あの時は言えなかったけど
君と一緒にいたかった
装丁のしっかりした古書ばかりがずらりと積み上がっている。上へ行くほどに細っていくように見える円形の部屋は四方に棚が作りつけられて、由緒正しいナイトレイ家の歴史の片鱗を窺わせた。独特の香りと湿り気は衣服の繊維に沁み込むような気がした。ギルバートには過去がない。この部屋は過去に満ち満ちていて、それはいつの間にか足を運ばせるほどギルバートを魅了した。本を読むのは嫌いじゃない。一生の主と定めたオズは読書の好きな少年であったから多少影響もされた。この本はお前好みだと思うと押しつけられてギルバードの私室には書架が備えつけられるほどにもなった。だがそれら全てはもはや過去でしかない。ギルバートの籍も体も生活も何もかもが、そのオズと敵対するナイトレイ家に置かれている。荷物は身の回りの品だけにした。互いに好まぬ間柄を思えば、処分されてもいいから持ちこむ気にはなれなかった。ギルバートがこの家に入りこんだ目的にそんな感傷は要らなかった。
ぱら、とページを繰る。並ぶ文字の印刷した時の洋墨の香りがぷんとした。並ぶ字面を何とはなしに追う。本を読むのは面白いのだろうか。何が愉しかったんだろう。オズの元へはもう戻れない。オズはおそらく今のギルバートがベザリウス家に籍を戻したいとかまた従者にしてほしいとか、そう言った事柄すべてに首を縦に振ってくれるだろう。オズはそういう少年だ。一時的に止められた体の成長は少しずつ再開しているようでもあってそれは喜ばしい。出来ればそばにいたい。ギルバートが持っていない過去をつくってくれたオズに出来ればまた従者として額づきたい。だがギルバートの気質がそれを躊躇させる。ナイトレイに育てられた恩、ナイトレイ家秘伝の魔獣の支配権を受け継いでしまったこと。この身のままベザリウスに帰参したとてナイトレイが許さないだろう。それにこのナイトレイには生き別れていた実弟もいる。金と紅の色違いの双眸はギルバートをいつまでも縛り続ける。
「読んでないなら本を戻せ!」
凛と響いたまだ声変わりの中途のような声。男性の重厚さこそないが少女じみた甲高さと同時に勇猛果敢な少年の利かん気が感じ取れる。はっと顔を上げたギルバートの目の前には私服のエリオットがいた。上級貴族であるナイトレイ家には無下にあしらえぬ立場の訪問者が来ることもあって皆が自然と正装に近い私服を纏う。エリオットの喉元にはアイロンがあてられた白い襟が際立つ。ギルバートも白いシャツに黒いズボンを簡素ないでたちだ。もともと外出予定もなかったので部屋着に近い格好をしている。
「エリオット?」
部屋の中央の閲覧台の椅子へエリオットは乱暴に腰を下ろす。二つの席が向かい合う形に置かれていて仕切りはない。エリオットは手慣れた様子で燐寸を擦って火を付け、卓上灯を点す。気付けばもう手元さえ危うい暗さだった。ギルバートは茫洋と一連の動作を見ていた。過剰に英雄や剣戟を好むきらいはあるが基本的に貴族としての振る舞いを生まれた時から叩きこまれているエリオットの動作は綺麗だ。備えつけのくず入れへ手首の返しで火を消した燃殻をエリオットが放った。橙色の卓上灯はどこか淫靡にエリオットの白い肌を照らした。エリオットの睨みつけるような双眸はじっとギルバートに据えられたまま動かない。標的として固定されてしまったように動けないギルバートにエリオットがぼそりと呟いた。
「綺麗な目をしてるんだな、蜂蜜みたいだ」
ギルバートはゆるく巻き癖のついた黒髪を少し長めにそろえ、双眸は金色。対してエリオットは亜麻色の髪を短く切り襟足も白々と美しい。ターコイズの双眸は気の強さを示すようにあたりを睥睨する。
「…お前も、綺麗だと、思う…」
ギルバートはそそくさと本を戻そうと書架へ向かいあう。だが題名を目で追ってあった場所を探すが、この場を立ち去りたくて焦るギルバートは本を収めていた位置がなかなか見つけられない。普段ならなんてことないもたつきが致命的にギルバートを焦らせて精度を落とし、余計に行動が滞る。悪循環だ。背中に刺すような視線を感じる。エリオットのそれだと見なくても判る。だがエリオットが穴があくほどギルバートを見つめるくせにギルバートが目線を合わせようとするとフイと外してしまう。ギルバートはたとえ義弟であってもそこまで嫌われているのかとかなり落ち込んだ。もともとナイトレイの血筋ではない身柄が、ナイトレイの由緒である魔獣を奪ってしまったのだから仕方がないと言えなくもない。だからギルバートはそうやってつけられたちょっとしたキズや、ほかの義兄弟から受ける侮蔑や暴力の傷を、一人でこっそり舐めて治した。
振り向けないギルバートの醜態を知っているかのようにエリオットはじっとギルバートを見つめる。
