まだ幼かったあの頃
特別な名前
ばったりと出くわしたそれは双方ともに不意打ちで、嫌悪や憤りより先に驚きが溢れ出た。ばちりと噛みあうそれは火花を散らし、刹那にほどける。目を逸らしたギルバートは靴先を凝視した。自分がこの家の血筋に好まれていないのは日々さらされる彼らの態度から知れる。醜態でもさらそうものなら容赦なく手を上げる彼らはまだ幼いエリオットにさえギルバートやヴィンセントを敬遠するよう言い含めた。ヴィンセントは煩わしくなくてちょうどいいなどと言い放つがギルバートは早々諍いなど好まないから、嫌われているのは少し堪えた。傷つくことを恐れる己はいつでも諾々としてきた。幼いエリオットにさえそういう態度を取ろうと身構えてしまう己の矮小さにうんざりした。
「ごめん、じゃあ」
逸らした目線を直さず立ち去ろうとするギルバートの手が掴まれる。子供っぽく火照って熱い体温が沁みてくる。浅葱色の双眸を煌めかせるその視線は揺るがずギルバートを見つめた。
「まて!」
甲高いような幼声は楽器のように鳴り響く。剣の稽古でもしていたのだろう体温の上がったエリオットの肌が桜色だ。ギルバートが得られなかった亜麻色の髪は色素が抜けているがそれでもなお艶を帯びてさらりと揺れた。
「…い、いっこききたいんだけど」
引きとめたことを恥じるように顔をうつむけるが、手は離さない。ギルバートは黙って続きを待った。人に従うことは待つことも多い。従属に慣れたギルバートは聞き手に回ることも多く、待つことは苦にならない。沈黙が下りてギルバートはエリオットの指先をどう解こうか思案した。義兄であるアーネストはこの幼い弟をことのほか可愛がっていてギルバートとともにいることを厭うた。アーネストはギルバートを一族としては認めないと言う態度を隠そうともしない。年も幼く純血であるエリオットが可愛くて仕方ないのも判る。ただエリオットを取り巻くそういった要素はギルバートにとっては厄介事の種でしかなく、早々に退散するのが賢い方法だった。
「…き、きいていい、か?」
ギルバートが頷くとエリオットが安堵したような顔をする。年長者に対して敬語を使わないのは兄弟であるという親しみなのか血統由来の軽視であるのか、ギルバートはあえて答えは出さなかった。ギルバートの目的は別にあるし負担にさえならなければ受け流すだけの経験もある。
「なんだい」
「ヴィンセントの事、なんでヴィンスって、呼ぶんだ」
ギルバートの金色の瞳がぱちくりと瞬いた。エリオットの白い肌がみるみる真っ赤になっていく。誤魔化すようにエリオットは次から次へと言葉を継いだ。
「アーネストたちはヴィンセントっていうのにお前だけヴィンスっていうし! ヴィンセントも、ギルって、ギルって短く、言うから」
「ヴィンスは弟だから」
「おれだって弟だ!」
ギルバートの返答にエリオットが噛みついた。満足な返答でなければ問い質すだけの気概をエリオットは持っている。白い皮膚の中で唇だけが澄んで紅い。エリオットの肌理の細かい肌や潤んだように煌めく双眸、汚れのない短髪は彼の生まれた高位を示す。ギルバート達のように底辺を這いずったこともなくこれからもないだろう。アーネストがエリオットを可愛がる感情はおそらくギルバートがヴィンセントを見捨てきれなかったことと微妙に呼応した。
「なんでヴィンセントばっかり! おれだって弟だ! だ、だから、おれのこと、エリーって呼んで」
「駄目だよ」
するりと入り込んだ声は冷徹にエリオットの好意を切り払う。呆気に取られて向けられた二対の視線の先で、金髪の少年が肩を怒らせた。左右違う瞳の色がめらりと燃える。
「ギルをギルって呼んでいいのは僕だけだよ。それに、エリオット、馴れ馴れしいよ」
「ヴィンス」
ギルバートの言葉にヴィンセントはにっこりと微笑んだ。金と紅の双眸が二人を舐める。ギルバートと揃いの蜂蜜色はとろりと甘く、紅はエリオットをはねつけるようにきつく、双眸が揺らめいた。
「エリオット、君、馴れ馴れしいよ。君にはアーネストたちがいるじゃないか。彼らといればいいんだ。僕達は僕達だけでやってゆくんだから君なんか要らないよ」
ヴィンセントの言いつける言葉には思いやりどころか容赦さえない。ギルバートが止めようとするのを逆手にとってヴィンセントが抱きついた。ヴィンセントの腕は細くギルバートを緩く拘束した。
「聞こえないの。僕は君なんか要らないって言ったんだ」
エリオットの双眸がきつくヴィンセントを睨んだと思う間もなくたちまち潤んだ。真っ赤に燃える唇を噛みしめて握りしめた手がぶるぶる震えている。ギルバートの手を取っていた手にまで力が入って少し痛い。気付いたヴィンセントは容赦なく攻撃する。
「手なんか握らないで。離してよ。そんなに力を入れたらギルが痛いじゃないか。さわらないで」
