意識せずに日々をすごすそれらは


   78:古い約束

 熱気を含みながらどこか清冽な空気が道場に満ちていた。稽古も終わろうかという気怠さを皆がまとう中で一人凛とした男。大きな碧色の瞳は男から離れなかった。
「次!」
朗朗と響き渡る声には一本芯が通っているかのように。揺るがない声。スザクはその男に視線を合わせる。
 藤堂鏡志朗。浅黒い肌をもち、茶褐色の髪に鋭い眼光。瞳は鳶色をしている。一文字に結ばれた口元はきちんと締まっていて見苦しくない。何よりまとう空気が違う。師事されるだけあって男は皆の扱いに慣れていた。理屈をこねても駄々をこねても男は揺らがない。理屈には理屈で応じ、駄々をこねれば滔滔と諭す。経験も知識も豊富らしい男はスザクの目を引いた。
 藤堂にまとわりつく青年がいることにスザクは気付いた。藤堂の行くところ視界の端々に滑り込んでくる彼は用意周到でけして目立たず、けれど確実に藤堂の近くにいた。
「あさひな」
スザクがその名を呟いた。朝比奈省悟。細ッこく見える体はバネのようにしなやかだ。瞬発力もある。丸い眼鏡をかけていてインテリに見えるのに運動神経もなかなかのものだ。それがスザクの機嫌を悪くしていく。
 藤堂に劣っているわけではないし、不釣合いだとも思わない代わりにお似合いだとも思わない。それより何よりスザク自身がそう言ったことに口を出せる身分ではないことは判っていたがどうしても厳しい目で品定めしてしまう。藤堂に師事するものとして朝比奈の存在は喉に刺さった小骨のようにいつまでも引っかかった。喉が動くたびにその骨は痛みを伴って肉を裂いていく。
 「先生」
稽古を終えて汗を拭う藤堂の元へスザクは駆け寄った。藤堂はゆったりと微笑んで相手をする。相手に関わらず態度を変えない藤堂は相手が幼子でもこうしてきちんと対応してくれる。
「なんだい、スザクくん」
 ピンピンと巻き毛の毛先が跳ねている。栗色の髪。大きな碧色の瞳は真っ直ぐ藤堂を見ている。まだ幼いながらも整った顔立ちで、何より枢木ゲンブの子息だ。それに彼自身も聡明であり、手を抜いて対応すれば否応なしにしっぺ返しが来る。
「先生」
スザクは真っ直ぐ藤堂に言った。

「オレ、先生が好きです」

その内容に藤堂は度肝を抜かれた。子供の言うことだから聞き流せばいいのだがそんな器用な芸当は身に付けていなかった。何より訳隔てなく接する藤堂に手を抜くなどということはできなかった。呆気に取られている藤堂を尻目にスザクはさらに言葉を綴った。

「先生、だから、オレのものになってください」

それはどういう意味だと聞けなかった。
 固まっている藤堂をスザクはジッと見つめている。その視線はまるですべてを暴こうとでもするかのような熱心さでもって。彼のためにかがめた腰が引きつる。不自然な姿勢に稽古に疲れた体は悲鳴をあげていたが藤堂の意識はそこになかった。スザクの言葉の意味は幾重にもわたって藤堂を悩ませた。子供のことだからと相槌を打って受け流すのは今となっては無理だったし、何より何事にも真正面から向き合う藤堂には望むべくもなかった。
 「ス、スザクくん」
「はい!」
思わずどもる藤堂とは逆にスザクは明朗とした声で元気よく返事をする。汗の滲んだ額。輝く瞳。顔立ちも綺麗でとても愛らしい。その顔が見る見る成長していく。立派な青年となったスザクは凛々しい顔で言った。
 「先生」
通る声。まだあどけなさを残しながらも顔立ちは立派な青年だ。目線の位置もいつの間にか変わっている。白いパイロットスーツに身を包んだスザクは無造作に言い放つ。
「オレのものになってください」
「スザクくん」
変わらないのは藤堂がスザクを呼ぶ呼び名くらいだ。その手が延びて藤堂の頬を捕らえた。言葉を言う間もなく唇が重なる。何か言おうと開いた隙間から容赦なく舌先が潜り込む。逃げを打つ舌を捕らえて唾液を流し込む感覚は妙にリアルで藤堂の熱を呼び起こす。その指先が藤堂の襟元を緩め肌蹴ていく。
「ス、スザクくん!」
慌てた声がかすれる。スザクはそんな声など聞こえないかのように指先をすすめていく。慌てた藤堂がもがく。その指先は重く、手脚はまるで鉛のようだった。もがくほどに沈み込み、終いには動くことすら煩わしく、その微睡みに身を沈めたくなる。
 「スザク、く…」
それでも抗う藤堂の舌に熱く濡れたものが絡む。ぬるぬるとしたそれは藤堂の舌を吸った。舌まで封じられて藤堂になすすべがなくなった頃、いつもそばにいた朝比奈の顔が脳裏をよぎった。気付けば口付けているのは朝比奈でスザクの姿はどこにもない。熱く濡れた舌が妙に現実味を帯びて動き回っている。
 「あさひ、な」
重い口でその名を呼ぶとやわやわとしたものが唇に触れていた。目を瞬くと目の前にある朝比奈の顔が次第にクリアになっていく。眼鏡の感触が妙に冷たく藤堂の意識をよみがえらせた。
「あ」
唇を動かすと柔らかで熱いのが朝比奈の唇だと知れた。

