ただ甘いだけの優しさではなく
68:損な役回り
解放されてからというもの藤堂は引っ張りだこだ。助け出された英雄は興味と好意の視線と扱いを受けている。行動半径はそんなに広くないことを知っている。変な暗がりへは無闇と入り込まない。呆れるほど常識人で、それでいて天然だ。ほこりっぽい倉庫やエンジンルームへは足を踏み入れないくせに引っ張り込まれても抵抗しない。無駄な諍いを避けたいだけなのだろうがそれは非常に危険だ。
朝比奈は辺りを見回しながら暗がりや人目につかない部屋も足を踏み入れて藤堂を探した。特に用事があるわけではない。だが気を抜くとその隙間をぬって藤堂を手に入れようとしている輩がいることに気付いている。彼らは仲間であり、どちらかといえば朝比奈達のほうが居候しているような形になるので無闇に叩きのめすわけにもいかない。
聞こえてきた声に耳をそばだてる。言葉少なに話すのは藤堂だ。それは無愛想なのではなくただ単に口下手なだけだ。少し付き合えばその人柄からそのことが知れる。それよりも問題なのはその話し相手だった。
ディートハルト
他愛ない会話をしながらその指先が妙な意図を持って藤堂の背中や肩、腰に触れる。朝比奈はそれを常々、苦々しく思っていたが当の本人が気付いていないのでやきもきするだけだ。
朝比奈はサッと壁際に身を隠した。何度か二人の間に割り込んだが一向にディートハルトは態度を改めない。その上藤堂が朝比奈の態度を責めるので二人の間に割り込む意味はなくなった。しばらく二人の会話が細波のように聞こえる。いい加減苛々してきた頃、ディートハルトが手を離した。
「それでは」
「あぁ」
会釈をして去っていく背中へ呪詛を吐きかける。角を曲がって行き過ぎようとする背中へ朝比奈は言葉を放った。
「楽しそうですね」
気配を消していた所為か藤堂が面食らったような顔を見せた。鋭い目がしぱしぱと瞬いた。
「…機嫌が悪いようだな、朝比奈」
腕を組み壁にもたれる朝比奈の態度を見て取った藤堂が言うと朝比奈が口元を歪めて笑った。丸い眼鏡が明かりを反射して煌めいた。
「何、話してたんですか」
「世間話だ」
やんわりと拒絶されて朝比奈の頭に血が上る。苛立たしげに爪先をカツカツ鳴らす朝比奈を藤堂は怪訝そうに眺めている。自身より歳若く明るく活発で人好きのする朝比奈が何をこんなに苛立っているのか、藤堂はサッパリ判っていない。藤堂の細い目が苛立たしげな朝比奈を映す。暗緑色の髪と同じ色の目。目の上を走る傷痕が興奮して紅潮した肌の上、肉色に浮かび上がっていた。
藤堂は真っ直ぐ朝比奈と向かい合う。朝比奈は苛立たしげに藤堂を見上げた。真摯な真っ直ぐさは時に残酷だ。向かい合うたびにこの真っ直ぐさになんだが後ろめたいような自身の器が小さいような、そんな気分になる。
「あいつのこと、好きなんですか」
ぶしつけで露骨な質問に藤堂は眉をひそめた。その変化に朝比奈の柳眉がキリキリ上がる。
「仲間だろう」
当たり障りのない返事。それが朝比奈の態度をささくれ立たせた。藤堂にかかればどんな輩も仲間だ。共に同じ屋根の下で生活しているだけで仲間になるのなら、志を同じくして戦った自分たちは一体なんだと言いたくなる。
朝比奈の手が藤堂を壁際に追い詰めた。それでも藤堂は抵抗しない。上背もあり、肩幅だって敵わない。何もかもが藤堂より劣っていると。朝比奈は伸び上がって唇を合わせた。それでも藤堂は咎めることをしない。朝比奈の好きにさせている。
「藤堂さん、優しいんですね」
朝比奈の手が軍服の前を一気に開いた。藤堂が息を呑むのが胸の動きで判った。強靭な筋肉のついた体躯。引き締まったそこに無駄な肉はなくただ、美しい。
「つけこまれますよ」
唇を這わせようとした朝比奈の視界が唐突にぶれた。後を追うようにして感じる頬の痛み。カシャーンと冷たい音を響かせて眼鏡が落ちた。その時になって初めて殴られたことに気付いた。拳じゃなかったのは最後の優しさなのだろう。その痛みと熱にくらりとする朝比奈を藤堂は責めるような眼差しで射抜いた。
「いって…」
「いい加減にしろ」
冷ややかな声に熱が冷えた。滅多に暴力は振るわない藤堂だが朝比奈に非があるときは容赦しない。往来で事に及ぶなどという暴挙を、藤堂が許すわけもなかった。
乱された前をそのままに藤堂の目はキツく朝比奈を睨んでいる。眼鏡がないせいでぼやけた藤堂の細々としたところは見えない。けれどその鳶色の瞳が非難の眼差しを向けているだろう事はひしひしと感じ取れた。皮膚が引きつるような気がする。
「…すいま、せん」
朝比奈の謝罪の言葉を聞いて藤堂は軍服の前を直し始める。その指先を潤んだ目で朝比奈は見つめていた。その指先は見かけとは裏腹に繊細に動く。朝比奈は落ちた眼鏡をかけ直した。ぼやけていた視界がクリアになる。きっちりと襟を直した姿は凛々しく。他者を寄せ付けない冷たさを秘めていた。
「朝比奈」
思いのほか優しげな声に朝比奈は目を眇めた。腰に手を当て下から見上げるようにして藤堂を見つめ返す。その顔が柔らかく微笑んだ。
「怒らないんですか」
「悪いと思っているんだろう。だったらいい」
朝比奈の暴挙を藤堂は先刻の平手で許すという。そんな寛大さが。朝比奈の目が潤んだ。
「あーぁ、手加減なしなんだから、もう」
これ見よがしに頬をつつくと藤堂が笑った。それは信頼に満ちた、顔で。
「だが、お前は離れていかない」
今度は朝比奈が目を見開いた。それはただ無償の信頼ではない。根拠のある関係。朝比奈の言動を受け入れる代わりに道に外れたことをすれば容赦はしない。そこに手加減などはなく手を上げることもある。
朝比奈が泣き笑いのような顔で笑い返した。弓なりになった目尻から涙が一筋、流れ落ちた。腫れた頬の上をぬるい雫が滑っていく。
「あぁ、もう」
ため息のような言葉に藤堂は笑ったままだ。朝比奈は藤堂にしがみついた。今度は平手も食わない。大きなその手が朝比奈の髪を梳くようにして頭を撫でた。
決して甘やかしてはくれない
好きだと言っても態度や扱いに変化はない
言うだけ損だ
でも
そんな貴方が好きです
「藤堂さん」
朝比奈の呼びかけに藤堂は口付けで応えた。
《了》