それは二人だけのひそやかな
72:二人の秘密
非合法に喫煙していたときのくせが抜けない。もう既に合法的に喫煙できる歳になっているというのに何故だか隠れて吸うくせが抜けない。ふうっと吐き出す息が白い。白煙は漂うようにゆっくりと天井へ上っていく。それを目で追う。
昔、学校の裏手で吸っていたのを見咎められたことがある。それを見つけた彼は教師に言いつける代わりに箱を催促した。渋々箱を渡すと彼は一本だけ抜いて箱を投げて返してきた。手馴れた風に安物のライターを取り出し火をつける。一息吸う、その仕草から彼が常習的に吸っているのだと知れた。それから時折思い出したように煙草を催促された。けれどそれを他人に気付かせるほど野暮でもなく、二人だけのときはどちらからともなく吸うようになっていた。
吐き出した白煙が消えていく。予感がしていた。こんな風に吸っているときは郷愁にも似た思いがよぎることがある。不意につんざくように電話の呼び出し音が響いた。受話器を取ると受付嬢の困ったような声が聞こえてきた。
『院長、クロサキ医院の黒崎様よりお電話が外線で』
「…つないでくれ」
交換する間の間に覚悟を決める。今日は外出する羽目になるかもしれないと思って仕事を片付けておいてよかった。急ぎの仕事も複雑な手続きが必要な患者も幸いなことにいない。かすかな違和感を生じさせて線が繋がる。
『よぅッ! 元気でやってっか?』
無意味に大きな声。その身振りまでもが想像できるようだ。
「何の用だ」
『つめてぇ! お前ホント冷たくねぇか?!』
竜弦の眉が寄る。本人が目の前にいないだけに不機嫌さを隠そうともしない。
「用はなんだと訊いている」
『…なぁ』
不意に声が真面目になる。思わず何がくるかと身構え、それに気づいて渋い顔をする。こんな男のことで何故こんなに頭を悩ませなくてはならないのか。
『ウチに来いよ』
「ウチって…お前の、家にか」
思わず聞き返すのを一心は笑い飛ばした。
『子供たちは皆外泊でいねーんだよ、なぁいいだろ』
聞き返されて言葉に詰まる。書類仕事も終わらせてある。今日明日にも急変しそうな患者も幸いなことに見当たらない。容態は油断ならないが今日は早く帰って大丈夫だと婦長から太鼓判を押されている。断る理由はない。
「私が、何故」
『お前に会いたい。抱きたい』
直裁的な言葉に竜弦のほうが言葉を失う。思わずずり落ちそうになる受話器を慌てて握り締める。狼狽しているのが痛いほどに感じられる。自分でもどうかと思うほど動揺している。
『慌ててんだろ』
「…違う」
からかうような響きの声に思わず言い返した。実際は言われたとおりだ。おかしいほどに動揺している。
『なぁ、いいだろ?』
訊きながらその声はもう決定している様子だ。竜弦は渋々といった風に返事をした。
「…判った」
背もたれに体を投げ出すと椅子の背がギシリと軋んだ。途端に電話の向こうで声が華やぐのが判った。
『じゃあ今から来いよ、待ってる』
返事を待たずに通話が終わる。しばらく受話器を見つめていた竜弦が腰を上げる。上着を取ってはおると後処理を婦長に任せて病院を出る。用心のためにポケベルを持つ。連絡だけはいつでも通じるようにしておくのは医療を職業にする者として最低限の義務だ。
相手の病院の規模は知っている。自家用車で乗り付けるのもはばかられるので公的機関を使って目的地へ向かう。途中で食えるだけの道草を食う。コンビニに立ち寄り無駄に時間を潰す。
待ってる
一心の声が耳から離れない。ゾクリと背筋が震えるような気さえする。手に持つ雑誌が震えた。ため息をついて乱暴にもとの位置へ戻すと店を出てクロサキ医院へと向かう。子供たちがいないというのは本当らしく医院の前に立っても人気がない。まだ小さい子供もいると聞いている。いるならもう少し気配があるだろう。だが今は静まり返っている。
呼び鈴を鳴らすと応答もなく扉が開いた。
「ヨッ、待ってたぜ」
ニカッと全開の笑顔を見せる。この男はいつもそうだ。訳隔てない。
「来てやった」
「遅かったな、もしかして迷ったか」
「そんなわけあるか」
問答もそこそこに一心はすぐに体を引いた。扉が閉じる前に竜弦は体を滑り込ませる。鰥夫になったというわりには玄関は片付いている。
「ま、上がれよ。男一人だからろくなもてなしは出来ないけどなー」
ハッハッハとよく通る声で笑う。こういうところに差を感じる。竜弦なら男一人を理由に来客を断るところだ。この男は。なんでもすぐに受け入れてしまう。
「邪魔する」
靴を脱ぐと膝をついて靴をそろえる。その仕草を一心が見つめていた。
「なんだ」
「いや、しつけが違うなーと思ってよ。子供たちにもそう教えたほうがよかったかなーなんて」
言いながら心ではさほど思っていない。子育てに自信がある証拠だ。
「思ってもないことを言うな」
フンとそっぽを向いて立ち上がるのを待って家の中へ案内する。掃除も行き届いていて不快感を与えない。ダイニングを示されて椅子を引いて座ると煙草を取り出した。
「灰皿ないぜ」
「携帯用を持ってる」
何か用意しようとするのを一声で制して自前の携帯用灰皿を取り出す。咥えて火をつけるのを一心が物欲しげに眺めている。
「買ってきたらどうだ」
「くれよ」
臆することなく伸ばされる手を邪険に払う。払われたその指先が咥えていた煙草を掻っ攫った。意識する間もないほど自然な動き。竜弦が咥えていた煙草を今は一心が咥えている。
「いいね」
「お前な…」
すうっと一息吸った一心が唇を重ねてくる。途端に白煙が喉へ流れ込み、竜弦はたまらず噎せた。吸い慣れている銘柄だがこれはたまらない。激しく咳き込むのを一心は飄々と眺めている。これ見よがしに一息吸っては白い息を吐き出す。
「ガキみたいだな、お前」
「だま、れ、…ッ」
ゲホゲホと喉が痙攣する。気管は入り込んだ異物を吐き出そうと必死だ。口の中がほのかに苦い。紅く色づいた唇を一心の指先がなぞった。
「紅いな。口紅でも引いたみたいだぜ」
「この、馬鹿…ッ」
竜弦は肌が白い。それだけに紅く色づく箇所はまるで熟れた果実のように目立つ。淡い蒼色が一心を射抜くように見つめる。息子の雨竜は深い蒼だが竜弦は淡い蒼だ。
不意に合わさった唇が融け出すように熱い。咳もおさまり始めて竜弦は一心の口付けを享受した。触れるだけだった唇の間から舌が潜り込み、竜弦の口腔を犯していく。
「や、め…ッ」
煙草が燃える、音がした。ジジッと不規則に響く音は虫の羽音にも似た。体から力が抜ける。言葉だけの抵抗を一心は知らぬふりをする。竜弦の体は言葉より先に応えていた。
「二人だけの秘密、だぜ」
「…ッは、ぁ?」
荒い吐息の狭間に疑問を挟む。度重なる酸素不足に竜弦の目が潤んでいる。蒼が水面のように揺らめいた。
「タ・バ・コ」
一言一言区切って言う一心は面白そうに微笑んでいた。途端に竜弦の熱が上がる。
「この、馬鹿…ッ!」
「うわ、暴力反対」
振り上げた腕を一心は余裕で避ける。しなった腕を受け止めて。
一心はもう一度、竜弦に口付けた。
《了》