頼ってくれる?
それとも別の何か?
79:酔っているだけ
突如として響いたけたたましい音にシャーペンの芯がぽきりと折れた。書き損じたところを消すと一護は慌しく椅子をけ立てて階下へ降りた。時間帯を考えない騒音の元凶が玄関にいた。
「親父!」
「いっちごー!」
びしぃっと敬礼する一心に一護は思い切り蹴りを入れたくなったがすんでのところでそれを堪えた。連れがいた。騒ぎ立てる騒音も何のその、眠りかけているのがその垂れた手足から窺えた。一護は一心を思い切り睨みつけた。
「親父! 遊子も夏梨もいねーのに客を連れてくるんじゃねぇッ!」
「一護、心が狭いなッ気にするな!」
「あほかぁッ」
だっはっはと景気よく笑う一心に鉄拳を見舞っておいて連れの体を受け取る。一心は崩れ落ちるようにしてその場で眠り込んでしまった。
「お、親父ッ」
くたりと力を失った体は思いのほか重量を感じる。一護は必死に台所まで引きずったがそれが限界だった。丁寧に横たえると腕を振り回す。肩の骨がコキコキと鳴った。
「…ん、ぅ」
客人が身じろいだ。ぐでんぐでんに酔っ払っているらしくその目が虚ろだ。けれどその容貌に一護は仰天した。
「い、石田の親父さんッ?!」
同じクラスの石田雨竜の父親である。挨拶を交わした程度だが忘れられるものではない。雨竜とよく似て整った容貌は怜悧で目を引く。灰蒼の艶を放つ髪と薄氷色の瞳。かけている眼鏡は今は酔っている所為か少しずれている。それでもその容貌を損なうことはなくむしろ色気すらかもし出している。ほえーんとした顔は普段の彼からはうかがい知れない表情だ。息子の雨竜だって見たことがあるかどうか判らない。
「で、電話」
雨竜に思いがいたって一護の思考が初めてまともに働いた。父親の一心はともかく竜弦をこのままここに転がしておくわけにもいかない。一護はうろ覚えの雨竜の電話番号を押した。
『はい』
「石田か?」
怜悧な声。竜弦を窺い見ればまだボケーと辺りを見回している。
「オレだけどな、その」
『黒崎? こんな時間になんだ』
一護はガシガシと頭を掻いた。電話の向こうだから姿は見えないのに何故だか緊張してしまう。雨竜の声はどんな妥協も許さない構えだ。
「実はお前の親父さんが」
『竜弦のことなら僕には関係ないね』
皆まで言う前にズバリと言い切られた。思わず言葉に詰まった隙をついて雨竜は言葉を放つ。
『関係ない』
「いやあの、な? 石田、お前の親父さんが」
『だから、関係ないといっただろう。竜弦のことなんか知らないよ』
ガチャンと思いっきり乱暴に通話が終わる。思わず受話器を握り締めて呆然とする一護を竜弦の声が現実に引き戻した。
「ここは、どこだ」
「クロサキ医院っす!」
受話器を放り出して駆け戻ると竜弦がキョロキョロと辺りを見回していた。
「あぁ、すまない…」
酔っているのか白い頬が紅潮している。唇は熟れた果実のように紅い。肌が白いだけにそれはひどく目立った。一護がそのタイを緩めて襟元をくつろげてやると竜弦は息をついた。ついでにベルトも緩めてやる。楽になったらしく竜弦の態度や表情がいくらか緩和された。
「すまない…」
「い、いえッ」
ブンブンと勢いよく首を振る。覗く鎖骨の中心は綺麗にくぼんでいる。浮き上がった鎖骨が妙に色気を振りまいている。その肌は日に焼けていなくて驚くほど白かった。
一護は誤魔化すように立ち上がるとコップを出して水を注いだ。透明な水は柔らかくコップの中へ溜まっていく。床に座り込んだままの竜弦の元へそれを差し出した。竜弦はその容貌からは想像できないほど素直にそれを受け取り口をつけた。
「ありがとう」
うっとりと微笑まれて一護の顔が紅くなる。それを振り払うように一護はもう一つ分、水を注いだ。大袈裟な動作でコップを空けては水を注ぐことを繰り返す。
ふと目をやると竜弦の顔が青白い。唇は色を失い噛み締められている。酔って帰ってきて気分でも悪くなったのだろうか。一護が屈んで方向を指し示した。
「トイレならあそこに」
「すまな」
竜弦の言葉がそこで途切れた。真っ直ぐトイレに向かうと竜弦が吐瀉する音が聞こえてきた。屈みこんでいる竜弦の背をさすってやる。家で医者をやっていることが功を奏したのかこういった処置には慣れている。吐き出すだけ吐き出してしまうと楽になったのか竜弦の顔色が戻ってきた。
「本当に、すまない…」
