トクベツな、そこは
57:地図にない場所
ルシードの紅い目がキョロッと動いた。隠れた茂みがざわりと鳴った。目の前にいる目的の少年はルシードに気付いていない。同年代の少年たちと笑い合っている。肩につくかつかないかの栗色の髪。輝く瞳は暗緑色をしている。小突き合いながら、それでも同年代の親しげな挨拶にルシードは理不尽な怒りを感じていた。山の方へと向かっている少年たちの後を追う。楽しげに笑う声が耳に響いた。
「ゼファア」
理不尽な怒りのままに呟いた声に返事はない。山の方へと向かう彼らの目的地はよく知っている。嫉妬と羨望がないまぜになった眼差しをもう幾度となく向けてきた。
それは隠れ家
山の一本の木にしつらえられた簡素な小屋。子供の手によるそれはひどく不安定だ。だがそれ以上に仲間内でしか利用できないという制約と秘密が彼らの連帯感を確かなものにしていた。それは入る隙間も余地もない。それがひどく気に障った。
ゼファーが不意に後ろを振り返った。ビクリと震えて慌てて身を隠す。そうっと窺うとゼファーはもう友人たちと会話を交わしていた。あっけないようなそれに安堵と失望が交じり合った気持ちになる。人影がなくなってから姿を現す。先刻までゼファーと友人たちがいた場所へ歩を進める。仲の良さげな小突き合いはゼファーとルシードの関係では考えられないものだった。ゼファーはルシードに接するときは必ずといっていいほど大人の余裕でルシードの暴挙を許していた。対等に小突き合うなどというのは望むべくもないことだった。
「ちぇッ」
幼い舌打ちに鳥の声が答える。頬を膨らませるとゼファーたちが立ち去った方角を眺める。
聞こえて繰るざわめきにルシードは慌てて身を隠す。茂みを越えた先には年上の少年達が会話を交わしながら歩いていた。息を止めてしゃがみこむ。けれどそのざわめきの中にゼファーの声がしなかった。声が聞こえなくなってルシードの足が地を蹴った。幼いながらに身軽に木の根を乗り越え彼らの隠れ家がある場所へ飛び出す。
ハァハァと荒い呼吸に肩が上下した。単純で簡素なつくりの小屋。上へ難なく上れるように梯子がかかっている。周りに人がいないのを確かめてからルシードは梯子に足をかけた。
するすると登っていく先の小屋。目の前に開けた部屋には誰もいなかった。
「ゼファア?」
幼い呼び声にも誰も答えない。行儀の悪い子供たちが部屋の主であることを散らばった図鑑やノートが教えていた。転がる玩具を手に取る。それは年上の少年達が好むものらしくルシードには何の魅力もなかった。だがゼファーもこれで遊んでいるのだろうかと思いをはせる。広がった図鑑のもとへ屈みこむとそれは星座やそれにまつわる神話を書き記したものだった。ルシードが知らない世界が部屋中に散らかっていた。
「すっげー…」
感嘆しながら部屋中を物色する。標本、図鑑、書きなぐられたノート、星座の早見表。
それらはルシードにはどんなに手を伸ばしても届かないものばかりだった。夢中になって眺めるそれらはまるでキラキラと輝く星のようだった。
「ルシード?」
「ゼファア」
かけられた声にビクリと肩が跳ね上がった。振り返るとゼファーが怪訝そうにルシードを見つめていた。深い緑柱石の色。栗色の髪。鋭い眼差しは神に誓うように真摯な。
「お前が何故、ここにいる」
「だって、えっと」
詰問するような口調にルシードは泡を食った。声こそしなかったものの友人たちと一緒に帰宅したと思っていたのだ。おまけにここは彼らの秘密の場所だ。都合のいい言い訳など浮かぶはずもなかった。
ルシードは観念して腹をくくった。
「…ごめん。後、つけた」
ゼファーが梯子を上ってルシードに歩み寄る。気の床がギシリと軋んだ音を立てる。殴られることを想定してルシードは思わず身を固くした。
「馬鹿」
そっと触れる指先は優しくルシードの頬を撫でる。拭うように動く指先。目の前に見えるゼファーの顔は微笑していた。
「泣くな」
潤んだ紅い目からぽろっと雫が落ちた。驚いたようにゼファーを見つめる。
「仲間に入れて欲しかったのか?」
クスッとゼファーは笑った。ルシードはごしごしと目をこする。袖が涙に濡れて湿った。
「だって、だってさ、ゼファー、あんな楽しそうに」
ひくひくとしゃくりあげるルシードをゼファーがぎゅうッと抱きしめた。藤色の髪がさらりと揺れた。抱きしめられてゼファーの鼓動が聞こえた。温かな腕。
「…怒らねぇの」
涙に潤んだ紅い瞳がゼファーを真っ直ぐ見つめた。ゼファーは目を眇めて笑った。
「後をつけたことを悪いと思ってるならそれでいい」
驚いたように紅い瞳が見開かれる。
「けど、ここは俺だけの場所じゃない。だからお前がここには入れるのは俺だけのときだけだぞ」
「うん」
ゼファーの胸に顔をこすり付ける。素直なルシードにゼファーのほうが面食らっていた。我を通す強さを持つルシードだ、少しはごねられると思っていた。
ゼファーがポケットを探って硝子製の文鎮を取り出した。円く、水泡を含んだそれは日の光を反射してキラキラと輝いた。その輝きがルシードの目を奪った。
「これを置いておく。その時は入ってもいいときだ」
「ウン、判った」
