消去法。少し考えれば、判ること
67:その可能性
手元の書類に目を通す。急ぎではないといっていたが目を通しておくに越したことはないだろう。いささか手持ち無沙汰だったその空間を手元の電話の呼び出し音がつんざいた。
「院長室」
『あの、クロサキ医院の黒崎様…が』
「通せ」
『あの』
「構わない」
なんだか妙な間を置いて受付嬢が喋る。それでも院長の決定に従うことにしたのか了承の旨を告げて通信を切った。しばらくの間を置いて扉がノックされる。遠慮がちなその叩き方に竜弦は首を傾げた。
「入れ」
扉が開いて現れた人物に竜弦の目が驚きに見開かれた。明るい橙色の短髪。茶褐色の瞳。予想していた人物とは色合いがまったく違う。
「君は」
「こ、こんちわッ!」
ガバッと一気に腰まで曲げてお辞儀をする様子は不慣れな場所に迷いこんでしまった生徒のようだった。眉間のしわは父親である一心にはないものだ。
「雨竜ならいないが」
受付嬢の妙な間の理由が判った。こんな子供を院長があっさり通せと言うのだからよっぽど不審に思えただろう。
「いえ、あのッ! 今日は石田、いや雨竜、君に用じゃなくて…ッその」
目が泳いでいる。その口は必死に言い訳を取り繕うとして空回りしている。けして馬鹿ではないだろうに緊張の所為かかなり間抜けな振る舞いだ。がしがしと頭を掻くと意を決したように竜弦を見た。その瞳が彼の父親と同じように煌めいた。
「今日は、小父さんに用があって」
「私に?」
怪訝そうな竜弦に一護はこくんと頷いた。
「…まぁ、そこに座るといい」
数瞬考え込んだ後、応接セットを指し示すと一護は素直にソファに体を沈めた。カチャカチャと静かな音をさせて茶の用意をする。
「お、小父さんッ」
一護の声に振り向くとドンと体温がぶつかってきた。その筋肉質な腕が竜弦を拘束した。背丈は大して変わらない。息子の雨竜よりは若干高いといったところだ。鼓動が早鐘のようだ。早い鼓動。見ればその頬が赤らんでいる。一心にはないその初心さに竜弦の顔が緩んだ。
「一体、なんだい」
優しげなその声に一護は目を瞬いた。雨竜から聞いていた話とはかけ離れている。普段は口を出さない代わりに無作法には厳しいと聞かされていた。驚いてマジマジと見つめる一護に竜弦は、雨竜によく似たその顔でゆったりと微笑んだ。
「不思議そうだな」
「…あッす、すいません」
思わず謝って顔を伏せる。耳元で鼓動がガンガンと鳴り響いていた。それでも触れる肌はすべすべしていて心地好い。シャツ越しながらそれが判る。滑らかに滑る肌。
雨竜に似ているだけに始末が悪い。耳まで真っ赤になって懸命に耐える一護を竜弦は面白そうに見つめていた。淡い蒼色の瞳。灰蒼の艶を放つ髪。雨竜は艶やかな黒髪に深い蒼色の瞳の持ち主だ。竜弦のほうが色合いが薄い。それでも基本的な造作はよく似ている。痩せた体も。その瞳も。眼差しも。顔の造りはもちろん似ているのだが持っている雰囲気すら似ている。雨竜は父親である竜弦を毛嫌いしている嫌いがある。それは言葉の端々から感じ取れるほどだ。
「お茶の用意が出来ないんだが」
「あッす、すいません」
思わず口走ってしまい一護は腕を離さざるを得なくなった。のろのろと腕を外すと竜弦は気にした様子もなくお茶の用意をした。応接セットに身を沈めた一護の前に客用の湯呑みと茶菓子が出された。
「淹れたてで悪いが」
そう云って竜弦は湯気の立っている湯呑みを一護に出した。茶菓子は芋ようかんだ。思わず言葉を失う一護を竜弦は不思議そうに見ている。
「あの、この茶菓子」
「嫌いかい」
「いえ、そんなことないッスけど」
一護の父親の好物なのである。偶然だと言い聞かせる奥で違うと本能が告げている。
「好きなものがあれば言うといい」
先ほど抱きつかれた気まずさなど感じさせずに竜弦が言った。一護はハァと頷いて芋ようかんを口にした。甘すぎず、程よい味だ。高級なのだろうことがすぐに知れた。
「君は何が好きなんだい」
「えッ、あの、えーと…チョ、チョコレートとか好きッス…」
もぐもぐと呟きながら言うと竜弦はふぅんと頷いた。茶をすする仕草すら洗練されている。その時、部屋に備え付けの電話が呼び出し音をけたたましく鳴らした。