「気にしなくていいっすよ。どうせ親父が飲ませたんだろうし…」
レバーを引いて吐瀉物を流す。まだいくらか蒼白い肌はまるで陶器のようだ。乱暴に扱ったら壊れてしまいそうな危うさを持っている。顔立ちが整っているだけに余計に人形染みて見えた。一護は台所まで戻ると床に置きっぱなしのコップに水を注いで竜弦に渡した。
「口、ゆすいだ方がいいっすよ」
「…ありがとう」
口をつける唇に目がいく。口をゆすいで吐き出す一連の動きを見るともなしに見ている。白い首に尖った喉仏が見えた。今はくつろげている襟元。
気付くと竜弦と視線が合った。気まずげに顔を逸らす一護に竜弦はゆったりと笑った。
「…君は優しいな」
「…そ、そッすか…」
思わずうろたえてしまう一護の耳に一心のいびきが聞こえてきた。誤魔化すように一護はそちらへ向かう。
「起きろクソ親父ッ」
がっくんがっくんと揺すっても首が壊れたように揺れるだけで一向に起きる気配がない。
「当分起きないだろうな」
後ろを振り返れば竜弦が立っていた。痩せた体。細い手首が妙に目を引いた。
「小父さん」
「いつもそうだ。飲むだけ飲んで後は寝る」
竜弦がポケットを探ったがふと手を止めた。確かめるように一護を見る。
「煙草を吸ってもいいかい」
「…はい」
まさか嫌だとも言えずに一護は頷いた。髪の色の所為で不良に見られがちな一護だがその実真っ当な生徒だ。だが合法的に煙草を吸える男を前にして嫌だというのもなんとなく子供染みた気がした。
「体、大丈夫ッすか」
「吐いたら楽になったよ」
笑って煙草を咥える仕草が様になっている。白く細い指先が優雅に煙草を引き抜き、紅い唇に咥えて火をつける。以前見た一心が煙草を吸う仕草とは似ていない。竜弦が喫煙する姿はどこまでも優雅という言葉の中にあった。
潤んだ薄氷色の瞳がジッと一護を見つめている。いたたまれなくなって立ち上がった一護の腕を取る。ふわりと、唇が重なった。煙草の所為か絡んだ舌先は少し苦かった。
「――…ッ」
先ほど吐瀉した影響か、その瞳が濡れたように潤んでいる。まるで水面のように揺らめいている。見るものを威圧する眼光は鳴りを潜めて今はただ潤んでいる。
「…ッお、小父さ」
ぐらり、と竜弦の体が傾いだ。
「お、と、とッ…」
しなだれかかってくる体を受け止めてバランスを取る。力の抜けた体というのは思ったより重みを増している。すっかり力を失った体を抱えて廊下に座り込む破目になってしまった。火の点いた煙草を取り上げ持ち上げる。ジジッと音を立てて煙草が燃えた。懐から滑り落ちた携帯用灰皿に吸い差しを突っ込む。
白い目蓋が閉じられている。眼鏡がカシャンと床に落ちた。眼鏡がないと思ったより童顔に見える。
「人形みてぇ…」
目蓋に触れる。やわやわとした眼球の感触に思わず指先を引っ込めた。触れたら壊れてしまいそうな脆さ。血の通っている体のだと言い聞かせても、この体を前にしては現実味を持たなかった。人形だといわれた方がまだ説得力がある。
すっかり寝入ってしまったのか、上下する胸と同じリズムの呼吸音がした。一護は思わず途方にくれた。酔っ払い二人を前にしてしがみつかれたまま動けなくなってしまった。
「小父さん…」
竜弦の肩を揺すってみるが効果はない。人形染みた寝顔が揺れるだけだ。しこたま飲んできたらしく息が酒臭い。玄関では一心がひっくり返っている。
「反則だぜ」
紅い唇へそっと唇を重ねた。熟れた果実のようなそれはひどくやわくて儚いもののように思えた。酒の所為か少し体の末端が熱を帯びている。手を握ればほのかな体温が感じ取れる。一護は竜弦にしがみつかれたまで変な風に曲がった関節を調整して楽な姿勢をとった。姿勢を楽にしてしまえば苦もない。しがみついてくる体は温かだ。その細い体を抱きしめる。
「小父さん、反則だぜ、こんなの…」
今の竜弦はされるがままだ。抵抗もない。身じろぐ竜弦の腹が見えた。へそが覗いている。それを隠すように乱暴に手を伸ばす。綺麗に湾曲した鎖骨が呼吸で浮き上がる。白い肌は上気して桜色になっている。酒臭ささえ除けば、据え膳だ。それでも一護は手を出しあぐねていた。
すっかり一護を信用している体を抱きしめる。一護は玄関先で夜明かしすることを覚悟した。二人分の寝息がこだます。一護は黙って天井を仰ぎ見た。
こんな風に接してくれるのはきっと
酔っているから
それだけ
《了》