ヴィンセントは甚振るようにエリオットの指先を一本一本解いてゆく。年齢的な体力差が子供は明確でそれは優劣に直結する。年上であるヴィンセントの暴挙をエリオットに防ぐすべはなかった。
「…――ァや、だッ」
「いつも僕達に冷たいアーネストたちの仲間である君なんか仲間に入れないよ。早くそっちへ行っちゃえばいいんだ」
剥がし終えたところでヴィンセントは殊更強くエリオットの手をぶった。ばちんと音がしてエリオットが反射的に手を引っ込める。白い肌が紅くなる。
「ヴィンス! エリオット、ごめん、ごめんね? …――行こう、、ヴィンス」
この二人を突き合わせる危険性にギルバートが慌ててヴィンセントの手を取る。浅葱色がぽかんとギルバートを見つめる。その視線が痛かった。ギルバートはいつものように痛みに耐える心算だった。
「ギルが君をエリーなんて呼ぶわけないんだ。ギルには僕しかいらない! 君なんか要らないッ」
「ヴィンス! もうやめ」
「――ッうぁわ、あぁ、あぁぁあああああああ」
ボロボロこぼれる涙がエリオットのやわらかそうな頬を滑った。腹の奥で燃えた怒りは怒涛の涙となってエリオットの体を灼いた。溢れる涙と泣き声に呼吸さえ追いつかずにヒクヒクとしゃくりあげる。人前で泣くような性質ではないしそれだけの自負もエリオットにはあった。それでもそれらを一気に打ち崩すほどにヴィンセントの言葉は痛烈だった。
火がついたように泣き叫ぶエリオットを駆けだしたギルバートの腕が抱きしめる。ヴィンセントは腕が解かれたことにぽかんとする。ギルバートの手が優しくエリオットの亜麻色の髪を梳く。
「ごめん、エリー」
ひぐっと泣き声を抑えると困ったように笑うギルバートと目があった。布地が汚れることも気にせず抱きしめるギルバートの腕は細い。
「ヴィンス、言いすぎだよ」
ぷんとヴィンセントがそっぽを向く。
「どうでもいいけどアーネストたちが来たら厄介だよ。早く行こうよ、ギル」
ヴィンセントはエリオットを眼中外だと明確に態度で示す。ギルバートはよしよしとエリオットの頭を撫でてから離れた。濡れた頬を撫でてくれたギルバートの温い指先の感覚にエリオットの胸が高鳴った。
「ぎ、ぎる! ばー…と…」
叫びかけた言葉にギンッとヴィンセントが射殺すような眼差しを向けて、エリオットの声はしりすぼみになる。ギルバートが苦笑して無理はしなくていいよと言った。
「エリー」
ギルバートの唇や声がその名を紡ぐだけで胸が高鳴る。エリオットは動揺と興奮を押し隠して気まずげに目を伏せた。ギルバートもエリオットの状態を推し量ってそれ以上は踏み込まない。
「ありがとう」
きっぱりと、明朗な声でギルバートが告げる。エリオットの頬がほんのり染まってぶんぶんと首を振る。
「手が痛かったら手当てしてもらってくれないか? 本当に、ごめん」
言いながらギルバートがヴィンセントを引っ張っていく。ヴィンセントはおとなしげな容貌のわりに噛みつく性質だからそりが合わぬものとはとことん対立した。これ以上諍いや厄介に巻き込まれたくなかったギルバートはヴィンセントの言葉通り早々に退散することにした。
「ごめんね、ありがとう、エリー」
エリオットは頬を薔薇色に染めてプイと駆けだす。泣きだすのも泣きやむのも早いのは子供の特技だ。アーネストたちが駆け付ける気配もなく、ギルバートはほっと胸をなでおろす。
「ギル、どうしてエリーなんて呼ぶの。いやだよ。ねぇヴィンスって呼んで」
「ヴィンス?」
拗ねたように言い募るヴィンセントにギルバートは小首を傾げた。それでもギルバートが愛称を紡げば機嫌を直したかのように手を引いて歩きだす。
「ふふ、アーネストたちはこないよ。父様に呼ばれていたからね」
ギルバートが呆れたように嘆息する。つまりヴィンセントがあれほど強気に出たのはエリオットに援軍がないことを予期してのことなのだ。
「可哀想だよ」
「僕達の方が可哀想さ。あんな子供、相手にしないで」
ヴィンセントはちゅっと唇を乗せてくる。目を瞬かせて面食らうギルバートにヴィンセントはふふと笑った。ヴィンセントの過剰な接触も抱擁もギルバートは慣れている。
「僕はギルさえいれば他は何にも要らないんだ、だからギルも僕を見て」
「ヴィンス?」
「ギルに呼ばれるのってなんだかすごくいいや。もう一回、呼んで?」
「ヴィンス」
煌めく金色と紅がギルバートの体を射抜く。うっとりとしたそれにギルバートは表情も変えない。
「ギル」
ヴィンセントが唇をあわせてくるのをギルバートは抵抗もせずに受けれいた。脳裏でエリオットの浅葱色とヴィンセントのオッドアイとが二重写しになる。不慣れで淡いエリオットの温かみと肌に馴染んだヴィンセントの体温とが交錯する。錯綜するそれらの決着を、ギルバートはあえてつけようとはしなかった。
《了》