「エ、エリオットが読むつもりだったのか、この本…だったら、俺はもう、いいから」
収める位置を見失った悪あがきとしてエリオットに押しつけようとあがくのを見破ったようにエリオットはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「それはとうの昔に読んだ。お前の目線の一つ下の段だよ、馬鹿者が」
指摘されてみれば性質かに隙間があり、題名のシリーズも続いている。ギルバートはホッとしてそこへ本を収めると退去しようとする。
「おい、そこへ座れよ」
エリオットの声が刺さる。ギルバートは戦々恐々とした状態で生唾をごくりと飲んだ。年齢の問題でも体躯の問題でもない。生まれもった威圧感が違うのだ。ギルバートはのろのろと椅子を引いて腰を下ろした。
エリオットは手持無沙汰のように卓上灯をむやみにぐらつかせたり息を吹きかけて揺らめかせたりする。
「な、何か話し、でも?」
「前にも、こんなことがあったろう」
エリオットのターコイズは橙を吸って緑柱石のように鈍く煌めいた。ギルバートは何とか想いを巡らす。そう言えばギルバートが書庫にいるのをエリオットに発見されるたび、義兄に告げ口されてはたまらないと本を戻すのも早々に逃げだすのを繰り返していた。だがある時一度だけ、ギルバートは激しい叱責と折檻を受けた。いつもどおり本を放り出して逃げだしたギルバートを、幼いエリオットは書庫でじっと待っていたのである。書庫は換気や保存の関係から風通しがよく気温も少し低い。大人であればどうとも思わぬ差でも幼子の体にはこたえたようで、それも長時間待っていたらしく、エリオットの膝小僧は真っ赤だった。そこで倒れているのを義兄が発見し、駆け巡ったその知らせに駆け付けたギルバートは激しい問い詰めに屈して翻るように逃げたことを白状した。エリオットはそのギルバートがもう一度戻ってくるものと思って待っていたのは明白であったから折檻は手酷いものになった。叱責もされた。だがギルバートとエリオットは早々親しい仲ではない。だからこそギルバートの実弟であるヴィンセントなどは不服を申し立てた。効果こそなかったがギルバートの印象にはかなり強く残っている。エリオットはギルバートを書庫で見つけるたびに取り逃がし、戻ってくるのを待っていたのだ。理由は知らない。
「…あのときはその、すまなかった。お前が待っていてくれたなんて思わなかったから…」
「あれはオレが軟弱であったから倒れてしまっただけだ。お前の所為だなんて思ってない」
ギルバートはぐうの音も出ない。だったらどうして、と問いたいのを堪えてギルバートは俯いた。強い魔の力を手に入れてもギルバートの気の弱さは変わらない。圧されれば退いてしまう。
「あの時お前が一言だけ言ってくれたから、それで帳消しだ」
「…何か、言ったか?」
ぎッと睨みつけられてギルバートの背がぴんと伸びた。恐縮するギルバートにエリオットは顔を赤らめた。
「『大丈夫か、ごめん、エリー』」
その台詞でギルバートも思いだす。平素から使うことを禁じられていたエリオットの愛称を口にしてしまったのだ。エリオット当人は呼べと言うのに義兄たちは馴れ馴れしく使うなと厳しく叱責する。使い分けていたのが、エリオットが倒れたことで冷静さを失くしたギルバートの醜態だった。
「…お、お前まで俺になれなれしいっていうのか…」
「人の話は最後まで聞かんか! お前はッ、お前はあれ以来」
そこでぐぐぅとエリオットが唸る。喉を鳴らすのは猫の様だ。亜麻色の毛並みにターコイズの瞳は本当に猫にいそうな色合いだとギルバートは茫洋と思った。じろんと蒼碧が動いだ。
「猫みたいだと思っているだろう。喉が鳴るのはそういう体質なんだ昔から治らんだけだ。黒い毛並みに金の瞳など、貴様こそ猫の様だ」
すっかり見抜かれてギルバートは逆に肩から力が抜けた。長く目の前に垂れてくる黒髪を耳へ引っ掛ける程度の余裕ができた。ほわりと微笑んでギルバートはエリオットの言葉を待つ。エリオットは卓上灯だけでも判るほど顔を真っ赤にして頬杖をついた。
「お前が! 貴様があれ以来、オレを、エリーと、呼ばなくなったッ! それまでは二人きりの時とかは、エリーって呼んでくれていたのに…オレはあの響きが好き、だったんだ…」
「だがもう、お前だって恥ずかしいだろう、エリーと幼稚に呼ばれたりなんかしたら」
ギルバートは率直に思ったことを言う。気が弱いようで頑固なのは、本音をオズに見抜かれ続けてきた経験が呼んだ癖だ。どうせ隠しても見抜かれるならはなっから話してしまう。
「べッ別に…」
不満げに尖った唇が紅い。
「あの後から、お前を『ギル』と呼ぶたびにヴィンセントから仕返しされたし。今はされてないが…貴様はオレをエリーと呼んではくれないのか?」
ギルと呼ばせてくれないのか?