「はい」
『あの、クロサキ医院の…――…』
向こう側で叫びたてているのか、受付嬢の声が聞き取りづらい。受話器に押し付ける耳が痛くなった。受話器越しに聞こえてくる声は聞きなれたものだ。しばらく間を置いて扉がバァンと開かれた。
「一護?!」
「親父ィ?!」
互いに顔を合わせた息子と父親があっけに取られている。後ろで受付嬢が大慌てだ。竜弦は仕草だけでそれを下がらせると一心を部屋に引っ張り込んだ。
「入り口で止まるもんじゃない」
「いや、つーか、なんて一護が…ッ?」
「そりゃこっちの台詞だ!」
一心の目が目ざとく出された茶式に留まった。
「一護! いくらお前でもオレの恋路を」
「うるさい」
竜弦が不機嫌そうな声を出す。一護は慌てて立ち上がると一心の胸倉を掴んだ。
「帰りますッ! ありがとうございました!」
「なんだとぅッ?! こら一護、父さんはこの男に用事が」
「いいから帰っぞ!」
とにかく恥を晒す前に帰りたい一護に引っ張られて一心の体が部屋の外に出る。その一護の肩を竜弦が引き止めた。
不思議そうな一護の視線と真正面からぶつかる。
「小父さ」
唇が重なった。触れる唇は妙に紅く艶めいていた。舌先が歯列をなぞり下唇を甘く噛んで離れていく。
「またおいで。今度はチョコレート菓子を用意しておこう」
色っぽいその顔に雨竜が重なった。見る見る真っ赤になる一護が誤魔化すように乱暴に父親を引っ張った。
「一護! 父さんとキスして! 竜弦と間接キス!」
「一度死ねッ!」
飛びついてくる父親を蹴り落として一護は唇をなぞった。触れ合った、熱。
「…ちくしょ」
「うぉおぉッ何故ッ?! 一護芋ようかん食べただろうッ?! 父さんは見たッ! ずるいぞッ父さんの好物なのに! しかも竜弦と一緒に」
「黙れコラァッ!」
ドゲシッと父親を足蹴にして妙に広い廊下にたたずむ。幼い頃からたしなんだ空手に撃沈された一心が呻いている。
竜弦の声がこだます。雨竜に似ているだけに始末が悪い。まるで。そうまるで。雨竜に微笑まれたかのようで。惑わされる。
「うぅうぅ…父さんも芋ようかん食いたかった…」
一護は再度父親に鉄拳を見舞った。
「ほう? それで君は懐柔されてきたわけか」
雨竜のこめかみが引きつっている。一護はブンブンと首を振った。
「懐柔とかそんなんじゃねぇって」
「じゃあなんだ。君はあいつに菓子を出してもらって懐いたって言うのか」
雨竜の言葉が妙にとげとげしい。いくら竜弦が嫌いだといっても限度がある。父親嫌いのとばっちりを食っている。
「とにかくそれじゃ罰ゲームにならないな」
「お前が行けって言ったんじゃねぇか!」
ちょっとした賭け。遊びの勝敗に雨竜は罰ゲームと称して父である竜弦に抱きついて来いと言ったのだ。無論その勝負には雨竜が勝った。敗者である一護に言い訳の余地は用意されていなかった。
雨竜の目が眼鏡の奥で煌めいた。竜弦がしつけに厳しいのは幼い頃から身に染みてよく知っている。無作法や無茶をすれば容赦なく平手が飛んできた。だから今回もそれを目論んでいたのだ。けれど。
「アイツ、なんだってまた…」
「あぁ?」
「なんでもないよ」
予想外だった。平手どころかそれを享受するなんて。
「まだまだ、ってことか」
ひとりごちる雨竜を一護は不思議そうに眺めていた。
竜弦の口元が緩む。今頃自分の対応に雨竜が首を傾げているかと思うだけで溜飲が下がる。抱きついてきた一護に無作法だと手を上げるのは簡単なことだ。けれどそれをわざと受け入れて見せた。その行為に雨竜が今頃目を白黒されているかと思うだけで愉しい。
「簡単な推理だな」
言葉の端々から一護はそんな無作法をする少年でないことは窺い知れた。何より一心の子供だ、早々無茶はしないだろう。そんな彼を動かすのは動かしがたい何かなのだ。雨竜を石田と呼ぶ端に好意が感じ取れた。そこからきっと無理難題の持ち出し主は雨竜なのだと見当をつけた。となれば後は芋づる式に判る。恐らくは罰ゲームか何かなのだと。
「まだ甘いな、雨竜」
ギシリと椅子の背が軋んだ。宙を眺める竜弦の口元が自然に笑っていた。
《了》