熱く濡れて息づく貴方が
そこにいるだけで、もう
80:きっと、これが幸せ
「藤堂さん!」
聞きなれた叫び声に今では目を向けるものなど誰もいない。叫び声の主とよく諍いを起こす千葉でさえ視線すら向けない。朝比奈は公衆の面前であることも忘れて藤堂に飛びついた。上背のあるその体のよくもまぁしがみつくものだ。そのまま藤堂は朝比奈をぶら下げたまま歩き出す。藤堂の方も慣れたものでいちいち小言を言ったり怒ったりしない。
「よかった無事で。変な奴に何もされませんでした? どこいってたんですかぁッ」
「いやゼロに呼ばれていてな。ところで朝比奈、変な奴とは」
「あのブリタニア人とかですよ」
怪訝そうな藤堂に朝比奈はとうとうと語って聞かせた。けれど藤堂は朝比奈をぶら下げたまま不思議そうな顔をするだけだ。男一人の体だ、それなりに重いだろうに藤堂は不満も言わずにぶら下げて歩いている。
朝比奈の目が眼鏡の奥で煌めいた。髪と同じ暗緑色の瞳。一見するとそれらは黒色に見える。目の上を走る傷痕。
「ディートハルトか。そう、か?」
「そうですよ、気付いてくださいよ」
首を傾げる様子に朝比奈が泣き声をあげる。そんな心配もよそに藤堂は考えておこうなどと嘯いている。天然がいくら考えたって答えは同じな気もするが。
藤堂はよほど差し障りがない限り部下である四聖剣の行動を制約したりしない。元来、藤堂は部下の一挙一動を気にするほど干渉してこない。それはいいことなのだろうが代わりに自身の行動にも口は出させない。それが顕著になったのは藤堂が捕らえられたときだった。藤堂は有無を言わせず自身を犠牲にした。そこに朝比奈たちが口を挟む余裕はなかった。
「藤堂さん」
朝比奈の言葉が思ったより遠くに聞こえて藤堂は振り返った。その頬にふわんと柔らかなものが触れる。熱っぽいそれは。藤堂の目が驚きに見開かれていく。その頬が見る見る朱に染まった。
「やだなぁ、キスくらいで照れないでくださいよ」
ケラケラと朝比奈が笑う。それはどこか道化た笑い方で。軽薄だと評される朝比奈が実は誰より思慮深いことを藤堂は知っている。それは片鱗すら窺わせない用心深さで。
「…朝比奈」
「なんですか? 藤堂さん」
眼鏡がきらりと輝いた。奥の瞳が悪戯っぽく煌めく。少年のように紅く色づいた唇が浮かび上がって見えた。目の上を走る傷が肉色に浮かび上がって見える。皮膚の薄いそこは彼が興奮するとそこだけ別物のように浮いて見えた。
藤堂はため息をついてベッドに腰掛けた。朝比奈も一緒にベッドへ飛び乗る。ギシリとベッドが軋んだ音を立てた。
「藤堂さん」
妙に艶めいた声に振り向く間もなく耳を濡れたものが這った。ぬるりと熱いそれがくすぐるように藤堂の耳を舐る。尖らせた舌先がまるで犯すように孔へ入り込んでくる。
「――…ッ」
逃げを打つ体を細腕が止めた。逃げる方へ体重を乗せてこれ幸いと勢いに乗る。ついには引き倒されるように二人してベッドになだれ込んだ。
「あ、朝比奈ッ」
「なんですか」
たまらず声を上げると耳元で朝比奈が喉を震わせて笑った。空気の振動が過敏になった感覚器官に感じられる。
濡れた音が耳元で響きそれが藤堂の羞恥を煽った。赤らんだ頬がさらに紅くなる。それは浅黒い皮膚の上からも判るほどに。禁欲的な藤堂はこういった行為には恐ろしいほど慣れていない。
「可愛いですね、藤堂さん」
吐く息が熱っぽい。台詞は妙に色気を増して藤堂を赤面させる。
「か、可愛いわけあるか…」
「あります。可愛いです」
朝比奈の歯が藤堂の耳朶を甘噛みした。やわやわと包み込むように口に含まれた上に甘く噛まれて藤堂は逃げ出したくなった。朝比奈を跳ね除けようと伸ばした手を取られ指を絡められる。指の股を朝比奈の指先が丹念に撫でていく。それはまるで犯されているような錯覚を起こした。
「こんな親父に可愛いなんていうもんじゃない…」
ふぅっと息をついた藤堂から朝比奈は唇を離した。藤堂の耳が唾液でてらてらと光を帯びていた。少し寄った眉根。鳶色の目が潤んで朝比奈をチロリと見た。朝比奈は思わず黙って藤堂の髪を梳いた。茶褐色の髪は硬く指先をはねつけるようだ。それはなんだか藤堂にひどく似ているような気がした。
つれない
人を寄せ付けない
藤堂の上に覆いかぶさってただ髪を梳く。藤堂の上に落ちた影が表情をほのかに隠した。
「朝比奈」
「は」
開いた口の隙間に熱く濡れたものが潜り込んできた。それが舌なのだと、口付けられているのだと気付くと同時に藤堂は離れていった。
「藤堂さん」
朝比奈が泣き笑いのような顔を見せる。
「あぁもう、ホント、可愛い人ですよね」
藤堂の厚い胸に頬を寄せて朝比奈が呟いた。
あぁ、幸せだなぁ
「だから、可愛いなどというな」
「嫌です。だって事実ですもん」
頬を摺り寄せると藤堂の鼓動が聞こえるような気がした。少し早い鼓動。確かに生きている熱がそこにある。
「藤堂さん」
藤堂は返事をしない。それでも朝比奈は言葉を紡いだ。藤堂は人のことを意識的に無視したりしない。それはたとえ敵であっても味方であっても変わらない。そこに敵味方の区別をつけない人柄なのだ。
「藤堂さんは」
朝比奈は祈りの言葉を呟くように口を開いた。
「藤堂さんのままでいてくださいね」
それは祈るように懺悔するように許しを請うように。ただただ、真摯に真っ直ぐに。
「…変な、奴だな」
不思議そうな藤堂の顔が浮かぶようだ。声色が疑問に満ちている。朝比奈が猫のように喉を震わせて笑った。幼い外見とあいまってなんだが不思議な感覚を見るものに与える。
「変でいいです。藤堂さん」
朝比奈の喉が震えた。
「好きです」
触れた箇所から融けていきそうなほど
貴方を愛している
あぁなんて
幸せなんだ、ろう
《了》