それはまるで
66:まるで絵のような
外では雨が引きも切らず降り続けている。ちょうど梅雨に当たるのか、雨はしつこいほどによく降った。朽ちたこの屋敷に染みていくように雨音が響いている。雨漏りをするほど造りは悪くないらしいが雨音は妙に響いて体の中へ入ってくる。窓の外は水気に煙っている。
肘掛に肘をついて、男は窓の外を眺めている。昼間だというのに薄暗い外を飽きもせず眺めている。白い髪は薄闇で薄い灰色になり紅い瞳は蘇芳色だ。蠱惑的な瞳は楽しんでいるかのようだ。口元には笑みすら湛えている。
「綺麗だな」
男の半歩後ろに控えていた一之瀬はその言葉に一瞬、身じろいだ。一之瀬が応えようとするのをさえぎって男は声を発した。
「そうは思わないか」
「綺麗、だと思います」
一之瀬の言葉に男はクックッと喉を鳴らした。ガッシリとした肩がかすかに震えている。
「思ってもないことを言うもんじゃない、一之瀬」
不意に狩矢の紅い瞳が一之瀬を見た。射抜かれる感覚にも似た。バウントの頂点に立っている狩矢はそれなりに迫力も貫禄も威圧感もある。
「いえ、私は」
「君は嘘が下手だな」
慌てた一之瀬を見て取ったのか狩矢は笑った。見抜かれた一之瀬は恐慌を来たした。何か言わなくてはと気ばかり急いて口からは言葉一つ零れてこない。もがくうちにますます沼に嵌まっていくような、そんな感じだ。手は泥ばかりかいて一向に体は浮かび上がらない。
「…申し訳ありません」
覚悟した一之瀬の言葉に狩矢は微笑した。ゆっくりと椅子から立ち上がる。立ち上がると狩矢の上背がよく判る。はおっていたコートを脱ぎ落とすと筋肉のついた体がシャツの上からでもよく判った。窓の方へ近づいていくのを一之瀬は黙って見つめた。窓を開け放す。風はないらしく雨が吹き込んでくることはなかったが冷たい空気が部屋に入り込んできた。
「狩矢様」
狩矢は窓の外へと腕を伸ばした。何かを抱き止めでもするかのように、神にその身を捧ぐかのように、両腕を中空へと差し出す。袖は見る見る雨を吸ってその皮膚に張り付く。シャツが透けて皮膚が見える。肘まで雨に打たれながら狩矢は笑んでいた。
雨雲の流れは速い。雨を残しながら薄日が差し込んできた。狩矢が顔を向ける。
「日が差してきた」
「狐の嫁入りですね」
一之瀬の言葉に狩矢が声を立てて笑った。
「嫁入りか」
狩矢の目が空を見た。薄日が差しているとおりに空はぬけるように青かった。思い出したように雨粒を降らせている。ぽつぽつと降る雨粒が狩矢の腕を伝って落ちた。
「面白い」
狩矢の腕が油断していた一之瀬を唐突に抱き寄せた。突然のことに目を瞬く一之瀬を、狩矢は抱きしめた。カシャンと斬魄刀が音を立てた。
「か、狩矢様…ッ」
濡れた手から水気が伝わってくる。冷えた手の平が次第に心地好くなっていく。抱きしめられただけで火照る体を苦々しく思ったが狩矢は楽しげだった。死覇装が水を吸って重みを増す。
「狩矢様」
「しばらく、このままで」
縋るような狩矢の声に一之瀬は身動きが取れなくなる。常に頂点に立ち続けるというのは疲れるのだろうか。どこか、今までにはないほど弱い声。縋りつくような内容の言葉を吐くことも滅多にない。誰にも頼らず縋らず甘えず弱みを見せず、常に主導権を握っている。
けれど今は狩矢と一之瀬、二人きりだ。何か嫌なことでもあったのだろうかと思惑を巡らせる一之瀬をよそに狩矢は大胆なほど体を押し付けてくる。思わず狼狽えるほどのそれに狩矢は言葉もない。だが一之瀬はそれをはねつけるだけの何かを持っていなかった。
沈黙が下りた。けれどそれは気詰まりというよりどこか心地好く。一之瀬はそれを享受した。乾いた胸に頬を寄せる。背中に回っている腕は冷たく湿っているが顔が触れる胸は乾いていた。
「水の」
「はい」
狩矢の唐突な言葉にも一之瀬は律儀に応える。狩矢は愛しむように笑うと濡れた手で一之瀬の黒髪を梳いた。
「水の絵は難しいというな」
「そうですね」
狩矢の口元が笑みを深める。抱きしめる腕に力がこもった。ジワリと染みる水気は心地好い。
「判ったような口を利く」
「すみません」
「そんなすぐに非を認めるもんじゃない」
従順に謝った一之瀬を狩矢は笑い飛ばした。一之瀬が言葉に詰まる。
「また謝ろうとしたな」
狩矢は面白いものでも見つけたかのように笑っている。その震えが腕を伝って一之瀬に伝わった。一之瀬の頬が染まる。狩矢の紅い瞳が宝石のように煌めいた。
狩矢の目が眇められた。それは不機嫌だとか怒っているだとかそう言ったものではなく、どこか愛するような。母親が子供を愛しむような眼差しで。
「狩矢、様」
途切れた言葉を優しく包み込むように唇が重なった。腕を濡らして冷えた唇は火照った体にちょうどよかった。
解かれる腕。余韻だけ残して狩矢は去っていく。離れていくその腕は冷たいはずなのにひどく惜しかった。背中に張り付いた死覇装が狩矢の余韻。一之瀬はたまらず腕を伸ばして狩矢の頬に触れた。力を込めて引き寄せると唇を重ねる。驚いたように狩矢の紅い目が見開かれていく。濡れた指先から雫が滴り落ちる。
「…これはどういう心境の変化だ」
「差し出がましい真似をしました」
慌てて体を離す一之瀬の頬を狩矢の冷たい手が包んだ。そのまま唇が重なる。
「別に責めているわけじゃない」
「…そう、ですか」
一之瀬は安堵したように息をつく。その様が妙に愛しい。この男は自ら進んで狩矢に身を任せているというのにどこか自由にならない。それは喉に刺さった小骨のようにいつまでも留まり、喉が動くたびに肉を裂く。
一之瀬の鳶色の瞳が狩矢を見ていた。それは逸らすことを許さない、真っ直ぐな。時に残酷とすら思えるほどの。試すように狩矢を窺っている、瞳。
「君は結構厳しいな」
「私は別に」
狩矢は仕草だけで一之瀬を黙らせる。口をつぐんだがどこか不服気な一之瀬の顔が映る。
「責めていないといっただろう」
一之瀬の紅い唇が何か言いたげに動いた。その唇に冷えた指先を這わせる。一之瀬がかすかに身震いした。
「あぁ、濡れてしまったかな」
空いた手が一之瀬の背を撫でる。一之瀬はフルフルと首を振った。
「構いません」
一之瀬は再度伸び上がって狩矢に口付けた。
――悪くない
腰を抱き寄せられるままだ。濡れた手が触れるのも厭わない。
それはまるで一枚の絵画のように
二人は融けあった
《了》