ギルバートがきょとんとする。ギルバート自身、名前に早々愛着もないから誰がどう呼ぼうが気にしない。驚いたのは実弟のヴィンセントのその行動だった。そう言えば何かあるたびに「ヴィンスって呼んで」と強請ってきたのを思い出す。あれはあれで何か確かめたいものがあったのかもしれない。呼称というのもはそんなに重大なのかとギルバートは蜂蜜のようにとろけた目を瞬かせた。
「ギルバート、こっちだ」
エリオットがしきりに呼ぶ。そのくせ席は立たないから両手をついて身を乗り出す格好になった。そこへエリオットが吸いついた。触れる唇は柔らかくて、それを認識する前に潜り込んできた舌がギルバートの舌を吸った。ちゅくちゅくと互いに食むような口付けの水音がする。緩く巻いたギルバートの黒髪をエリオットがかきあげるように指で梳いて撫でる。そのまま頤と頬を抑えられて口付けが続いた。
「え、り」
離れた、刹那に吸われる。エリオットが満足してからギルバートはその場ではぁはぁと肩を揺らした。
「オレのこと、エリーって呼んでくれよ。貴様にエリーとを呼ばれるのが……好き、なんだ」
「俺のことを恨んでいないのか」
ナイトレイの由緒と歴史を背負った魔獣の支配権は、本来門外漢であったはずのギルバートが継いでしまった。本来であればエリオットにも機会を与えるべきであったそれは一方的すぎて、だからこそギルバートはエリオットにいつも申し訳なさのような劣等をい抱いた。
「オレ自身は固執していないから構わん。どうせお前も誰かに明け渡す。それよりオレは、今お前が、オレのことを呼んでくれることの方が重要だ」
「俺にはオズがいる」
「癪だが二番目でもいい。オレをお前の中においてはくれない、か」
上目づかいに潤んだターコイズに潤んだ蜂蜜は見据える。蠱惑的な双眸が二対、互いを見据えていた。
「ナイトレイでもあり、お前を殴ってばかりいた兄達に好かれているオレは嫌いか?」
「なッそ、そんなことは……ない。アーネストたちの気持ちも判らないわけではないし、蔑まれることに俺は多分、慣れている」
不意に蜂蜜色が哀しげに融けた。その金色はこの世の幸福も不幸も全てを知ってしまったかのように悟っていて、エリオットなどが手を出せるものではなかった。エリオットはそれがひどく哀しい。ギルバートがまるで遠くに行ってしまっているようで、ほらこうして手を伸ばせば触れるのにギルバートの本質はもっと遠い、どこかへ。それはひどく哀しくて泣き叫びたくなるようなものだった。胸をかきむしりながら慟哭したかった、
「エリオットは優しいんだな」
ギルバートはふわりと微笑む。ギルバートはエリオットの葛藤に気付いている。オズの従者として重ねた醜態が今ここで実を結び、秘されたエリオットの思いさえ暴いた。エリオットはギルバートをとても気にかけてくれている。それはひどく嬉しくてうれしくて、だからこそギルバートは喜べなかった。喜んだら、その刹那にそれら全てが手のひらから零れ落ちて行ってしまう気がした。ギルバートは優しくしてもらった経験が驚くほど少ない。記憶を全くなくしてゼロの状態でオズに優しくしてもらってすぐにオズを失い、ギルバートは一人になってしまった。その直後はナイトレイへの養子縁組。無論義兄と上手くいくはずもなく、門外漢がと罵られる日々が続いた。アーネストたちは最後までギルバートとヴィンセントを兄弟と認めはしなかった。実弟のヴィンセントとの再会も睦みあうと言うよりどこか親戚を紹介されたような縁遠さを感じ得なかった。ギルバートはいつも一人だった。だからこそこんな湿気た書庫へ何度も足を運んだのだ。
「馬鹿を言うなッ馬鹿にしているのかッ」
かっと口を開いて叫び机をドンと殴る。エリオットのそうした動作はどこか尊大でだが気品もあった。
「ありがとう、エリー」
ギルバートが薄く微笑み、エリオットはその白い肌を紅潮させた。目元や唇が得に紅い。
「判ればいいんだ、判れば」
ぶつぶつと呟きながらふいとそっぽを向いたままで頬杖をつく。気に入らなければ出ていけと怒号を叫ぶ彼の無言は受け入れの証でもある。ギルバートは机に頬杖をついたままエリオットを見つめていた。
「エリー」
「なんだ、ギル」
反射の様な返事であったがエリオットの熟考の結果であることは明白であったから、ギルバートは特に指摘も責めもしなかった。
物好きな金持ちに弟のヴィンセントごと買われるたびに名前は変わった。だからギルバートに、ギルバートという名に対する執着はない。だが。
「エリーにギルって呼ばれるのは、いいな」
率直な感想だった。価値のまるでなかったものが錦を纏うように価値を帯びた気がした。
「ありがとう、エリー」
お前は俺の価値を思い出させてくれた
お前は俺に価値をくれた
だからせめてと、分不相応に思うよ
《了》