何も知らないあなたが最強
トリプル・デコイ
鳥の声がした。街の目覚める喧騒の中でも鳥の声は案外耳につくものだなとギルバートはぼんやりした頭で思った。同時に今日の予定を出来うる限り思い出す。所属団体に顔を出す必要があった。期限はきていないが提出するべき報告書があった。そのことは事前に主人であるオズと言う少年に伝えてあるから女中や執事に伝言でも残せばよいか。そこまで茫洋とした頭で考えた。
「オソヨウサマー」
にょきりと樹が伸びるように口が裂けた笑いの男が覆いかぶさる。その男の肩ではタオル二・三枚や端切れがあれば作れそうな人形がゲラゲラ笑いながら寝ぼけてるぜこの猫、と下品なことを叫んでいる。手加減なしでふるった拳はあっさり避けられてギルバートは体を起こした。ボスンッと座り直す音と寝台の軋み。ブレイクだ。居住は旧家の筈なのになぜだか他人の家や部屋に入り込むのが上手く警備や鍵など何の役にも立たぬ。鍵も窓も鎧戸まで下ろして寝て起きたらブレイクが作りつけの戸棚から顔を出していた際には心臓が喉から飛び出るかと思った。それでも不意の闖入も回数を重ねれば慣れても来る。そもそも半ば生きることを放棄しているギルバートに執着すべき対象は一つしかない。
「ほらほらー、今日は久しぶりにパンドラに出向する日でショ? 優しいワタシがお出迎えに上がりまシタヨ」
寝てんじゃねーよ猫! と肩の人形がうるさい。そもそもギルバートは自分を指し示す呼称として猫がふさわしいとは思っていない。何だ猫って。ぶつくさ言いながらも寝台から起き出す。ゆったりした袖周りや襟刳りから伸びる四肢や頸は面白いほど官能的に白い。緩く巻いた黒髪との対比も鮮やかにまるで絵画から飛び出してきたかのようである。顔の造作も悪くない、とギルバートは思っている。眉目秀麗とは思っていないがまぁ十人並みだろう、見られて不快になる顔ではなかろうと思っている。そのまま洗面へ行って支度をする。
「オハヨウのキスくらいないンでスカー」
「目が覚めて目の前にお前のアップが見えて萎えた」
「傷つく―」
大げさによよよと泣き伏す真似をする。ブレイクは彼が司る魔獣同様にどこか道化じみているから冗談と本気の区別をつけるのが難しい。要領の悪いギルバートなどはいつもそれでしくじる。
言葉尻を捕らえられて事に及んだりしたことなど両手に余る。優しくしてもきつく当たっても変わらないのできつく当たっているだけだ。しかもこたえた様子もない。自分に見えないところで傷を舐めているのではと心配して同僚のレイムなどに訊いてみたがそう言う様子もない。ギルバートを揶揄するのはブレイクの慰み遊びであると最近ようやく気付いた。
「パンドラに行かれるンでスカ?」
「提出する報告書があった」
団体の揃いの制服を着用するギルバートを眺めながらブレイクが問うた。ギルバートは背ばかりが伸びて生意気な、と思う。幼い従者であった頃の彼を知る者として彼の著しい身体的成長には複雑な感情を抱かせる。守ってやりたくなるような低い背と可愛らしい顔立ちが、小奇麗に整った美青年となり長い手脚と戦闘訓練で引き締まった体になった。何度もあの服を脱がせてブレイクはギルバートを抱いた。冗談のつもりだが案外嵌まる。ブレイクが自ら抱きたいと渇望したのは目の前の彼だけだ。裸身をさらしあった関係としてギルバートもブレイクの前で平気で着替えをする程度にはすれた。
「行くぞ」
「ハイハーイ。ワタシはあそこ、あんまり好きじゃアないんですけドネ」
「じゃあついてくるな」
「ギルバート君の傍に居たいナー」
「気色悪い」
悪口のやり取りも日常茶飯であり変わらない一日の始まりである儀式だ。お互い傷を被ったりはしない。触れてはならぬ箇所があることをわきまえた悪口のやり取りである。
出張任務が多い所為か、本部に詰めることは珍しい。ギルバート自身、団体の戦闘部隊の、しかも前線で戦うような能力者であるからこういった事務仕事が主である本部にはあまり来ないのだ。それはブレイクも同じはずなのだがブレイクはギルバートより上位者であり幹部にも近しい。集まってくる情報の整理などもあるらしくギルバートよりも本部の作りにくわしい。団体の本部が置かれているところにはブレイクの方が明るかった。その所為で誰も通らないような廊下の隅や塀のくぼみへ潜んで事に及ばれることも少なくない。だがそれでもギルバートはブレイクが己を抱くのを完全拒否できていない。
「兄さん!」
華やいだ声にギルバートとブレイクが同時に振り向く。ヴィンセントだ。ギルバートの実弟である。長い金髪をなびかせて制服の裾をひらめかせて駆けてくる彼の両の目は同じ色をしていない。紅と黄金の変色眼は生まれつきだ。これを理由に辛い思いをギルバートとヴィンセントはともどもに辛い思いもしたが今では過去の傷痕になりつつある。
「逢いたかった!」
ヴィンセントは抱きつくとちゅうっとギルバートの唇を奪う。ギルバートは驚いて体が動かせないが半ばあきらめも入っている。ヴィンセントはいささか過剰にこうした触れ合いを好むきらいがある。兄弟間で発露するそれにしては過激だがギルバート当人が実害はないと判じているので周りはなんともいえぬ。ブレイクの顔がみるみる嫌そうに歪む。薄紫の髪は顔の片側を隠しているが見えている隻眼は不快だと言わんばかりに眇められ眉が寄せられている。
