そんなに、待てないよ?
62:明日雨が降ったら
ぴくぴくと目蓋が震えて目が開く。夜闇の中で浮き上がった光景にルシードの目が釘付けになる。窓際に立つゼファーの姿が浮かび上がって見えた。
「ゼファー?」
ルシードの声にも振り向かない。その横顔は彫刻のように整っている。通った鼻梁。夜闇で黒色に見えるのは暗緑色の瞳。長い栗色の髪。窓から差し込む光でその裸身が浮かび上がって見えた。その時になってルシードはゴロゴロと不穏に鳴る雷鳴に気付いた。窓に叩きつけるように降っている雨。
「ゼファー」
「あぁ、起きたのか」
ゼファーがゆっくりと振り向く。カッと光った雷光がゼファーの顔を照らし出す。
肌が白く目に灼きついた。大きな雷鳴が窓硝子を震わせる。
「雨が続くな」
言葉とは裏腹に楽しそうな響きを感じ取る。ルシードの紅い瞳がゼファーを射抜く。すらりとした裸身。布一枚身にまとってはない。平らな胸も引き締まった腹部も蠱惑的な下肢も雷光に照らされて、晒されている。ルシードがベッドから抜け出す。人肌に温んだ布団を引き剥がすとヒヤリとした夜気が触れる。そのままゼファーの後ろから抱きついた。自身より高い身長。うなじの辺りに口付けるとくすぐったそうにゼファーが体を震わせた。
長い栗色の髪を前へと長し落とす。現れたうなじにルシードが口付けた。柔らかな唇の感触にゼファーが笑んだ。
「くすぐったい」
強く吸うとゼファーが体を震わせる。頚骨の浮き上がったうなじ。その一つ一つをなぞるように唇を寄せる。コツコツと固い感触。けれど人肌に温んだそこは妙に唇に馴染んだ。
後ろから抱きついた腕に力を込める。ゼファーはされるがままになっていた。
「…しようぜ?」
ルシードの直裁的な言葉にゼファーが笑う。その震えが腕を通して伝わってくる。
「さっきまでよく眠っていたじゃないか」
「うっせ!」
ゼファーの言葉にルシードが赤面する。ゼファーがカーテンに手をかける。少し開いた隙間から雷光が差し込んでいる。ゴロゴロと鳴る雷鳴が近づいている。
「駄目か?」
「さて、どうしようか?」
ゼファーが猫のように喉を震わせて笑った。ぴったりとくっついた裸身はルシードの状態を克明に伝えていた。その状態にゼファーが笑う。
「笑うな!」
「いや、すまん」
言ったそばから噴き出して笑っている。ゼファーの手がルシードの手を包む。温かな、それ。安堵するような温度にルシードは頬を寄せた。ゼファーが上体を傾けて窓に触れる。その冷たさにゼファーの体が震えてルシードがそれを感じる。触れてもいないのにその硝子の冷たさを自身が触れたかのように感じていた。
雨の叩きつける窓硝子。かすかな震えすら感じ取れるほどゼファーと体を密着させていた。温んだそれは自身の領域を超えて侵食していった。どこまでが己の体なのか判らなくなる。それはまるで微温湯に浸かっている感覚を思い出させた。境界が曖昧になりどこまでが己の体なのか判らなくなる。浴槽の境界一杯が自身の境界線になる感覚にどこか似ていた。
「ゼファー」
頬を寄せながらその名を呼ぶ。温んだそこから自身が融け出していくようだった。
「なぁ、しようぜ?」
上がり始めた体温のままにそう言うとゼファーがクスリと笑んだ。
「正直だな」
「おうよ」
いっそ開き直ってそう言うと恥ずかしさも薄れた。ゼファーの顔が振り向く。栗色の髪がさらりと揺れた。
「ゼ、ファ」
そこで言葉が途切れる。合わさった唇から熱が侵食してくるようだった。それは心地好い侵食。流れ込んでくる体温をルシードは受け入れた。
「素直だな」
「あったりめーだろ」
お前が相手なんだぜ、と嘯くとゼファーが笑った。栗色の髪がサラサラと流れる。脱ぎ捨てられたままの服を掻き分けてゼファーはベッドに近寄る。ルシードはただ惰性のままそれに従った。ずるずるとルシードを引きずる。
カーテンの隙間から漏れた雷光がくっついた二人を照らし出す。数瞬の間を置いて雷鳴が響き渡る。裸身の二人が浮かび上がる。右足を庇って歩くのはゼファーに後からついた癖だ。ある任務で受けた傷だと聞いている。それは注意してみなければ判らないほどわずかな違い。それでも機敏な動きを要する任務につくのは難しく、それゆえ保安学校を卒業したばかりのルシードが召集されたのだ。破格の待遇なのだがルシード自身はその招集を受け入れがたく思っていた。花形部署に就いてバリバリ難事件を解決するのだと意気込んでいた矢先だっただけに失望は大きかった。通称ブルーフェザーと呼ばれるこの部署はお荷物部署として名をはせていたからだ。
「お前がいるのは嬉しかったけどさ」
ルシードが呟く。ゼファーはその独白を黙って聞いていた。
「お荷物部署だって有名だったし」
紅い瞳が伏せられる。抱き締める腕に力が入る。
「俺が配属される、意味ってあるのかなって思って――」
保安学校を卒業する際に受けた魔法適正試験で及第点をたたき出してしまったルシードは不本意ながらこの部署に来たのだった。もちろん即座に転属願いを出したことは周りに知れ渡っていた。
「あるさ」
ゼファーの言葉に紅い瞳が見開かれていく。あぁ、その、言葉だけで。
「俺は任務に出られなくなったし、お前が来てくれて」
振り返ったゼファーが口付けた。離れる腕。離れる皮膚。それは裂けるような痛みすら伴って。融け合う唇。行き交う体温。まるで体をつなげているような、錯覚。融け合うそれらにルシードの感覚は混乱する。境界が、判らなくなる。
「とても、嬉しい」
融ける体にゼファーの言葉が止めを刺した。たまらない、快感。脳がとろけるような言葉。
「さて、困ったな」
離れた唇がそんなことを嘯く。その口元は悪戯っぽく笑っている。
「明日、雨が降ったらするというのはどうだ?」
ルシードの目がチロリと時計を眺める。蛍光塗料の塗られた針が時間を指し示す。雷光に反射するその時間を読み取ってルシードは笑った。
「もう、今日だぜ」
ゼファーの目が時計の方を向く。
「おや」
暗緑色の目が煌めいた。片目を眇める様子にルシードの紅い目が煌めく。
「じゃあ、もう寝るか」
「冗談」
ルシードの脚がゼファーの脚を引っ掛ける。慌ててバランスを取ろうとする体をベッドの上に押し倒す。ベッドが二人分の重さに軋んだ。ゼファーの目が責めるようにルシードを見る。それをものともせずルシードはその体に舌を這わせる。
「ルシード?!」
「明日までなんて、待てねぇよ」
ゼファーの体から力が抜ける。ルシードの目が窺うようにゼファーを見る。
「いいだろ?」
「仕方ないな」
ゼファーの言葉にルシードが笑んだ。
「そうこなくちゃな」
ルシードは再度、ゼファーの体に舌を這わせた。
明日雨が降ったら?
そんなに、待てないよ
《了》