もう、嫌なんです
60:必ず守れ
ずかずかと歩を進める。足音を荒く響かせて目的の部屋へと近づいていく。ノックもなく開いた扉に、目的はキョトンしていた。
「藤堂さん!」
「朝比奈?」
藤堂は来訪者の名を上げるので精一杯だ。降って湧いた災難の予感に藤堂の眉根が寄る。朝比奈は普段なら気にかけるそれらを見落としてただ怒りのままに歩を進めた。
藤堂は黙って朝比奈を見ている。解放を言祝ぐ中で朝比奈の怒りは妙に新鮮だった。
「アンタって人は!」
「なんだ」
向けられる言葉とは裏腹に朝比奈は体を投げ出して藤堂に抱きついた。細く小さな体が懸命に腕を伸ばして藤堂の体を抱きしめる。訳の判らない藤堂はただされるがままになっている。
眼鏡の奥で朝比奈の目が潤む。髪と同じで一見すると黒色なのだが実は緑の艶を持つ暗緑色。宝石のような瞳が涙に濡れた。固い眼鏡の押し付けられる感触だけが藤堂に伝わった。
「朝比奈?」
拘束服で助け出されたままの体。象牙色の拘束服。細い腰がよく判る。細身だが強靭な藤堂の体。ついた筋肉が指先でたどれた。その胸に頬を寄せ顔をぐりぐりと押し付けてくる。硬質で冷たい眼鏡の感触。眼鏡がずれて人肌に温んだ朝比奈の頬が寄せられる。自分より高い体温が頬を寄せるのを藤堂はさせるがままになっている。
「もう、あんなことしないでください」
「あんな、こと?」
不思議そうな藤堂の言葉に朝比奈が顔を上げた。睨みつける愛しい人の顔。心底不思議そうなその表情に朝比奈は肩を落とした。
「オレ達をかばって藤堂さんだけ捕まったじゃないですか!」
「あぁ」
叫ぶような言葉にも藤堂は眉を動かさず真面目に聞いている。そんな、なんでもないような顔しないで。こっちが。
「あんな思い、もうしたくないんです」
辛くなる。
無力感。焦燥感。それは息も出来ないほどに喉までせりあがってくる。重く圧し掛かってくるそれらは。自責の念だとかそう言った類の。
「もう、嫌なんです」
ワガママだと知っている。自分勝手だと知っている。それでも。言わずには、いられない。
「もう、あんな思い、したくないんです」
藤堂の表情は変わらない。そして朝比奈がそれを知ることはない。
ジワリと濡れる瞳を閉じて頬を寄せる。あぁ、ここにある。それだけで朝比奈はひどく安堵する。この腕の中の温もりが。今、此処にある。それだけでいい。
「すまなかった」
「謝らないでください」
藤堂の謝罪を朝比奈ははねつけた。藤堂は口をつぐむ。その胸に朝比奈は縋りつく。拘束服の背に爪を立てる。ぎち、と生々しい音がした。
「謝らないで、ください」
それでも藤堂は表情を変えない。ただ黙って背中の痛みに耐える。それだけが唯一出来ることのような気がしていた。
「う、うぅ…」
朝比奈の細い肩が震える。その肩を藤堂が抱き締めた。近づく温もり。鼓動。とくんとくんと綺麗に整った。
「――…ッ、うぅ…」
朝比奈の肩が堪えきれずにしゃくりあげた。震える細い肩を藤堂は抱き寄せた。
「うぁッ、あぁ――…ッ」
爪を立てて朝比奈が泣いた。ズルズルと力なく倒れる体をとどめるように藤堂は腕に力を込めた。細い肩。その両肩にはどれほどの重石が乗っていたのだろう。
とめどなく声もなく泣く朝比奈の体。藤堂の鳶色の目が濡れた。
あぁ、無力だ
私は
オレは
なんて
無力なのだろう
「すまない」
「藤堂、さ、ん」
切れ切れにしゃくりあげながら朝比奈はそれだけが思いを伝えるすべであるかのように爪を立てた。涙に濡れた顔が初めて藤堂を注視した。それは恐ろしいほど真っ直ぐに。
「謝らないでって、言ったでしょう」
泣き声に震える声。細い喉。四聖剣の中で紅一点の千葉と同程度の身長。
「朝比奈」
「藤堂、さん」
朝比奈の涙に濡れた目が藤堂を見つめる。
もう嫌なんだ
あんな、思いは
貴方がいない
それだけでこんなにも
苦しい
辛い
息が、出来ない
それが自身の無力さから来るとなれば余計に重みを増した。
オレにもっと、力があれば。
力が、あれば?
――貴方を犠牲にすることも、なかった
「ごめんなさい、藤堂さん」
「朝比奈」
「ごめんなさい」
泣き顔に歪んだ顔を藤堂の手が撫でる。温かなそれに朝比奈はますます泣きたくなった。
「藤堂さ」
「謝るな」
静かだが鋭いその言葉に朝比奈は言葉を呑んだ。ぼろぼろと涙が溢れた。
あぁ、無力だ
何も出来ない
オレはこんなにも
無力、だったんだ
「藤堂さん――」
「お前が言ったんだ」
藤堂の言葉に朝比奈は目を瞬いた。藤堂の顔がフッと緩む。
「え」
「謝るなと」
それはまるですべてを許す救世主のように。優しく笑んでいた。
「とうどう、さ」
「すまなかったな」
藤堂の胸に抱き寄せられて朝比奈の顔が歪んだ。涙がとめどなく溢れてくる。なんて暖かいのだろうか。抱き寄せられた胸の温かさに朝比奈は泣いた。
もう少しで。もう少してこの温もりを失うところだったのだと。
「藤堂さん…ッ」
あぁよかった。
この温もりを
失わなくて。
「藤堂さん、ワガママ言って、いいですか」
「…なんだ」
数瞬ためらうような間を置いて藤堂は返事をした。朝比奈が笑う気配がする。
「オレのそばから、離れないでください」
いなく、ならないで。
もう二度と。
貴方がいないなんて
耐えられないから
「…それは、ずいぶんと」
藤堂が苦笑するような気配。朝比奈は頬を膨らませた。それは無邪気な子供のように。
「駄目ですか」
「いや、努力しよう」
朝比奈の顔が見る見る笑んだ。濡れた暗緑色の瞳。藤堂の手を朝比奈の頬を撫でるようにして涙を拭う。
「ありがとう、ございます」
朝比奈の腕が藤堂を抱き締めた。
たとえ一時でも
もう失いたくないんです
だから
「守ってくださいね」
「判った」
藤堂の真面目な答えに朝比奈は笑った。
あぁこの一途さが。真摯さが。
ひどく、愛しい
《了》