ひと時の逢瀬
その代償はあまりにも大きな
74:隠し部屋
ガシャンと皿が砕ける音が響いた。日々の勤めを終えて帰宅した竜弦を待っていたのは怒り狂った息子だった。夕食の乗った皿が床で無残な姿を晒している。
「なんだ」
不機嫌そうな竜弦を雨竜が睨みあげた。その深い蒼色の瞳が潤んでいた。憤然として顔を背ける雨竜に竜弦は言った。
「片付けろ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに雨竜の拳がテーブルを殴りつけた。まだテーブルの上に残っていた食器がカシャカシャと触れ合う音をさせた。コップが倒れて転がる。中身が零れて床に滴るのを竜弦は妙に冷静に見つめていた。
「な、んで」
雨竜の声がかすれた。艶やかな黒髪を払って雨竜は竜弦を睨んだ。
「なんで、キスなんか…ッ」
竜弦の柳眉がつりあがっていく。雨竜の眼差しに険が含まれていく。それは竜弦を責めた。
「覗き見か」
驚くほど冷静な声に雨竜の方がたじろいだ。竜弦は表情一つ変えていない。ただ冷徹に。
「ずいぶん、下衆な真似をするようになったものだな」
「下衆はどっちだよ!」
雨竜の声はまるで悲鳴のように甲高く響いた。変声期前の声はまだ時折裏返る。
「仕事場で、ずいぶんじゃないか!」
雨竜の手が竜弦の胸倉を掴みあげる。まだ成長の過渡期にある体は手脚ばかりがむやみに長い。握り締めている手がぶるぶると震えている。
「…お前に」
竜弦の声は震えなかった。怜悧な眼差しが雨竜を射抜いた。
「関係ない」
雨竜の目が見開かれたと思うとギリッと唇を噛み締める音がした。
「僕には、触れてもくれない、くせに…ッ」
慟哭するように雨竜の喉から声が絞り出される。
「抱きしめても、くれないくせにッ!」
竜弦は乱暴に雨竜の手を解いた。勢いに雨竜がよろめく。眼鏡の硝子が煌めいた。
「お前を下衆な真似をするような奴に育てたつもりはないが」
「今はそんなことをいってるんじゃないッ」
泣き叫ぶような声が耳をつんざく。雨竜の手が伸びて竜弦の胸倉を掴む。同時に伸び上がった雨竜と唇が重なった。子供体温の唇は熱く、熟れたように紅い。竜弦の目が見開かれていく。悪戯っぽく舌先が竜弦の下唇をなぞり、甘く噛んで離れていった。
「僕だって、触れたかったんだッ」
雨竜の蒼い瞳が煌めいた。窺うように、どこか狡猾に。
「竜弦」
刹那、竜弦の腕がしなり雨竜の頬に平手を炸裂させた。乾いた音が響き、雨竜が床に倒れこむ。白い頬が見る見る青紫に腫れあがっていく。雨竜は血の混じった唾を吐いた。
「部屋へ戻れ。話す事はない」
それでも雨竜はぐだぐだとそこに留まった。弾き飛ばされた勢いのまま床に座り込んでいる。その目が挑戦的に竜弦を見る。
「そう、呼ばせてたじゃないか。どうして僕は駄目なのさ」
「もう一度打たれたいのか」
竜弦の指先がコップを戻す。すっかり中身をぶちまけたコップはキラキラと輝いた。雨竜が竜弦を睨むように見つめている。眼鏡は飛ばされて少し離れた場所に落ちていた。竜弦は黙って散らかったものを片付ける。割れた皿を新聞紙に包んで不燃物のゴミ箱へ突っ込む。
「竜弦」
「よっぽど打たれたいらしいな」
雨竜がふらりと立ち上がる。その顔は熱でもあるかのようにわずかに紅い。頬は打たれて赤紫に腫れあがり、見るものに痛みすら感じさせるほどだ。
「竜、弦」
竜弦は容赦しなかった。バネのようにしなった手が雨竜の頬を再度、打ち据えた。
「あの男には呼ばせるくせに」
どこか恨みがましく雨竜が言った。雨竜の目が涙に濡れて煌めく。深い蒼が水面のように揺れ動く。唇の端が切れたのか出血している。眦から溢れた水気が盛り上がったかと思うとぷつんと途切れて頬を伝った。
雨竜の目が何か決意でも秘めているかのように強く竜弦を見据えた。ふらつく脚のまま眼鏡を拾う。かちゃっとかけ直すといつもの雨竜だ。違うのは頬がひどく腫れているところか。見ているだけで痛い。
「僕は絶対に、諦めない」
そう言う雨竜の眼差しは強く、て。それは突き刺さるように。その視線を振り払うように竜弦は自宅を後にした。ただ無我夢中に病院へ舞い戻った。どこまでも雨竜のあの眼差しが追いかけているようで。気付けば院長室で呆然としていた。何が怖いのだろう何を恐れているのだろう。ギシリと軋む椅子から腰を上げる。院長室を出て隠し部屋へと向かう。隠し部屋に入って初めて煙草を取り出す。咥えて一本引き抜くと愛用のジッポで火を点す。深く吸うと肺に広がる感覚に酔った。ささくれ立った気分がわずかだが収まる。
「見られていたのか」
院長室で口付けていたことは事実だ。その点では雨竜を責められない。けれど雨竜は黙っていた。それを家に帰った時点で持ち出されても困る。ふぅッと白煙を吐き出す。思い出す。
触れた唇。熱い唇。院長室では駄目だといったらこの隠し部屋に移動した。雨竜の眼差しはどこか似ていた。逃げを許さない目だ。
「まったく」
竜弦の口角がつり上がって笑いをかたちどった。可愛くない。恐ろしいほど、己に似ている。
「少し、離れるか」
竜弦は心中で相手の男の名を呟いた。煙草を咥えて一息吸う。ふぅッと吐き出される白煙が天井に向かっていく。たまにはお預けを食わせるのもいいかもしれない。
「この部屋もご無沙汰になるかもしれないな…」
竜弦の目が部屋を見渡す。じぃんと今になって手が痺れた。雨竜の頬を打ち据えた手だ。
「今、頃…」
ギュウッと手を握る。打ち据えた手は今になって痛かった。打たれた雨竜はもっと痛かっただろうと思うと心が痛んだ。それでも。竜弦の淡い蒼色の目が煌めいた。
「はは…」
渇いた笑い声。竜弦は痺れた手を強く強く、握った。
《了》