ルシードが素直に頷く。目に灼きつけようとしているかのようにルシードはその文鎮を眺めていた。
それから毎日、ルシードは隠れ家へ通った。文鎮が表に、けれどルシードにだけ判るようにさりげなく置かれていたときはその文鎮をポケットに収めて隠れ家へと続く梯子を上る。
「来たな」
ゼファーはそれを拒否することもなくルシードの好きにさせていた。文鎮が置かれているのは隠れ家にゼファーだけがいるときで、ゼファーと同年代の友人達と何故だか鉢合わせはしなかった。
年上の少年達のものだと憧れていた標本や図鑑をゼファーは見せてくれた。手ひどく汚しでもしない限りゼファーは怒らなかったしルシードもそれを暗黙の了解のように感じていた。年上の少年たちの秘密の場所にいるというだけで心が躍った。誰かが持ち込んだらしい望遠鏡はとても高価そうで、壊さないようにそうっと覗く画面にいつも胸が躍った。
ゼファーも時々覗いているらしくそんな姿をちょくちょく見かけた。楽しそうに輝く暗緑色の瞳に、魅入られた。夜中に家を抜け出せば必ずといっていいほどゼファーに出くわした。合図のように置かれる文鎮を握り締めて梯子を上る足は軽く、楽しげだった。コッソリ抜け出すスリルとゼファーに会えるという楽しみとに胸をわくわくさせながら梯子を上った。夜闇の中も冷える空気も苦にはならなかった。
「ゼファア!」
弾む声にゼファーはいつも微笑んでくれた。年上の彼らに混じっているという優越感よりもゼファーと二人っきりでいられるという状況の方が嬉しかった。友人達といるときには見せない笑みを、ゼファーは見せた。それがルシードの胸に強く強く灼きついた。
「ゼファ、ア」
グニャリと視界が歪んだ。同時に感じる後頭部への痛み。パチパチと目を瞬くと目の前には見慣れた天井。明かりの消された部屋はそれでもカーテンの隙間から漏れてくる日の光にさらされて。薄い闇。靄のかかったようなそれに体を起こすとベッドから転げ落ちていた。後頭部の痛みはその時に打ったものらしい。
「夢、か」
体を起こし掛け布を跳ね除ける。水場に飛び込んで顔を洗うと次第に意識がシャッキリしてきた。あんなに苦労して忍び込んだ隠れ家もゼファーが通わなくなると途端に足が遠のいた。そして保安学校へと通うことになったゼファーの後を追うようにルシードも保安学校へ入学する。
ずいぶん幼いときの夢を見たものだと振り返る。隠れ家には通わなくなって久しい。簡素な造りだったそこはもうとうに朽ち果てているだろう。
ルシードは頭をフリフリ食堂へ向かった。まだ人の少ないそこにゼファーがいた。
「ゼファア」
その呼びかけにゼファーが微笑んだ。
「ずいぶん懐かしい名で呼んでくれる」
カァッとルシードの顔が紅くなる。それでも頬を掻きながら自分の席へつく。
「ちょっと夢見てさ」
「ほう?」
ゼファーが興味深げに身を乗り出してくる。長い栗色の髪がさらりとなびく。昔は肩へつくかつかないかという長さだった髪も腰へ届こうかという長さに、今はなっている。
「どんな夢だ、ルシード」
興味深げな瞳は追及を緩めない。無邪気な真摯さでルシードを追い詰める。ルシードは腹をくくる。一度腹をくくってしまえば後はどうとでもなれだ。
「ガキのときの夢だよ。ほら、あの隠れ家の」
「あぁ、あれか」
くくっとゼファーが笑った。図鑑やノートを眺めていたときの無邪気さはさすがにもうない。切れ長の目をじっと見つめる。楽しげに眇められた瞳。
「ずいぶんと、懐かしい」
遠くを見るように目を眇める。暗緑色のその瞳には何が映っているのだろう。
「まだ、あるかな」
頬杖をついたルシードの言葉にゼファーは微笑んだ。
「さぁ、な」
「知らねェのかよ」
「そういえば久しく帰っていないな。そう言うお前はどうなんだ」
ゼファーの唇が弓なりに形を取る。楽しげに微笑んだその口元に口付けたくなる。
「オレだって帰ってねぇよ。けど」
「けど?」
ゼファーの声が楽しげだ。ころころと転がるように笑っている。
「残ってるといいな」
「そうだな」
ゼファーの顔が幼いそれとダブった。それは子供の頃のように無邪気に。笑う。
「おはよー!」
元気よく響いた声にルシードの肩が跳ねる。ゼファーがそれを見て堪えきれないように顔を背けて笑った。
「笑うな!」
「なんだ、なんかあったの?」
元気の良い声はビセットのものだ。肩を震わせて笑うゼファーの様子にルシードが顔を歪めた。ビセットだけ訳が判らない。不思議そうな顔にルシードが質問を封じ込めるように言い放った。
「いいから座れ!」
真っ赤な顔で怒鳴るルシードとそっぽを向いて笑うゼファーに何かあったらしい事は知れたがそれを聞き出す勇気がビセットにはなかった。
「テメーもいつまでも笑ってんじゃねぇッ!」
ゼファーに理不尽な怒りをぶつけながらもゼファーのほうはそれを笑って受け流している。
「いや、スマン」
クフフッと言ったそばから噴き出して笑っている。ルシードが頬を赤らめ苦虫でも噛み潰したかのような顔をした。
「なんだよ、一体」
「お前が知らなくていいッ」
首を傾げるビセットにルシードが怒鳴った。
特別に入れてもらったそこは
地図にない、場所
《了》