち据えた。無理に解いた駆動部が痛い。だがその痛みより痛烈だったティボルトの台詞はビリビリとキュリオの意識を裂いた。頬を腫らせたティボルトが唾を吐き捨てる。紅い。夜闇の中では黒く見える。その紅の度合いが高いほど黒く見えてそれは洋墨の染みのようだ。唇の端が切れているのか濃淡の違いが見て取れる。しばらくぼうっと吐き捨てた唾を見ていたティボルトが不意にキュリオの頬を打った。柔軟性と位置の高さを生かした打擲は確実にキュリオを打ちのめす。
「舐めるなといったはずだぜ。ここでのルールってやつを教えこんでやってもいい。腕力だけじゃ切り抜けられないことがあるのを教えてやろうか」
ティボルトはキュリオの体を好きにあしらいながら温情は見せない。粗暴で冷淡だ。あくまでも暴力的に結果を求める。
キュリオが身震いするのをティボルトは薄く笑んだままで見下ろした。
「いい子だ。素直な奴は嫌いじゃないって言ったろう」
ティボルトの朱唇がキュリオの胸を這う。払いのけたくなるのをキュリオは必死にこらえた。ティボルトもそれを判っていて時間を長引かせるように舐る。それでいてキュリオの限界が来る頃にあっさりと突き放す。限界まで上げられた熱と放逐を繰り返し、キュリオの体に疲労がたまる。キュリオの意識ではすでに支配権がティボルトにあり、願うのは早々に解放してほしいことだけだった。荒い呼気で空気を震わせながら固い石畳へ爪を立てる。剥げてもいいと思うほど強いそれが軋む頃になってティボルトが気づく。
「爪が剥げるぜ」
「どうでも、いい」
ティボルトは乱暴にキュリオの手を払った。力の方向を定められなくなって力が抜ける。その手をティボルトが強く拘束した。
ティボルトの顔が不意に近い。少し長めに整う濡れ羽色の髪が幕のように垂れた。月白さえ遮るその闇にキュリオは息が止まりそうになる。芥子色の隻眼を、瑠璃の双眸が克明に映し出す。薄い闇の中でさえティボルトの朱唇は艶めいて艶を帯びる。紅いそこだけ浮かび上がるそれに目をこすりたい。もどかしい視界に悶えるのをティボルトは冷静に見ている。
「お前、案外睫毛があるな。なりとは違う。…オレは、好きだぜ」
反論しようと開いた隙間がティボルトの唇と舌で埋まった。ティボルトの指先はすでにキュリオの四肢から髪へと拘束を解いているのにキュリオの感覚は明確に縛られた。硬い鳶色の髪を梳いてティボルトは抱擁と口付けを繰り返す。キュリオの四肢はすでに抵抗の余力さえない。不意の緊張は熱量を消費した。関節が駆動部が軋む。反射として震わせるだけで熱量を使う。
「お前は本当にイイ女だな」
ティボルトの蔑みさえ遠い。すでに境界線さえ曖昧だ。ティボルトの指が抜き身に触れているのか体内にあるのかさえ不明瞭だ。間違いないのはその存在が快感のもとであるということだ。ティボルトが動くたびにキュリオは身じろいで息を乱す。着ているはずの服の行方が判らない。火照った肌で外郭を覆う布地の行方など探れるわけもなかった。
微睡んだ。急激に高い消費に体は休息を求めている。キュリオの体温が上がって眠りを呼ぶ。際限なく火照る体の野放図に放たれる触覚は境界線をぼやかせる。冷たく突き当たるそこが限界値だ。キュリオの体はすでに意識下から放たれている。
「――ぁあ、あぁああ」
溢れて溢れる声はすでに声ではなく音だ。快感に啼いているのか悲鳴を上げているのかの境目さえ虚ろだ。ただ突き上げる衝動だけがキュリオの喉を震わせた。
「熱いぜ、ばか」
熱にかすれたティボルトの声がした。頭を抑えられる。唇が重なった。ついばむように何度も繰り返される。息を継ぐ間に開放され、すぐさま塞がれる。キュリオは自分の息が次第に熱っぽく湿っているのを感じた。ティボルトの息がもっと熱い。
「ばか、好きだよ。お前、風通し良くなってないだろうな」
「…は?」
震える息を吐きながら訝るキュリオにティボルトが笑った。
「まぁお前だからな。そんなことはないだろうが、あの長髪とはどうだ?」
ティボルトが誰を示すのか一瞬判らなかった。練色の髪をなびかせるのはフランシスコだ。
「別にお前が誰のものでもイイ。オレは誰かのものを奪うのは得意だし、嫌だ嫌だって言う奴をイイって啼かせるのも得意だ」
細くて白い指は案外強い。キュリオは動かせない頤にたじろいだ。
「逃がさない」
好きな奴の情報を集めるのは得意なんだよ。ティボルトが論うのはフランシスコさえ把握してないたぐいの情報だ。
「なっば――…よせッ!」
もがくキュリオをティボルトは簡単に抑えこむ。
「判ったろう。オレはお前が好きなんだぜ?」
がり、と爪が立てられる固い感触が鮮明だ。痙攣するように震える刺激にキュリオの意識が飛んだ。力の抜けた四肢をティボルトは丹念に愛撫し、唇を寄せた。
「好きだぜ?」
触れるところから溶けるように体温が高い。上がりっぱなしの熱にキュリオの警戒は緩んでいる。ティボルトは唇を重ねた。精悍なはずの顔立ちは意識の自制がないだけでひどく幼いた。彼の背負う重みを識る。
「ばかだな」
ティボルトが唇を寄せた。
《了》