口付けられている

「ん、んー!」
藤堂の腕が妙に軽く動いた。その腕がバシッと朝比奈の頭を叩く。
「いったーい」
朝比奈がついに唇を離して呟いた。
「あ、朝比奈ッ」
「あ、起きちゃった」
朝比奈は悪びれずにそう言うと笑った。跳ね起きる体はベッドに横たわっていてそういえば眠っていたのだということを思い出した。
 「朝比奈、一体何を」
「だって藤堂さん声かけても起きないんですもん。いいかなーって」
へらっと朝比奈が笑う。悪気のないその笑みに藤堂はガックリ脱力した。それをものともせず朝比奈はにっこにっこと笑っている。チロリと藤堂が目線をあげる。
 朝比奈の顔で一番に目が行くのは目の上を走る傷痕だろう。彼が興奮すれば肉色に浮かび上がるそれだが今は皮膚の中に埋没している。丸い眼鏡をトレードマークのように昔からかけている。その所為か顔立ちはひどく幼く見える。歳若い所為もあってかまるで学生のようだ。童顔だといわれる日本人の中でも部下である四聖剣の中でもそれが顕著だ。
 「朝比奈、何を」
「だってー揺すってもぐっすり寝ちゃってて起きないから。どうすれば起きるかなと思って」
言葉もない。藤堂は感じた疑問のままに言葉を紡いだ。
「朝比奈、お前は『オレのものになれ』と言ったか?」
朝比奈が刹那、泣きたいような顔をした。思わず藤堂が発言を悔いたほどだ。目を瞬かせる藤堂に朝比奈は肩をすくめた。

「言いましたよ。あのちびもね」

「ちび、とは」
「枢木スザク」
藤堂の疑問に朝比奈は即答した。苦々しげなのがその口元に現れている。唇を歪める癖は直っていない。
 「何をそんなに怒っているんだ」
「藤堂さん、それをオレに訊くんですか」
朝比奈が藤堂を責めるように真っ直ぐ見た。その視線はまるで在りし日のスザクのようで。よく考えればあれらは夢だったのだと知れる。スザクが幼かったのはもう何年も前の話だ。今では立派に成長し軍人として名をはせている。
 「藤堂さんて、結構罪作りな人ですよね」
朝比奈が唇を尖らせて不満げに言った。藤堂は首を傾げるばかりだ。
「そうか」
藤堂が初めて悪戯っぽく笑った。

「…じゃあ私はどちらのものになればいいのだろうな」

朝比奈が藤堂を押し倒した。
 「オレのものになってください、オレのッ」
意気込む呼吸が荒い。細い肩が荒々しく上下している。暗緑色の切りそろえられた前髪がサラサラと流れている。髪と同じ色をした瞳はなんだか潤んでいるように見えた。
「朝比奈」
「藤堂さん、絶対オレの」
「落ち着け」
「落ち着いてますッ! 絶対絶対、オレのものになってください! 大切にしますからッ」
眼鏡がズルリとずれた。それを直そうともせず朝比奈は藤堂を見つめている。
 「…スザクくんは、こんな約束などもう覚えていないかもしれないな」
「オレは覚えてます。絶対絶対、忘れたりしません。それに」
朝比奈が妙に自信満々に言い切った。

「あんなちびに藤堂さんを渡したりなんかしませんッ!」

藤堂は堪えきれずに笑い出した。体を震わせて笑う藤堂の様子に朝比奈が非難めいた声を上げる。それは歳若く未熟でなおかつそれが魅力にもなりえる青年の顔をしていた。
「藤堂さぁん!」
「いや、すまん」
謝りながらも藤堂は肩を震わせ口元を歪めている。朝比奈はたまらず藤堂を押し倒した。
「笑うことですかッ」
「すまない」
藤堂はそれでも笑い続けた。懐かしいあの頃がまだその辺りに転がっているような気がした。

記憶の彼方に触れる古いそれは
もう古びて擦り切れた、それ


《了》

微妙! 微妙すぎるこれ!            05/19/2007UP

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