「…あれ、どうしたの…? 帽子屋さんが、なんだか不機嫌だね…」
ギルバートに絡みつくようにしなだれたヴィンセントはくすくす笑う。行き別れたという話は聞いているが、この二人がある程度の期間行動を共にしていたとは思えないほど差のある兄弟である。
「相変わらずギルバート君と他人だったらいい弟君ですネ」
「帽子屋さんは冷たいな…ギルと仲がいい僕に嫉妬してるの? だって兄弟だもの、仲良くしなくっちゃ…ねぇ、兄さん?」
ブレイクの顔が苦々しげに歪んでいくばかりだ。肩の上の人形が押し黙っている。ぎりぃ、と人形の首を絞めるブレイクの手が鳴った。げけけ、と人形が不自然に嗤う。
「僕としては帽子屋さんとも仲良くなりたいな…帽子屋さんは可愛いから好きだな…」
刹那、ブレイクの仄白い顔が紅潮した。唇が戦慄く。人形の首を絞める手に力がこもっている。皮膚がぎちぎちと引き攣っている。
「兄さん知ってる? 帽子屋さんはね耳が弱くてね。切り落としたいくらい綺麗な耳をしてるんだ…それに肌が白いから紅くなるとすぐ判るんだ…。あ、兄さんももちろん白くてきれいな肌だよ?」
熟れたように紅い唇がつらつらと気怠げに言葉を紡ぐ。猫だ猫だというならこれほどふさわしい人物もいない。娼婦のようにしなだれるヴィンセントの腰からは伸びる尻尾や頭からはぴんと張り詰めた耳が見えるようだ。
「それからね…」
「ギルバート君、さっさと書類を提出してきなサイ。無駄話をする暇はないでスヨ」
べりっとブレイクがギルバートとヴィンセントを引き剥がし、同時にヴィンセントの口上をさえぎった。ブレイクにせかされて、ギルバートは本来の目的のために駆けだしていく。出張任務も多く本部に居座らない彼にとって団体本部はいづらい場所でもあるのだろう。用事をさっさと済ませて帰りたいという想いが背中に大書きされている。
あとに残ったヴィセントの厄介さにブレイクは舌打ちしたかった。ブレイクとギルバートが関係を持つにあたってヴィセントまでもが割り込んできたのである。だがヴィンセントはギルバートではなくブレイクに目をつけた。彼の相手をして判ったことだがヴィンセントの倫理や優しさや規則は奔放で残酷だ。ギルバートが兄だから抱かないとは思えない。
「さて、それじゃあワタシはこれデ」
踵を返すと後ろからドンと乗っかられる。絹の手袋をした指先がブレイクの頤を撫でてから唇をたどる。紅でも塗りつけているかのようにブレイクの唇を執拗にいじり回す。
「もういっちゃうの…?」
用はないのだ。もう行っちゃうのかどうかもないもんだと思いながらできるだけ笑顔を繕う。何処で誰が見ているか判らないほど勢力図が頻繁に代わる組織である。四大公の拮抗した勢力争いは末端の構成員にまで及ぶ。ブレイクの所属とヴィンセントの所属は明確な敵対関係こそないが朋友と言うわけでもない。そもそもヴィンセントが籍を置くナイトレイ家自体が情報の公開や参加に消極的なのだ。バルマ公などは明確な目的のもとに情報を操作している節があるがナイトレイは家柄としてそうした家風なのだ。
ヴィンセントはいい。その家風に合っているし何より馴染んでいる。問題はギルバートなのだ。彼ほど腹芸が不得手なものはいないだろう。情報の秘匿という能力がギルバートには欠落しており今後の課題になるだろう。
「ワタシが用があるのはギルバート君です。溝鼠に用はありまセンよ」
つけつけとブレイクは物を言う。腹に一物持っているような輩に手加減は要らぬというのが持論でもある。
「僕はあるんだけどな…帽子屋さんにこうして会うの、久しぶりだし…したいこととかいっぱい」
背後からの抱擁からは逃げようがない。かぷ、と耳を噛まれてブレイクの冷静さがみるみる奪われていく。
「兄さんは何も知らないの? 帽子屋さんはおしゃべりじゃあないんだねえ…嬉しいな。二人だけの秘密だよ?」
くすくすくすくす。小首を傾げるようにして形の好い頤を撫でまわす。頬を寄せてくるのを嫌って顔を背けても肌が触れ合う。ヴィンセントは火照っているかのようにほんのりと温もっていた。その熱が緩やかにブレイクの中へ浸透してくる。いつもならばギルバートに熱を注いで泣かせるブレイクだがヴィンセントが相手では勝手が違う。むやみやたらに逃げるすべさえなくヴィンセントはしかも狡猾だ。服の上からであるのに裸身を撫でまわされているかのようだ。
「ギルバート君とご飯が食べたいデス」
「んもう…帽子屋さんは兄さんのことばっかりだね。嫉妬しちゃうな…二人の関係、ずたぼろにしてあげようか」
ブレイクの口の端が吊りあがる。ヴィンセントはブレイクとギルバートのつながりを慕情としてとらえているようだがそれでは足りない。他にもまだ二人を繋ぐ絆はある。だがそれを言う気はない。気付かぬ方が悪いのだとブレイクは嘲笑した。
「ね…いこ?」
馬鹿みたいに残酷で無垢なヴィンセントにブレイクは上辺だけの笑みで応えた。
「ハイハイ」
どうせ行為の最中はギルバートの媚態でも考えることになるのだから。せいぜい楽しむと良いデスヨ。この抜けがらでね。ブレイクは蠱惑的に微笑んだ。ヴィンセントの頬が一瞬染まる。だがすぐにいつも通りのうすら笑いへ変わる。
「しようね」
暗がりへ身を潜めた。
いまだけだ。
いまだけ、
愉しむと良い
《了》