そっと目を閉じて。
これは、だーれ?
71:これは誰
そろそろと近づく。目の前の人物は気付いていない。少なくとも気付いた素振りは見せていない。朝比奈は足音を消して近づいた。目的が目前に迫ったところで朝比奈は息を吸った。
「だーれだッ?」
バッと手を回して相手の目元を追い隠す。ビクリと藤堂の肩が跳ね上がった。
いきなり目の前を覆った暗闇と明るい声にどぎまぎした。読んでいた本がバサリと落ちる。
声には聞き覚えがある。うるさいほどにまとわりついている声だ、聞き間違えるはずもない。
「あ、朝比奈?」
「あったりー」
明るい声と喜びに満ちた顔が藤堂の目の前に現れる。丸い眼鏡。目の上を走る傷痕。ニコニコと上機嫌な顔立ち。藤堂が振り向くと朝比奈は姿勢を戻した。椅子がきぃっと軋んだ音を立てる。その顔からは他意は感じられない。
「一体、なんだ」
「ちょっとした悪戯ですよー」
昔やりませんでした? と朝比奈が笑った。子供のように無邪気で罪のない顔。
「そうか」
「えッ、もしかして怒りました?」
ちょっとつれない反応をすると朝比奈が過剰反応する。おたおたと言葉を取り繕うとする仕草が愛しい。髪と同じ暗緑色の瞳が藤堂の様子を油断なく窺っている。オロオロしているようでその瞳は油断を許さない。藤堂が隙を見せればすぐにでも飛び掛ってくるだろう。
「藤堂さぁん」
朝比奈が泣きついた。その細腕が藤堂を抱きしめる。子供体温の体に抱きしめられながら藤堂は物思いに耽った。
「怒らないで、くださいよぉ」
朝比奈の目が本当に潤んでいる。藤堂は気付いていないが朝比奈はいつも本気だ。こと、藤堂に関しては。けれど天然さゆえか藤堂本人はまったくそれに気付いていない。朝比奈の潤んだ目にいささか驚いた藤堂が慌てる。
「怒ってないが」
「ほんとですかぁ? だったら、いいんですけど」
唇を尖らせる様はまるで子供だ。顔立ちが幼い所為かそれは顕著だ。
「ねぇ、藤堂さぁん」
朝比奈が座ったままの藤堂にしなだれかかる。細い指先が藤堂の襟から前合わせの軍服の縁をなぞる。手入れもしていないだろうに綺麗な指先。それは妙に女性的で藤堂の目を奪った。
朝比奈が嘯く。
「ねぇ藤堂さん」
朝比奈の目が昏く煌めいた。それは闇夜に輝く宝石のような。深い緑柱石の色。
「オレ」
藤堂が腕を伸ばす。朝比奈の顔に手を添え引き寄せる。されるがままの朝比奈をいいことに藤堂は唇を重ねた。触れる唇は熱く。紅く熟れた果実のように脆かった。
「藤堂、さ」
「黙れ」
驚きに目を見張る朝比奈に紅い顔をした藤堂が言い放つ。浅黒い皮膚が朱に染まっている。鋭い眼光も今はなりを潜めて恥らうように伏せられている。朝比奈は衝動のままに藤堂に抱きついた。あぁ、なんて。なんて愛しいんだろう。
「藤堂さん!」
「…なんだ」
藤堂の頬が紅い。朝比奈は睦言でも囁くかのようにその耳元に囁いた。
「また、キスしてください」
何度も何度も。愛を誓うように。神に誓うように。
「約束ですよ」
世界が音を立てて痛むようだった。あぁこれだけで。これだけで生きて、いける。
「判った」
藤堂はその日から朝比奈の言葉を忠実に実行に移した。
朝比奈が背後から近寄る。目元を隠して愉しげな声がかぶさる。
「だーれだッ」
「朝比奈」
藤堂の声に朝比奈は拘束を解く。その腕を引き寄せる藤堂の唇が重なる。それを公衆の面前で惜しげもなく晒すのだ。当てられた方はたまったものではない。すぐにそれは四聖剣の紅一点、千葉の知るところとなった。
いつものように朝比奈が藤堂の目を隠す。
「だーれだッ?」
「朝比奈」
藤堂の手が朝比奈の腕を取る。朝比奈が体を傾いだ。唇が重なる。そこまではいつもどおりだった。けれどそこからが、違った。
ゆらりと揺らめく千葉の姿に朝比奈は目ざとく気付いた。
「ち、千葉さん?」
「朝比奈、貴様」
すらりと抜き身の日本刀を構えている。その目が据わっている。
「中佐になんていう破廉恥な真似を…」
「えッえッ、ま、待って千葉さん」
抜き身の刀を構える様はまるで鬼のようだ。
「千葉?」
「中佐は何も言わないでください」
千葉の言葉に藤堂は従順に口をつぐむ。取り残された朝比奈だけがあわあわと泡を食っている。千葉の姿がゆらりと揺らめいた。抜き身の刀身が不気味に輝く。
「朝比奈、覚悟ッ!」
「えッ、ちょ、まッ、えぇえーッ?!」
ぶんッと抜き身の刀が空を切る。
「オレじゃない! 藤堂さんがキスし」
「黙れと言っている!」
千葉の剣戟を朝比奈が紙一重で避ける。ぶんぶんと振り下ろされる刀はまごうことなき本物だ。その刃が不気味に明かりを反射している。
「あの二人は仲がいいな」
呟いた藤堂の言葉に誰もが耳を疑ったが、誰も何も言わなかった。彼らに宿る生存本能が告げていた。彼らに関わるまいと。むやみやたらと諍いに突っ込んでいく勇気は誰にもない。何故だか仲がいいと見ている千葉と朝比奈を藤堂はうらやましげに見ている。それを指摘する勇気はたとえゼロでも持ちえなかっただろう。
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる二人をほのぼのと眺める藤堂。この三人を一堂は遠巻きに眺めていた。この腫れ物に触る勇気は誰ももっていなかった。
《了》