たまには、いいだろう?
77:わかれ道
部活を終えて暗くなりはじめる空を見上げた。忘れ物を取りに教室へ向かう。急ぎではないがどうもこういったことは早く済ませたい性質だ。教室の扉を開くと自分の席にひどく目立つ容貌の彼が座っていた。
「…黒崎」
鮮やかな橙色の髪。茶褐色の瞳。寄せられた眉根は彼が不機嫌だからではなく、それが彼の常態なのだからだと知っている。椅子の背もたれに背を預け、目的のノートを開いている。
「人の席で何をしているんだ君は」
「忘れ物だろ? 取りに来ると思ったぜ」
雨竜の眉根が寄る。それを誤魔化すように指先が眼鏡を押し上げた。ぽいと軽く放られて雨竜は慌ててそれを受け取った。ページを開けば余白に要点が書き込まれている。授業中に書き損じた部分だ。雨竜の目が一護を見た。
一護はもう既に鞄に手をかけていた。
「君は待ってる間に何していたんだ」
「どうせ帰ってやったって一緒だろ? 復習って奴だよ」
「人のノートを使うもんじゃない」
ノートをしまうと立ち去るのを一護は追いかけてきた。
「なんだよ一緒に帰ろうぜ」
「…それが目的か」
チロリと目線を向けると一護が笑んだ。挑戦的なその笑みに雨竜の眉が寄る。フンと顔を背けて歩き出す。
「好きにすればいい。…帰る方向が同じなだけだ」
「オッケー」
二人は歩調をあわせながら会話を交わさない。一護も無理に口を利こうとしない所為か二人の間には沈黙が重い雨雲のように垂れ込めた。雨竜は一護を窺い見たがそ知らぬ顔で歩いている。沈黙も苦になっていないようだ。雨竜はますますいたたまれなくなった。それを誤魔化そうと取り出したノートを開く。歩きながらは危ないし頭に入らない。判っているがちょうどいい本も持ち合わせていない。いっそ嘘をついて一護だけ先に帰らせようかとも思ったが、部活が終わるまで待っていた一護だ。また待つと言われてはどうしようもない。
白い紙面に見慣れた字と彼の字が同居している。勢いのよい字は彼の人柄を表しているようだ。神経質にすら感じる己の字とは格が違うといわれているようだった。思わず落ち込みかけるのが雨竜の足を鈍らせた。半歩、一歩と下がっていくのを一護は気付いたがあえて言及しなかった。自分が彼より劣るとは考えない。だが自分が彼より勝るとも思えなかった。
「なんだってまた」
雨竜の声は思いのほかよく響いた。一護は何も言わずに前を見ていた。少し砕けた姿勢で鞄を背負う腕は雨竜のそれより筋肉質で男らしい。ぺラリと何気なくめくった最後のページ。雨竜の目が見る見る見開かれていく。思わず顔をあげるが一護は気づいた風でもなく前を歩いている。何か言おうとした瞬間、一護が不意に足を止めた。そのことに驚いて雨竜の言葉が飲み込まれる。
一護が振り向く。一連の出来事を潜り抜けて顔つきが心なしか精悍になっている。
「じゃ、オレこっちだから」
そう言って指し示す指先はわかれ道を示していた。喉の奥が熱い。何か飲み込んだかのように言葉が出ない。何も言わない雨竜を見て取って一護は歩き出す。その背中にぶちまけるように声がほとばしり出た。
「ま、待て黒崎ッ!」
その叫びに一護は足を止めて驚いたように振り返った。茶褐色の瞳が不思議そうに雨竜を見た。思わず雨竜は目を逸らす。それでも言葉がほとばしるように出続けた。
空がそろそろ夜に沈んでいく頃合だ。薄い闇が広がりつつあった。
「ゆ、夕飯でも食べていかないか」
ぽかんとする一護の様子に雨竜は自身の不出来を呪った。もっといい理由など探せばいくらも出てくるだろうによりによってこれだ。
「ノートを見ててくれたみたいだし、その」
言葉が上手く出てこない。まるで馬鹿みたいだ。何をそんなに焦っていると自問しながら気ばかり急いだ。普段の冷静沈着のイメージはどこかへ吹っ飛びただ無駄に言葉を紡いだ。思わずため息が出る。その呼吸で落ち着いたのかようやく冷静さが戻ってきた。
「ただ、思っただけだ。だから」
言い訳だと判っていた。判っているだけに余計始末に悪い。いたたまれなくなるような罪悪感に雨竜の指先が震えた。
「…嫌なら、いい」
たまらず言った言葉にフイに気が楽になった。顔を背けると視界から一護の顔が消える。顔が火照る。赤面しているだろう事が知れてさらに落ち込んだ。とんだ醜態だ。
目を上げると一護は駆け出していた。
「くッ黒崎?!」
張りのある声が夕闇の中、響いた。
「家に断ってくる! テメーやっぱりなしとかなしだかんな!」
勢いよく鞄を跳ね上げて駆け出す背中がひどく喜んでいた。一護を食いはぐれさせないために雨竜は夕飯の献立を考え始めた。その時になって一護の好物も知らないのだと気付く。ろくに口を利いたこともない仲だったのだ。仕方ないとひとりごちる。
見上げれば空が夕闇から変わろうとしていた。部活で遅くなったのを何も言わずに一護は待っていた。その優しさが、なんだかひどく愛しいような気がした。味わったことのない感覚。食事を誰かのために作るというのも久しくない。
「たまには、いいかもしれないな」
雨竜はわかれ道で足を止めた。今度は雨竜が一護を待つ。これで貸し借りはなしだと呟きながら待ち時間は苦にならないだろうことが判っていた。
「早く来い、黒崎」
別れがたかったのだ
いつもの道が
いつものわかれ道が
でも今日は、少し違う
ノートの最後のページに書き記された言葉
『一緒にいたい』
《了》